三
夜の間は空腹を我慢して、紅蜜桃の木の下で一晩を過ごした。
桃花が二胡を演奏してくれたり、天界の詩歌を唄ってくれたりもしたが、腹の虫の音の方が彼の耳にはよく聞こえたものだった。
あまりの飢えに我慢できず崔栖が紅蜜桃を食べようとすると、桃花が恐ろしい形相で制止した。
「この桃の果肉は毒を含んでいる。龍でさえ末期の餐としてしか食べないほどの猛毒だ」
「こんなに甘く美味しそうな匂いを放っているじゃないか」
「紅蜜桃の罠だ。この木は甘い匂いで人を誘い、食べた者が死ぬのを楽しんでいるのだ」
「ただの木だろう?」
「天界の木だぞ」
美しい顔で桃花に強く言われると、崔栖も信じるしかない。
渋々、紅蜜桃を食べるのは諦めた。
「前に、お前と同じように紅蜜桃の実を採りに来た者も、最後はこの実を食べて死んだ。その前の者も、さらにその前の者も。実を盗んだ者は、どうしても自分で実を食べたいという欲求に抗うことができず、実を食べては命を落としている。この実の誘惑に勝った者はひとりもいない」
「だから、誰もこの実を仙郷から持ち出すことができなかったのか?」
「そうだ」
道理で獅崙山の主である龍が紅蜜桃の木の見張りをしていないはずだ。
「龍はなぜそんな毒の実が成る木を大切にしているんだ?」
「それはもちろん、美味いからだ」
当然のことのように、桃花が答える。
「天帝は食べないのか?」
「天帝は召し上がったことはない。天帝は紅蜜桃を食べても死なないが、二十日以上は毒で醜く苦しむ羽目になるらしい。天帝とて、この猛毒から逃れることはできないそうだ」
素っ気なく桃花は言い放った。
仙郷というだけあり、辺りには霞だけはたくさん漂っていたが、食べ物は見当たらない。
近くに小さな滝があったので、水だけはいくらでも飲むことができたが、腹は膨れても力は出ない。
明け方を待って、崔栖は紅蜜桃の実を枝からもいだ。籠いっぱいに入るだけの桃を入れ、桃花の案内に従って山を下り始める。
まもなく、背中の籠からは紅蜜桃の甘い薫りが流れてきた。
口の中には唾がたまり、腹が紅蜜桃を食べたいと崔栖に訴える。一歩足を進めるごとに、背中の籠は肩に重くのしかかってくるように感じられた。
「崔栖、もう少しだ」
前を歩く桃花が、振り返り彼を励ます。
これを人郷まで運べば、籠いっぱいの黄金が手に入るのだ。
桃ひとつ分の大きさの黄金でも、自分たち一家が一生楽に暮らせるだけの銭になるというのに、籠いっぱいの紅蜜桃が手に入った。
妹たちは売られずに済むし、村の隅で肩身の狭い思いをしながら田畑を耕していた自分たちは、これで贅沢三昧の暮らしができる。桃花が嫁に来てくれるのであれば、お大尽でさえ羨むような美しい娘を妻にできる。
こんな夢のような人生は、紅蜜桃という実を手に入れただけで叶えられるのだ。
空腹など、人郷へ出るまでの辛抱だ。
あと少しあと少し、と声に出して唱えながら、崔栖は山道を下った。全身からは汗が流れ、手足は痺れ始めていた。まるで、もうすでに背中の籠の中身が黄金に変わってしまったような重さだ。
獅崙山の麓へ向かっているはずなのに、なぜか辺りの霧は晴れるどころか濃くなっている。視界が悪いため、足下ばかりを気にして歩いていた崔栖は、いつの間にか桃花の姿が見えなくなっていることに気付いた。
「桃花? どこだ?」
声を荒げて名を呼ぶが、山肌に自分の声が響くだけで、返答はない。
「桃花?」
闇雲に歩いては迷うだけだろう、と崔栖は道端に座り込んだ。
欲を出して籠一杯に桃を入れてきたが、こんなに持ってくるべきではなかった、と反省する。
もしかしたらこの霧は、獅崙山の主である龍が自分を迷わすために出しているのかもしれない。龍は紅蜜桃が奪われることをなによりも嫌っているようだ。
(龍が守っている木の桃だというのに、幸運にも桃花と出会えたおかげであっさりと手に入れることができたというのに)
昨日は獅崙山の険しい山道を歩き回ることにはなったが、幾日も山中をさまよう羽目にはならなかった。最初は仙郷の神仙と会えることも期待していたり、獣に襲われることも覚悟していたが、危険な目に遭うどころか美しい天女と出会うことができたのだ。
しかしいまは、桃花との再会より、一刻も早く人郷に出たいと渇望していた。
(こんなところでぐずぐずしていて村に帰るのが遅くなっては、妹たちが人買いに売られてしまうかもしれない。桃花とはぐれてしまったのは残念だが、金持ちになってからまた迎えにくればいいだろう)
一息つくと籠を背負い直し、崔栖は再び歩き出そうとした。
その時、白い霧の向こう側で、グルグルという獣の唸り声のようなものが響いたように聞こえた。
(虎、か? それとも、狼か?)
息を飲み、崔栖は身体を硬くした。
嗅覚が鋭い獣ならば、紅蜜桃の匂いと人の匂いを嗅ぎ分けているはずだ。
(ここで喰われては、村に帰ることができないじゃないか! かといって、大声で叫んで桃花に助けを求めても間に合うかどうか)
辺りを見回しても、武器になりそうな木の枝や大きな石はない。
恐慌をきたしかけた崔栖は、ゆっくりと後戻りをしようとしたところで、足をもつれさせた。そのまま地面に倒れ込む。
背負っていた籠からは、桃がどさどさと転げ落ちた。
(そ、そうだ。桃花が、この桃は毒だと言っていたじゃないか。獣にこの桃を食べさせれば良いんじゃないか?)
目の前に転がっている紅蜜桃を崔栖は手に取った。これだけたくさんあるのだから、ひとつやふたつ獣にやったところで惜しくはない。問題は、獣がこの桃を食べてくれるかどうかだ。
(獣の口に無理矢理押し込んでしまうのが一番だろうな)
そのためには、獣が襲ってくるのを待つしか無い。遠くから投げても、獣の口に入らなければ無駄になるだけだ。
よし、と崔栖は紅蜜桃を手にして、獣が現れるのを待った。
霧はいっこうに晴れる気配はなく、少し離れた場所でグルグルと喉を鳴らすような音や獣の遠吠えが聞こえるものの、姿は見えない。
早く来い、と心の中で念じるものの、しばらく経っても獣は襲ってこなかった。やがて、唸り声も聞こえなくなった。
相変わらず辺りは乳白色の霧に包まれているが、崔栖の緊張はほどけていた。
肩を落として溜息を吐くと、背中の籠を下ろして落ちた桃を拾う。落ちた際に痛んだのか、わずかに薄皮が剥けている桃があった。紅い皮の下にはさらに真っ赤な瑞々しい果肉が顔を覗かせている。わずかに手に垂れた果汁が、輝いて見えた。
(果肉に毒があると言っていたが、汁を舐めるくらいなら、大丈夫なんじゃないか?)
手を鼻に近づけると、甘美な香りが食欲を誘う。腹の虫が、盛大な音を立てて早く食べろと彼を急かす。
(これは食べるんじゃない。舐めるだけだ、舐めるだけ)
舌を伸ばして、手に零れた果汁のひとしずくを舐めた。
その瞬間、崔栖の身体は硬直した。




