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紅蜜桃  作者: 紫藤市
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 西の空が宵闇に染まる頃、風に乗って甘い薫りが漂ってきた。

 その上品で(かぐわ)しい匂いに気を取られた崔栖が立ち止まると、桃花は岩の上で急かすように手招きした。

「早く来い。紅蜜桃の木はもうすぐそこだ」

「あの匂いが紅蜜桃の香りか?」

 なんともいえない甘美な芳香に、崔栖の紅蜜桃への期待が高まる。

「この先の窪地に紅蜜桃の木があるが、ここは獅崙山の(あるじ)である龍の通り道だ。主に見つかっては厄介だから、さっさと進め」

 辺りは薄暗くなり視界が覚束無くなってきたこともあり、桃花は崔栖の上衣の裾を引っ張りながらさらに奥へと彼を導く。

 芳醇な甘い薫りに導かれながら夜陰の中を歩いていた崔栖は、背丈よりも大きな岩を横切ったところで目の前に現れた仄めく灯りに目を瞠った。

 よく見ると、大きな一本の木の枝という枝にたわわに実った桃が淡い光を放っている。実のひとつひとつが、紅く輝いているのだ。

 呆けたように崔栖がその木を見上げていると、桃花が木の前に立ち、枝を揺らした。

「これが紅蜜桃だ」

 たくさんの桃の実が成っている枝は、重そうにしなっている。そのすべてから得も言われぬ甘い薫りが漂っていた。

 初めて紅蜜桃を見る崔栖にも、これが紛れもなく仙郷の桃であることは確信できた。

「この紅蜜桃は、かつて獅崙山の(あるじ)だった龍が、天帝から賜った桃の種をここに蒔いて育てた物だ。初めて実をつけてから五百年以上経っているというが、一年中実をつけている面妖な木なのだ」

 なぜか桃花は恨めしげに木を見上げた。

「獅崙山の主は、我が子のようにこの木を大切に育てていた。誰にもこの実を食われないようにと、実にまじないをかけたのだ」

「まじない?」

 木に近づいた崔栖は、枝の一本を掴むと、鈴生りに実っている桃を凝視した。

 噂以上に香りは官能的で、色鮮やかな皮は赤子の頬のようだ。そっと指先で触れてみると、柔らかな肌触りと同時に、甘い匂いがいっそう深まったように思えた。

「この仙郷では桃だが、人郷(ひとざと)では冷たい黄金に代わるというまじないだ。龍にとって、匂いも香りも味もない黄金など、なんの価値もないからな」

「では、これを人郷へ持っていけば、黄金に代わるのか……」

 歓喜のあまり、崔栖は身体の芯から震えるのを押さえることができなかった。たわわに実る桃はすべて、龍の独占欲によって人郷では黄金になるというのだ。食べてしまえばそれで終わる桃の方が龍にとっては黄金よりも大切だというのだから、龍の考えていることはわからない。

「しかし、それほど大切ならば、なぜ龍はこの木を見張っていないんだ? あんたはこの木の番をしていると言っていたが、俺にはあんたがこの桃を人が盗む手助けをしているようにしか思えない」

「手助けをしているというか、私はこの木が枯れるのを待ちわびているのだ」

 木の根元に腰を下ろすと、桃花は自嘲めいた笑みを浮かべた。

「この紅蜜桃の木は、かつて天界の天帝の庭にも植えられていた。その木に実っていた桃のひとつが五百年前、獅崙山の主に与えられ、ここでこのように実ることになったが、天界にはもう紅蜜桃の木はないのだ」

 提灯の灯りのようにぼんやりと光る桃の実を見遣り、桃花は訥々(とつとつ)と語りだした。

「二百年前、私は天界の天帝の庭で紅蜜桃の木を枯らしてしまったのだ。私は天帝の庭木の手入れをする役目を仰せつかっていたが、どうも草木の世話が苦手で、よく木々を枯らしてしまっていたのだ。どうして枯れてしまうのかはよくわからぬが、とにかく私が世話をすると枯れてしまうのだ。そしてある日、紅蜜桃の木を枯らしてしまった」

「なぜ、植物を枯らすあんたに天帝は紅蜜桃の木の世話を任せたんだ?」

「紅蜜桃の世話をするよう、私に命じたのは、私の先輩格の天女だ。彼女は私の立場を悪くしようと企んだらしく、私がすぐに植物を枯らしてしまうことを知っていながら、紅蜜桃の世話をするように命じたのだ」

 まったく、と桃花が恨めしげな眼差しで、夜空に視線を向けた。

 銀色に輝く星々は冴え冴えとしており、漆黒の空の彼方にあるという天界の様子は、地上からは窺い知ることができない。

「その天女が執心していたとある神が、私に懸想していることをやっかんで、紅蜜桃の世話を私にさせようとしたのだ。迷惑な話だ」

「断ることはできなかったのか?」

 天界では醜い争い事などないものと考えていた崔栖は、驚きつつも尋ねた。

「天女にも上下関係はある。断ったところで、別の面倒事を押し付けられるだけだ」

 悟りきった口調で桃花は答えた。

「それで、紅蜜桃の木を枯らしたあんたはどうなったんだ?」

「天帝の怒りを買い、地界に堕とされた。その際、獅崙山の紅蜜桃の木が枯れるまで、天界に戻ることを許さないと宣告されたのだ」

「随分と勝手な話だな。そんなに大切な木なら、自分で世話をすればいいじゃないか。天帝は、あんたが植物を枯らす体質だってことを知らなかったのか?」

「天帝はご自身の庭の世話をする使用人の欠点までは、いちいち把握しておられぬ」

 桃花は紅蜜桃の木に視線を移すと、木の幹を撫でた。

「この紅蜜桃の実を、天界に持って帰って育てればいいんじゃないのか?」

 しばらく考えてから崔栖は提案してみたが、桃花は即座に首を横に振った。

「天界では、地界の土に触れて育ったものを不浄と見なす。この紅蜜桃の木も、この木に成った実も、天界では(けが)らわしい物として扱われるだけだ。天界に持ち込むなど、言語道断。しかし天帝は、自分が失った紅蜜桃の木が獅崙山にあることがお気に召さないのだ。だから、木が枯れるまで私に番をしろとおっしゃった」

「それで、二百年も番を? でも、草木を枯らすのが得意だと言う割りには、まだ枯れそうに見えないな」

 崔栖が見る限り、紅蜜桃の木は生命力に溢れている。

「どういうわけか、地界の植物は私が世話をしても枯れないのだ。この紅蜜桃の木も、数日で枯れるだろうと見込んでいたのに、二百年経ってもこのように実をつけている」

 困惑した様子で桃花は紅蜜桃の木を睨む。

「五十年ほど経ってようやく、どうやらこの木を枯らすためには、桃の実を人郷へ持ち出させる必要があるようだということがわかったのだ。この実のひとつでも黄金になれば、木は枯れるよう、いまの獅崙山の主が、代替わりした際に木にまじないをかけたらしい」

「なぜ?」

「黄金の実がいくらでも採れると人が知れば、強欲な者どもが大挙してこの獅崙山に押し寄せるだろう? いまの主はそれが嫌らしい。かつては大勢の人が紅蜜桃の木を探して山に入ってきたこともあったが、そういった輩は主が威嚇して追い払っていたものだ。おかげで、獅崙山には人食い龍が棲んでいるという噂が流れ、紅蜜桃を採りに来る者はめっきり減ってしまった」

「俺は、そんな噂は聞かなかったぞ。聞いたからといって、黄金の桃を手に入れる機会を諦められないくらいの貧乏人だけどな。しかしそれなら、あんたが紅蜜桃を人郷へ持ってくればいいんじゃないのか?」

「私は仙郷から出ることができない。この獅崙山に幽閉されている身だ。だから、お前のように紅蜜桃を探しに来た者を、こっそりと手助けしてやっているのだ」

 憂いを含んだ眼差しで紅蜜桃を見つめながら、桃花は溜息を吐いた。

「紅蜜桃の木が枯れたら、天界に戻るのか?」

 木の根元で座り込んだ桃花の前に膝をつくと、崔栖は恐る恐る尋ねた。

「天界に戻ったところで、また天帝の庭木の世話をする仕事が待っているだけだ。獅崙山から出られるなら、天界に戻らずとも地界で面白可笑しく暮らしても良いと考えている」

「じゃあ……」

 口の中に溜まった唾を飲み込み、崔栖は一気に捲くし立てた。

「もし良かったら俺の村に来ないか? 黄金の桃を売れば俺は大金持ちになれるし、家だって立派な屋敷にできる。俺が生きている間だけでも、俺のところに来てみないか。特になにがあるわけでもないが、家族だけは多くて賑やかなところなんだ」

「お前の家? そうだな。それも面白そうだ」

 特に考えることもなく、桃花は首を縦に振った。

「人郷で暮らすのも一興というものだ」

「俺の……よ、嫁さんってことにすれば、村の連中もすぐにあんたを受け入れてくれるはずだ」

 こんな美しい娘を嫁にもらったら、村で一番の果報者と千年先まで語り継がれるに違いない、と崔栖は夢想する。

「悪くない提案だ」

 即座に桃花は受け入れた。

「お前が首尾良く紅蜜桃の実を人郷に持ち出して、この木を枯らしてくれるならば、嫁になってなる」

 高飛車ではあったが、桃花は約束した。

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