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紅蜜桃  作者: 紫藤市
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 古来より霊峰(れいほう)と名高い獅崙山(しろんさん)の中腹は、神仙が集う仙郷(せんきょう)だ。

 その仙郷に紅蜜桃(こうみつとう)と呼ばれる地上でただ一本しかないという(まれ)なる桃の木の話を、崔栖(さいせい)は行商で訪れた市場で耳にした。

 熟した実はまるで紅玉のように赤く、馥郁(ふくいく)たる香りと甘露(かんろ)のような味の仙桃(せんとう)だという。

 それだけなら崔栖はさしたる興味を持つこともなかったが、背後から聞こえてきた一言が彼を獅崙山へと向かわせた。

――紅蜜桃の実は仙郷では天餐(てんさん)の桃だが、(ひと)(ざと)では黄金に化けるらしい。

 桃ほどの大きさの金が手に入るとなれば、市場で(むしろ)の上に野菜を並べて売っている場合ではない。すぐさま露店を片付けると市場を離れ、三日三晩歩き続けて獅崙山に辿り着いた。

 墨を流し込んだような岩が険しくそびえる獅崙山を目の前にした崔栖は、無我夢中で歩いてきたものの、どこに紅蜜桃の木があるのかまったくわからないことに気づき、途方に暮れた。辺りを見回しても白い霧が漂うだけで、道案内をしてくれそうな仙人の姿もない。

 そもそも、そう簡単に紅蜜桃が手に入るのであれば、皆が獅崙山に殺到しているはずだ。

 自分の浅はかさに落胆した崔栖は、岩壁に寄り掛かって大きな溜息を吐いた。このまま手ぶらで帰るのは癪だが、名案があるわけでもない。ふて腐れながら痩せた身体を地面に投げ出すようにして仰向けに寝転がり、「紅蜜桃なんて、どうせただの虚伝(きょでん)だったに違いない」とぼやいたときだった。

「お前、紅蜜桃を探しに来たのか?」

 頭上から涼やかな声が降ってきた。

 崔栖が顔を上げると、尖った岩の先端に十代半ばくらいの若い娘が立っていた。

 ゆったりとした袖の(さん)に身を包み、色鮮やかな絹の腰帯を巻いている。艶のある黒髪は無造作に結い上げられている。(かんざし)や首飾りなどの装飾品は一切身に付けていなかったが、その飾り気のない装いが白い肌と天女と見紛うほどの美貌を一層際立たせていた。

 長い睫で彩られた大きな双眸を崔栖に向けた娘は、たおやかな笑みを浮かべている。

「だったらどうだって言うんだ」

 疲労で意識が朦朧としていたこともあり、なぜこのような山奥に若い娘がいるのかという疑問は沸かなかった。

「私が紅蜜桃の木が植わっている場所まで案内してやろう」

 尊大な口調で娘は宣言すると、軽い身のこなしで岩から飛び降り、(じゅ)の裾をひらりと舞い上がらせながら崔栖の前に立つ。

 娘は藍色の錦の帯を腰に巻き、淡い朱色の肩巾(ひれ)を手にしていた。履いている金糸銀糸で刺繍が施された絹の靴は、とても山歩きができるようには見えない。

 この娘は獅崙山に棲む妖怪だろうか、と崔栖は考えた。

 だとしたら自分はここで喰われてしまう運命か、と死を覚悟する。骨と皮しかない上、生まれたときから貧しい暮らしをしている自分が美味い餌になれるとは思えなかったが、喰いたいなら喰いやがれ、と半ば投げ遣りな気分に陥っていた。

 そんな彼の心中を知ってか知らずか、娘は腰に手を当てて崔栖を見下ろす。

「獅崙山はやたらと広く難所が多い。一度迷ったら最後、お前のように山に不慣れな者は生きて下山はできぬぞ。この辺りは仙郷とはいえ、虎や狼も棲んでいる。人の身ではすぐに喰われてしまうぞ」

 軽装の崔栖を見回して娘がもっともらしい口調で諭す。

「あんたは、俺を喰わないのか? 俺を紅蜜桃のところまで連れて行ってくれるって言うのか?」

 娘が妖怪の類ではないかという懸念は拭い去ることはできなかったが、多少警戒心は和らいでいた。

「連れて行ってやるとも。私はこれでも獅崙山に二百年ほど棲んでいる天仙(てんせん)だ。お前、私を化け物かなにかかと思ったのか?」

 むっと顔を顰めた娘は、白い手を振って崔栖に立つよう身振りで命じた。

「私は人など喰わぬ。人に限らず、地界の物はなにひとつ喰ってはならぬ身だ」

 大きな溜息を吐くと、恨めしげに雲が棚引く空を仰いだ。

「私はある粗相(そそう)をして、天帝のお怒りを買ってしまったのだ。その罰として、地界に()とされ、獅崙山で紅蜜桃の木の番をしている」

 ゆっくりと歩き出した娘は、子供のようにふて腐れた表情を浮かべてぼやいた。

「まったく、あれしきのことで憤慨するなど、天帝も心の狭きお方であることよ」

 自分の失敗は棚に上げて、娘は天帝をなじった。

「お前、名前は? わたしは桃花(とうか)だ」

「崔栖」

 すぐさま彼は答えたが、聞こえているのかいないのか、桃花は西の空に浮かぶ夕陽に視線を向け、もうすぐ日が沈むな、と呟いた。

「紅蜜桃の木は神仙(しんせん)だけの秘密だったりはしないのか?」

 慌てて荷物が入った籠を背負いながら崔栖は桃花の後を追い掛けた。

「別に秘密でもなんでもない。山の奥深いところにあるものだから、案内無しにはなかなか行き着けないだけだ。だからこうして、私は道案内を買って出てやっている」

 最初は自分の足で歩いていた桃花だったが、斜面の勾配が急になると天女らしく身体が宙に浮いた。歩くのが面倒になったらしい。

 岩と岩の狭い隙間を桃花に続いて歩いていた崔栖は、次第に胸が苦しくなるのを感じた。辺りの空気が薄くなっているようだ。荒い呼吸を繰り返し、晩秋だというのに汗だくになりながら山道を進む。

 日没が近づき辺りは薄暗くなり始めていたが、桃花の身体の輪郭だけは宵闇の中でも仄かに浮かんで見えた。

「ところで、紅蜜桃が人郷では黄金に化けるというのは本当の話か?」

 苦労して山を登ったはいいが、紅蜜桃が実は仙郷で()れるただの桃では割に合わない。先に確認しておかなければ、疲労困憊している両足はこれ以上動きそうになかった。

「本当だ。お前は、金が目的か?」

 ふわふわと地面から両足を離し、宙を浮かんで進んでいた桃花が、くるりと振り返った。

「あぁ。黄金の桃が手に入れば、妹たちは売られずに済む。家族全員が一生食い物に困らない暮らしができるようになるはずだ」

 崔栖の家は貧しい農家だ。狭く貧相な土地で穫れる作物だけでは暮らしていくことができず、この冬には妹二人が年季奉公に出ることが決まっていた。

「なるほど。お前なら、紅蜜桃を人郷に持ち出すことができるかもしれぬな」

「どういう意味だ?」

 するすると断崖を登っていく桃花を必死で追い掛けていた崔栖は、紅蜜桃に関してかすかな不安を覚えた。

「実は、これまで誰一人として紅蜜桃を仙郷から持って出られたことがないのだ」

 立ち止まった桃花は崔栖を振り返ると、深刻な表情を浮かべて告げた。

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