誰もいないオレンジ
丁度今日から、文化祭のクラス練習が解禁となった。
音楽の時間では既に練習に入っていたが、これからは昼休みや放課後も使って練習できるというわけだ。僕たちのクラスは、他のクラスがやっているようにまずパート別練習を始めた。テノールの僕は、他のパート練習の邪魔になるくらい大声で唄った。恥ずかしがって縮こまっていると、本番ではもっと声が出なくなると考えているからだ。横で唄う親友は、綺麗な声で丁寧に唄っている。本当、何だって器用にやってみせるものだな、と思う。
顔を真っ赤にして大声を張り上げている僕を見て、笑っている奴もいた。横目で僕を見ながら、友達と何か話している。僕と目が合うと、鼻で笑って視線を外した。これが僕の、融通の利かないところだと思う。
突き抜けて素晴らしければ、誰もが認めるのだ。でも僕にはそれが出来ない。どんなに練習しても、僕は美しく唄えない。僕はただ大声を張り上げて、顔を真っ赤にして唄うしか方法が無いのだ。父親の事をからかわれたジョバンニの様に、恥ずかしくてどうしようもなくても。
最後に全体練習をして、その日の放課後は解散となった。僕はそそくさと教室を出て、誰の顔も見ずに校舎から抜け出した。部活動に出るのが億劫になってしまった。そのまま帰ろう。駐輪場から自分の自転車を出し、裏門から学校を出た。
Yに触発されて、何度目かの『銀河鉄道の夜』を家で読んでいると親友が訪ねてきた。
「よう。今いい?」
僕たちはまたコカ・コーラを買い、軒先に座った。
夕飯時なのに、僕の家には僕以外の誰もいない。カレーの匂いが漂ってきたので、今日はコンビニでカレーを買おうと決めた。
「今日Yと話してて、お前の話になったよ。あんなに本に詳しい人初めてだ、って。自分の事は棚に上げてんのな」
今日は特にYとそんな話にならなかったので、よほど昨日のことが印象的だったのだろう。彼女の周囲に、読書を趣味にしてそうな友人はいそうにない。そもそも友人自体が少ないのだろうし。
「『銀河鉄道の夜』」
「ん?」
「読んでた本、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』なんだろ?持ってたら、貸してほしいんだけど」
読んだことないから、とブツブツと呟く様に言った親友を見て納得した。こいつはYとの共通の話題を作りたいのだ。
それならば喜んで。
元々Yは僕と話す必要なんてないのだから。
「ちょっと待ってて」
部屋の本棚から『宮沢賢治全集』の第七巻を抜き出す。
さっきまで読み返していたのは、全集ではなく新版で出ているものだ。
第三次稿の載っている文庫はこれしか持っていない。読み返していた文庫も含めて、他は第四次稿の銀河鉄道だ。
「これ。Yが読んでたやつと同じ本だから、もし分らない単語とか表現とかあったら訊くと良いよ」
サンキュー、と言って、親友は『宮沢賢治全集』を鞄にしまった。
少しだけ風が吹いて、電線にあたる音が微かに鳴る。
「良かったらYの連絡先教えようか?」
そう言ったが、本当は教えるべきではないと思った。Yに対するマナー違反な気がするし、この親友は中々プライドが高いのだ。同情の様に思われていたらどうしようか。
「……いいよ。自分で訊く。それくらい大丈夫だろ」
Yは一年生の時から今まで、多くの異性に告白されている。そのことごとくを袖に振り、誰とも付き合っていないことは、男子の中で割と有名な話だ。どんな奴からの告白も断るから、彼女は異性に興味が無いのだ、と噂話にもなっている。だから連絡先を交換することだって断られる可能性も十分に有り得るのだ。でも僕は実際交換できているので、やはり男子諸君の杞憂に過ぎないのだろう。あまりに告白を断っているから、勝手に高嶺の花の様に見ているのかもしれない。
「ああ、そうだ。Kがお前のアドレス教えろってさ」
はい、と四つに折りたたまれた紙片を渡してくる。開いてみると、Kの名前と、彼女の携帯のアドレスだろうか。
「……なんで?」
「知らん。『Yちゃんのついで』って言って渡された」
なにがどうついでなのか分らないが、とりあえず受け取っておく。青いボールペンで書かれた女の子特有の丸い文字が可愛らしい。
「なんだお前。モテ期?」
「バカ言うな!あり得ない」
ニヤニヤと笑う友人にがなる。
あり得ないだろう。モテるとか以前に、僕はまだ恋も好きだという想いも知らないのだから。
親友が帰ってからカレーを買って、一人で飯を食べて眠った。
Kにメールは出さなかったし、Yからもメールは来なかった。
だからおススメの本なんか選ばないし、何も貸して欲しくない。
これ以上親密になってはいけない、と。僕は怯えていた。