夕日に背中を照らされて
自宅の最寄り駅で下り電車を降りると、途端に汗が噴き出した。西日が頬を刺す。先週は梅雨前線が最後の粘りを見せ、今週に入って梅雨明けが発表された。どちらにしても、駅から家まで歩くのが億劫になってしまう。
冷房の利いた電車に小一時間ゆられた体は、地面の熱で足元からじわりと溶けていってしまいそうだ。魁人は、気が滅入りそうになりながらも足を踏み出した。涼しい本屋の自動ドアが目に入ったが、これから人と会う約束があるので、道草を食っているわけにはいかない。
しつこいビラ配りがいる駅前の広場を横切り、繁華街を少し行くと、図書館と大型スーパーのあいだにバスターミナルが挟まれている。
綾香は、そのバスターミナルの日よけの下で魁人の帰りを待っていた。
大人びた雰囲気を持っていながら、体つきは幼い。年齢不詳の不思議な少女だ。魁人の姿が見えても小さく手を振るだけで、走り出そうとはしなかった。
「おかえり」
「綾香――そういえば久しぶりか?」
「三月に魁人が卒業して以来だね。学校の方角も変わっちゃったし」
ここでは落ち着かないので、東に五分ほど歩いたところにある河川敷で話をしようということになった。市街地と比べて涼しいだろうという期待も少しある。
「最近、ボランティアは?」
歩きながら魁人が聞いた。
「毎年恒例、すすき園の夏至祭を手伝いに行ったよ」
「そうか。園長はまだ生きてるらしいな」
「ピンピンしてる」
すすき園は近所の知的障害者施設で、百歳近い園長がいることでも有名だ。
四つも歳が離れた二人を繋いだのは、地域の小中学生ボランティアバンクだ。夏至祭はすすき園最大の行事で、毎年多くのボランティアを依頼される。魁人も小学二年生でボランティアバンクに加入してから、中学三年の去年まで毎年参加していた。
魁人が五年生の時、一年生の綾香が加入してきた。その頃から大人びていた綾香は上級生とも打ち解け、なぜだか魁人にはよくなついた。
市営駐輪場の横を抜け、私鉄高架沿いの狭い道路を歩く。歩道がなく、薄暗い道だ。人通りが少ないので、車がよくスピードを出している。
魁人は綾香をかばうように、さりげなく車道側へ出た。綾香は一瞬意外そうな顔をしたが、自分もさりげなくブロック塀に寄った。
豪雨のせいで増水した川もすっかり元通りになって、いよいよ夏本番だ。それでも川を吹き抜ける風は心地よく、河川敷は駅前よりもずいぶん涼しいように感じる。
二人は、遊歩道のへりに腰かけた。
「それで、話はなんだ?」
「え?」
「まさか川を眺めるために呼んだんじゃないだろ」
「そうだ。そうだった」
今日は、綾香のほうからメールで魁人を呼び出したのだ。バスターミナルで待ち合わせるということ以外、魁人は何も聞いていなかった。
「どうしてカイは、中学受験しなかったの?」
川に架かる鉄橋を、特急電車が通過した。
綾香は、幼いころから読み書きに関心を持ち、両親もそれに応えようと先取り学習を進めてきた。
四歳、幼稚園入園の時点で五十音と簡単な漢字をマスターし、初歩的な計算もこなした。
両親は計画的に、学校で習う順番を踏襲して綾香に学習させたので、小学校に入学する時には同級生より二年以上先行していた。つまり、家では小学三年生の学習をしていたのだ。九九が完璧に言えるだけでなく、それを見事に使いこなしていたので周囲を驚かせた。
綾香は、自宅での先取り学習を苦と感じることなく、今でも続けている。綾香は塾を毛嫌いしているから、全て家庭での自主学習だ。
「そういえば、家ではどこらへん勉強してる?」
「英語はちょうど、中三の四課に入った。社会は需要と供給。数学は二次方程式の解の公式。理科は細胞のところで、DNAをやった。デオキシリボ核酸の略なんだってね」
「小学生がデオキシリボ核酸なんて言うか? ……かわいくない」
「自分から聞いといて」
「俺もすぐに抜かされるな」
「それはどうだろう」
綾香は首をかしげた。
「学校にもよると思うけど、高校の学習内容ってやっぱり多いでしょ。そうすると先取りのスピードも落ちると思うんだよね。今は大体三年分の“貯金”があるんだけど、高校の内容が終わるまでには二年分くらいに減っちゃうんじゃないかな」
「俺は四つ上だから逃げ切れるってわけか」
「がんばってね」
綾香がクスッと笑った。
綾香の両親は勉学と同時に、それをひけらかすことのない人間性を身につけさせることも忘れなかった。勉強のことでからかうような口を利くのは、魁人が相手の時くらいだ。
「それで、中学受験の話だな」
綾香は真剣な顔になった。
「うちの親は、すごく熱心に勧めてくるわけじゃないんだよ」
「『あくまで綾香がやりたいように』だろ?」
魁人も、綾香の両親と話をしたことがある。勉強のことに触れると、それは綾香がやりたいと思うからやらせているんだと言っていた。やりたい事をやりたいようにやらせる用意はあるらしい。
中学受験に関しても、それに対応できるような教材を取り入れてきたが、最終的な判断は綾香自身に任せるという方針は変わらないようだ。
「あたしは公立の中学校でもいいと思ってるんだ」
魁人は溜息をついた。
「時間の無駄だぞ」
「高校受験が?」
「それだけじゃない。きっと授業が退屈すぎて、そのうちあくびも出なくなる」
「いいの。あたし、授業は復習って割り切ってるから。やっぱり家でやるだけだと抜けてるところもあるんだよね」
三年先を行っている綾香にとっては、今受けている授業も退屈なのかもしれない。しかしそれにも価値を見いだして、真剣に取り組んでいるところが綾香らしい。
「何より、あそこは勉強するような環境じゃない」
「騒がしいの?」
「簡単に言うとそうだな。あんなところじゃ、綾香はいつまでも独学レベル。その才能をもっと活かせる学校を探すべきだ」
「才能?」
「幼稚園に入園する時から先取りで勉強を始めて、もう七年以上途切れずに続いてるんだろ? その根気って、才能だと思う」
魁人は一旦話すのをやめて、視線を川面へ移した。
綾香の目をじっと見つめて、また話しだした。
「そういえば、俺がなんで中学受験をしなかったのか、まだ言ってないよな」
「あ、うん。すっかり忘れてた」
「俺は、マイナス面にばっかりとらわれてたんだ。ある意味、今の綾香と似た状況なのかもしれないけど、俺は極端だった。テレビで、あちこち受験して回る親子が特集されてると『自分は絶対にあんなことするもんか』って言って――変な意地を張ってただな」
「確かに、あの頃の魁人にはそういうところがあったね」
「『お前は昔から変わってない』ってよく言われるんだけどな。中学受験に関しては考え方を変えた」
「公立の中学校を見て?」
「ああ。そりゃあ変わるよ。もちろん全部の公立中学校がひどいのかは分からないけど――綾香は俺が卒業した中学へ通うことになるだろ? ……綾香には受験をしてほしい。絶対にそっちのほうが――」
「カイはさあ」
綾香が遮った。
「カイは今、楽しい?」
「高校のことか」
「うん。高校は百パーセント自分の希望を通して、県立の最難関校を選んだんでしょ?」
「ああ。もちろん。すごく楽しい」
「もし私立の中学へ行ってたら、絶対に今の楽しい高校生活はなかったわけだよね。そういうこと、考えたりする?」
「どうしてそんなことが分かるんだ? すごいな。本当にその通りだよ」
魁人は笑ったが、すぐに頬をこわばらせた。
「無性に腹が立つんだ。この充実した日々はあの中学校の“おかげ”なんだと思うと」
「あたしは、高校で納得のいくものが手に入れられれば、それでいいと思う。今はまだ、決められないんだ。絶対に進みたい道があるわけじゃないもん」
魁人が引きちぎった雑草が、足元に散らばった。
「――同じ三年間だぞ」
「……え?」
「中学も高校も同じ三年間だ。ある期間充実した日々を送るために、同じだけの期間我慢するのって、不合理じゃないか。要領がいい綾香なら、当然そう考えると思った」
「そ、そんな……公立の中学校に行くことが我慢することだとは限らないじゃん!」
綾香はムキになって大声を出したが、魁人は淡々としていた。
「別の理由があるんだろ?」
「……カイには、かなわないな」
「そんなに、怖いか?」
綾香は、諦めたように笑って魁人を見上げた。
「わかっちゃう?」
「綾香は実は人見知りだもんな。俺と仲良くなれたのも、あのきっかけがあったからだし。――外に出て行くのが、怖いんだろ?」
「そうだよ。怖がりなんだよぅ……」
「大丈夫だよ」
「根拠は?」
「ない。だけど今なら、周りがいくらでもフォローしてくれるから、どんなに挑戦したっていいんだよ」
「嫌だよ。助けられるなんて」
「怖がりのくせに、プライドが許さないんだな」
「あたし、いい子のふりしてプライドの高い、わがままな子だから」
急に開き直って、得意げな笑みを浮かべる綾香。魁人は苦笑している。
「じゃあなんで俺に相談してきたんだ?」
「『それはそれ』、だもん……」
「頼らないなら、親とか兄弟がいる意味ないじゃん。綾香は一人っ子だから、頼られた経験もないのかなあ」
「カイだって一人っ子じゃん」
「だけど、妹みたいなのがいるから」
綾香は顔を赤くしてそっぽを向いてしまった。
「まあ綾香は、兄がいるようなもんだなんて思わないだろうけど」
太陽はいよいよ傾き、河川敷の草むらには大きな影と小さな影がくっきり映し出されている。
しばらくの沈黙の後、小さいほうの影からスッと何かが伸びて、大きいほうの影に吸い込まれた。
綾香は両手でそっと、魁人の腕をつかんだ。
「あたし、カイはお兄ちゃんみたいなものだと思ってるよ。だから相談したんだよ。あたしの弱いところ、全部ばれちゃってるもんね」
「じゃあ、俺の弱いところもばれてる?」
「うん。ばればれ」
しばらく二人で笑い合うと、なんとなくぎこちなかった綾香もすっかり元気になった。悩みはきれいさっぱり解消して、やっとその幼い容姿に似合う無邪気な笑顔を見せた。
「あたしね、実は気になってる学校が一つあるんだ。私立で」
「本当か! どこだ?」
「えー、どうしよっかなー」
「教えてくれよ。俺、二年生のころ編入試験受けようかって、真面目に私立中学調べてたから意外に詳しいぞ」
「何それ? わざわざ編入試験だなんて、全然合理的じゃない! そんな暇があったら高校受験に向けて勉強すればよかったのに。結果、第一志望合格したにしても」
「だよなー。俺って馬鹿だ」
「うん、馬鹿だね」
「ともかく綾香の場合、受験するって決めたら過去問だけさらっとやっておけばいいと思うぞ。併願なんかしないだろ? 合格確実なんだから。不合理だもんな」
魁人は、自分で言いながら苦笑した。魁人の知る限り、『天才』の二文字が嫌みにならず似合うのは綾香だけだ。ただ勉強ができるだけじゃない。七年にも及ぶ自主学習を進めてこれたのは、並外れた要領の良さと集中力がを持っていたからだ。これこそが、綾香が常に役立て伸ばし続ける、最も優れた才能なのだ。
「どうせ夏休みは暇なんだろ?」
「ボランティアの予定が何件かある他は……暇だね。気になってるところも含めて、あっちこっち見学に行くことにするよ」
「なんなら、公立の中学校にも見学を申し込んだらどうだ? 断られることはないと思う」
「中学校で授業やってる時は、あたしも学校があるよ」
「終業式間近になると小学校は午後の授業がなくなるけど、中学校はギリギリまでやるはずだ。それを見に行けばいい。たとえ一日休むことになっても、バチは当たらないよ」
「そうそう見る機会はないもんね」
「動物園の猿山より無秩序――いや、比較したら猿に失礼なくらいひどいぞ。何かのアトラクションだと思って見てると面白いかもな。善良な生徒にとっては迷惑極まりないけど」
魁人と何人かの生徒で職員室に苦情を言いに行ったこともあったが、大した成果は出なかった。あの時の自分たちの行動には意味があったのか? 考えるたびに疑問とやりようのない怒りが湧き上がり、皮肉となって飛び出す。感情的になってしまうことを無意識に食い止めているのかもしれない。
「帰ろっか」
「そうだな」
二人は並んで河川敷を歩き始めた。魁人が西側を歩いたので、綾香は影に入る形になる。
魁人は、綾香が相談してくれたことで自分自身の過去と折り合いをつけることができた。これで綾香は、自分を最大限伸ばす環境を必ずや手に入れるだろう。そこでの経験は、なにかしらのために役立ててくれると信じている。ただ失われたと思っていた魁人の中学校での日々には、価値が生まれたのだ。
綾香は魁人を見上げた。夕日がまぶしくて、思わず目を細める。こんなに近くにいるのに、どんな表情をしているのかよくわからない。
「今日はありがとう」
魁人は何も答えなかった。綾香の声が小さくて聞こえなかったのかもしれないし、照れくさくて聞こえないふりをしているのかもしれない。そんな横顔のシルエットが、なぜだかとても頼もしく見えるのだった。