君が好きなブラック
それから次の日は、休み時間を極力教室の外で過ごした。
授業の合間にある休憩も昼休みも、放課後だってじゃあね、と言ってすぐに教室を出る。予感がする。何か悪い予感がする。
グラウンドの隅で練習着に着替え、僕は部活動に参加する。
今日も顧問は来れなくて、部員を半分に分けて紅白試合をしろ、とだけ指示を出した。
僕たちの野球部は総勢二十七人で、今年入ってきた一年が半数以上を占める。とりあえず三チーム作って、ローテーションで試合をすることにした。
僕は二チーム目の投手をやることになった。投手の数は四人いたが、試合では大体いつも僕が二番手を務める。エースが右ひじを故障した時も、毎試合登板していた。
戦績は五分五分。打撃の調子が良ければ勝てる試合運びを出来ていた。
上背もなく手も短く小さい僕は、速球派の投手にはなれなかった。いつか漫画で読んだ、「左投手はサイドスローの方が有利」と言う情報を鵜呑みにして、フォームを作り、打たせて捕る投球をしていた。相手が打撃力のあるチームだと、あまり勝てなくなる。
今日も打たせて捕ってもらえる様に投げるべきなのに、なぜだか無性に三振が取りたかった。普段よりも意識的に速球を使い、大きく弧を描くスローカーブで打者を仕留めにかかる。だけど今日に限って、三振は一つも取れなかった。下位打線を任されている一年生にも、カーブを引っ掛けられてゴロにされる。本番だっていくつか三振を取れるのに、今日は全く取れない。全く取れなかった。誰も手が出せないくらい速い球が投げられたら良いのに。
そんなことを数日続けた。
三振はいくつか取れたけど、相変わらず授業以外は教室に寄り付かず、トイレや校舎裏や、図書室へ行って時間をつぶした。
何度か親友とYからメールが来た。
『今日、Yと一緒に帰ったよ。今スゲー嬉しい』
おめでとう、と僕は返信する。
『Kにメール送った?まだ来ない、って怒ってるよ』
また今度、と僕は返信する。
その気になれば直接言える事を直接言わないのは、僕が避けていると分かっているから
だろう。それでいいと思う。
親友はYだけを。
Yは親友だけを。
出来れば見ていて欲しいと思う。
Kには悪いことをしているが、僕は器用じゃないのできっと上手く出来ない。
Kと話していたら、Yとだって話すことになる。
僕はYと話すことよりも、親友を失くすことの方が怖かった。
何故かその二つが、イコールで結ばれていた。
やきもち。嫉妬。
そんな言葉を連想するが、親友がそういった感情を持っているとは思いたくない。思い
たくないけれど、間違いなく持っているだろうと僕は確信している。Yと話していたあの日。後ろの席で座っていた親友の無表情は、間違いなく、僕を非難していた。Yの隣が僕で良かった、と言ったその真意はなんだったのだろう。気安く格好良い僕の友達を演じてくれているのだろうか。それとも、自覚の無いままあんな表情をしていたのだろうか。
どちらにせよ僕にできる事は、何か結果が出るまで大人しくしている事くらいしかない。
他に思いつかないのだから仕様が無い。それとも、親友を焚きつけてみようか。次に僕の家でコカ・コーラを飲むときに。
おまえ、いつ告白するんだよ、って。
告白のセッティングは、二人で考えた。
沈む夕陽と染まる空。
黄金色の教室の中で、二人きり。
ベタと言えばこれ以上ないくらいの安易さで、僕たちは盛り上がっていた。
他の生徒が入って来ない特別教室を利用して。
部活動は休むと言って。
親友は今日、告白する。
『報告は絶対するから。待っててくれ』
親友の言葉に従って、僕も今日は学校に残っている。部活動に出る事も考えたけど、いつ連絡が来るかわからないのでやめた。
校舎中央にある螺旋階段を降りて、昇降口正面の中庭に出る。自動販売機で缶コーヒーを買って、浅葱色のベンチに座った。ここはもう暗い。三方を校舎と体育館に遮られていて、傾いだ日差しは入ってこない。申し訳程度に設置された電燈と自動販売機の光が、かろうじてその存在を主張している。
ラジエータの唸る音。
鼻に沁みる冬の訪れ。
野球部の掛け声が聞こえて、吹奏楽の演奏が止んだ。
吹奏楽部は練習を早く上がる。多分もうこれで、今日は楽器が鳴る事は無いだろう。その後で、Yを呼び出す手はずになっていた。
いつ親友がYを好きになったのかは知らない。いつの間にか僕らの話題に現れて、今日彼は、彼女に告白する。
コーヒーを一口すする。
苦くて、とても不味い。
僕自身事について考えてみれば、やはりYの事は気になる。でもそれは席替えをして初めてまともに話した時からで、親友の方がずっと前から、真摯に、彼女が好きだと言っていたのだ。僕は争いたくなかった。何でもそつなくこなし、顔も頭も運動神経も良い親友に、勝てるわけがないと思っていた。勝手なコンプレックスを抱いて、勝負することすら放棄している。もし仮に、僕がYを好きだと自覚しても、そんな想いは封印しておこうと思っていた。
でも多分、僕が今Yに感じている思いは、恋なんてものじゃなく、きっと――。
「ハロー。何してるの?」
「……K」
ガラス張りの引き戸を開けて、Kが僕に手を振っている。
彼女は僕を名前で呼ぶ。と言うより、クラスメイトをそう呼ぶ。彼女の中にあるルールなのだろう。こちらに歩いてくるKは制服の上にカーディガンを着ている。学校指定の地味なセーターではなく、目立つ水色のカーディガンだ。こんな色の上着を着ているのは、彼女くらいしか見たことが無い。暗闇の中でぼんやりと光る様に浮かび上がるそのカーディガンを見て、この子はやはりYの友達だな、と思う。極端に目立ったり、極端に地味だったりしてもつまはじきに遭う女子グループの微妙なパワーバランスの中では、擬態の様に溶け込む無個性が必要なのだ。彼女とYは、その点にあまりにも無頓着だ。だけど性格か器用さか。一方は上手く付き合い、一方は孤立しつつある。
「部活?」
「ううん。今日は休み。元々私一人しかいないから、部活ではないんだけどね」
僕の隣に自然に座る。間には人一人座れるくらいのスペースが空いている。
この学校に体操部はない。体操を続けたいと言った彼女の意志と、全国大会にまで出場できる実力が、特例として認められた。彼女はたった一人で、体育館の小さなスペースを間借りして練習している。
「Yと帰る約束してたんだけど、電話でないんだよね。メールしても返ってこないし」
それは今僕の親友がYを呼び出しているからだ。言えないけれど。
「部活が長引いてるんじゃない?コンクール近いらしいし」
適当な相槌を打つ。
そんなことは彼女も分かっているだろうし、今演奏の音がしないことも彼女は承知しているだろう。
そうかもね、と言って、足をのばす。薄闇の中、青白い膝にドキリとした。
「……何か飲む?」
自動販売機を指差し、買うよ、と付け足す。
「良いの?やった。じゃあミルクティ」
あいよ、と言って立ち上がり自販機に向かう。
温かいミルクティを買って取り出して、やはり僕が感じているのは気まずさだな、と思う。
結局今日まで、Kには一切メールしていない。連絡先をもらっておいて、そのまま放置していた。
彼女はどんな気持ちで僕に連絡先を教えたのだろう。
今更、そんなこと考えた。
ミルクティを渡すと、彼女はサンキュー、と言ってすぐにプルタブを開けて一口飲んだ。
僕は立ったまま、置いていて冷めた缶コーヒーを掴み、一口飲む。
やっぱり苦い。
「ねえ」
唐突に、彼女は言った。
「Yのこと好き?」
彼女を見る。
俯いて、ブラブラと所在無げにさせた爪先を見ていた。
「好きじゃなよ」
嫌いでもないけど、と言いかけてやめた。
「本当かなあ?だってYにはあからさまに態度違くない?他の女子と違って話盛り上がるしメールもしてるみたいだし今だって、」
隣に座るの嫌みたいだし、と言って、僕をチラリ横目で見る。
「……ごめん」
これはなんだ。彼女はもしかして、と考えて、慌ててそれを否定する。だってそれは、あまりにも自惚れていて自意識過剰だ。ほら、彼女は誰にだって優しいし、誰にだって好かれる。僕にだけ特別優しいなんてことは無い。だからこれは、嫉妬なんかじゃ決してない。
「Yじゃないなら、シキは好きな人いないの?」
親友にも訊かれた質問だ。あの時はKが気になると言った。
「いないよ」
それが本当の所だと思う。所詮親友と交わしたゲームみたいな思い込みに、僕は楽しむことは出来てものめり込むことは出来なかったんだ。
そっかあ、とため息と一緒に言って、彼女は空を仰ぐ。冬だね、とよく分らないことを言った。
「Kはいないの?好きな人」
普 段こんなことは訊いたりしないのに、話の接ぎ穂を失った僕は半ば無意識に質問していた。
「いるよ」
あっさりと答える。
「いるけど、完全に片思いなんだ。告白しちゃった方が良いのかな?でもなあ」
そのあとを続けず、またため息を漏らす。
「今まで付き合ったことあるの?」
「ううん。告白したこともないよ。でも好きだから」
告白するのは当然でしょ?そう言われた気がした。人を好きになったんだから、と。彼女は苦笑しているのに、僕は糾弾されている気がした。
Yの事は気になる。
親友と勝負したくない。不戦敗。コンプレックス。
頭をよぎった言葉に、かぶりを振る。
違う。違うのだ。
僕がYを気になってるのは、恋じゃない。親友と勝負にすらならないのは、僕のコンプレックスじゃなく元が違うから。
だからきっと――、
僕は彼女を、彼女との会話を、独り占めしたいだけなんだ。
それが、僕が目を背けていた感情の正体だ。浅ましくて醜く、見ないふりをしていた。
彼女は真っ直ぐに誰かを好きで、その想いに疑いもない。僕みたいに思い込もうともしていない。
闇の中で輪郭のぼやけた彼女の顔を見る。
寒さのせいか、少し鼻が赤い。
ぬるくなっているであろうミルクティを一気に呷り、彼女は立ち上がる。
「もういく。Yも連絡取れるようになったかもしれないから。これありがとう。ごめんね、邪魔しちゃって」
一息に言って、鞄を掴み、彼女は歩き出した。
両手を大きく振って、足を投げ出す様に歩く。芝居みたいに、大袈裟な明るさを演出しているように思えた。
「K」
ピタリ、と止まる。
「ん?」
振り返った彼女は、いつも教室で見る表情だった。明るくて、何か楽しいことがあるんじゃないか、とわくわくしている様な瞳。
「今日メールしていい?」
一瞬の無表情。目を逸らしたかった。
「うん」
だけど、すぐに彼女は微笑んでくれた。
そんなことに、ひどく安心している。
「待ってるね」
バイバイ、と言って、彼女は出て行った。
連絡を取るくらい、別にいいじゃないか。それに今日で決着がつくんだから。
誰に言うでもない言い訳を思い浮かべながら、僕はまたベンチに座る。今何時かを確認するために、カバンから携帯を取り出すと、二件のメールを着信していた。
『さっき■■から告白された』
一件目のメールはYからだった。着信時刻は17時23分。今から30分ほど前だ。
そして二件目は。
『フラれた。ごめん。先に帰るわ』
十分前に届いていた。僕の親友からのメールだった。
ああ。
それはないよ。
冷えたコーヒーを呷り、飲み干す。
苦くてまずい。本当に。