飛び立つピンク
月曜に持ってきたジャージが、次の日に泥まみれで運動場に捨てられていたのを見て、学校に私物を置いておくのは危険だということを知った。
誰とも口を利かない部活が終わり、パンクした自転車を押しながら家路に就く。
冬に入りかけた十一月の秋風は、驚くほど早く太陽の光を流してしまうようだ。沈んだ太陽に代わるかの様に、金星が小さく細く輝いている。
枯葉が流れる。
冬の冷たい空気がツン、と鼻に沁みて涙が出そう。
一年以上前に卒業した小学校が見える。屋上には小さなプラネタリウムがあって、一度だけ人工の星空を眺めた。
僕はあの頃の様に、無邪気で気も遣わないで一緒にいられると思っていた。
馬鹿らしいと思う。
僕の思春期は他の同級生よりも少し遅くて、その分まだ、ただの子供だったのだ。
合唱祭の当日。
近くの文化ホールを貸切一日がかりで行われるイベントの、その朝。
僕たちのクラスも多分に漏れず、最後の悪あがきの様に練習していた。
冷たい晴れた空。
抜ける様な青と空気。
コートを着込んで喉を温める僕たちを、担任の教師は微笑ましそうに眺めている。個々人が内に秘める感情も知らず。
練習を切り上げる時間になり、円陣を組んで気合を入れよう、と担任が提案した。皆が賛成し、「じゃあ委員長、お願い」と子供みたいな笑顔で僕に笑う。
一瞬の沈黙。
ふ、と体温が下がる錯覚。
「こういうのは指揮者の方が良いですよ」
なるべく平静を装う。装えただろうか。クラスメイトはきっと、吹き出したくなるほど僕を滑稽に思っているだろう。教師は、担任は、大人は、子供の事情などまるで理解できない。
「じゃあ○○、お願い」
指揮者の名前を呼び、本人も了承して、僕たちは掛け声をあげて手を合わせた。
結果だけ言えば、僕たちのクラスは同学年の中で金賞を取り、学校全体では銅賞だった。
今年で最後と意気込む三年生がいる中でのこの順位は、十分な健闘と言える。
僕は口から出るままに、練習通りに歌を唄った。唄ったのか、よく覚えていない。
僕が何をしようが、僕が何を思おうが、僕がいようがいまいが、何も変わらないのだと思った。
表彰式が終わり、現地で解散する旨を担任が伝える。みな駐輪場に向かう中、僕は歩いて家に帰り始めた。まだ自転車が直っていない。直す気もあまり、起きなかった。
それからの僕はもう本当に駄目で、なるべく目立たない様に俯いていた。
少しでも目立つと、すぐに周囲を伺って、そんなはずないのに、笑われていないか確認していた。もう自分は関係ない。誰かが誰かと笑っていると、それは僕をバカにして笑っているのだと思い込んだ。
自殺したいとは思わなかったけれど、
漠然と、
消えてしまいたいと願った。
何もかもなかったことにしたい。世界中のすべてが消えればいい。でもそれはできないから、だったら自分が消えればいい。そんな風に、毎日をやり過ごしていた。
他人と触れ合う距離を忘れたまま、季節が過ぎ、また春がやってきて、新年度を迎えた。
新学期になりクラス替えが済むと、僕に対する嫌がらせはパッタリと止んだ。
親友だった彼もYもKも同じクラスだったけど、パッタリと止んだ。
積極的な行動が無くなっただけで、僕をいないように見るのは相変わらずだけど、少しだけ楽になった。
中学校最後の年に、そんなバカなことをやっていられないのか。
部活動最後の年に、そんなバカなことをやっていられないのか。
受験生の毎日に、そんなバカなことをやっていられないのか。
そのどれもが当てはまるのだろう。
何も起こらない毎日が続く。
不思議なくらい、物凄い速度で過ぎて行ったように思う。
一つ一つ記憶を確かめれば通過してきたはずなのに、地続きで今の自分に繋がっている自覚が無い。
二回戦で敗退し、引退が決定した総体は大泣きしたし、
柄にもなく頑張った二学期の期末考査で高得点を取ったことも覚えている。
だけどその実感が無い。
夏休みもお盆が過ぎ、残りの時間の短さに焦りと寂しさを感じている頃、僕はKと会った。
実家で過ごしたお盆の退屈さを笑い、もうすぐ夏休みが終わってしまうことを嘆いた後、Kは言った。
「あたし、体操で推薦受かったんだ。高校からは向こうで寮暮らし」
ドキリ、とした。
僕たちの地域で言う『向こう』とは、ここから車で二時間ほど走ったところにある、県庁所在地の事を言っている。Kは来年からそっちの高校へ入学する。おめでとう、と僕は言ったと思う。
やりたいことが好きなだけできる環境なんだから、祝福するのが当たり前なのに。
この気持ちはなんだろう。
僕もやっぱり推薦で、地元の県立高校への入学が決まっている。あと半年余りで、Kとは離れ離れになる。
この気持ちはなんだろう。
車でたった、二時間の距離なのに。
最後の合唱祭は銀賞だった。
手をたたき、抱き合ってはしゃいでいるクラスメイトが、妙に離れて見える。場違いな場所に紛れ込んでいるようだ。
そして僕は、卒業した。
最後のHRで、親友だった彼に「今までごめん」と言われた。くそくらえ。