好きな人が嬢を身請けするのが辛くて逃げたら捕まりました~女黒服は執着騎士に囲われる~
あの人は、イサナ姐さんを愛している。
誰が見ても、そうだった。
ーーー
騎士たちが集う酒場、夜香楼。
酒場とはいうけれど、提供しているのは酒と肴だけではない。
夜が更けてくれば、騎士たちは酌をする花嬢の中から、一夜の相手を選んで連れ帰る。
「ソフィア」
店主に声をかけられて、私はスーツの袖をまくって酒の準備をしていた手を止めた。
「ゼイン様とイサナは、また月の間?」
「…はい」
寡黙な騎士ゼイン様は、「馴染み」だというイサナ姐さんしか指名しない。
以前はご自宅に連れ帰っていたようなのだけど、ここ数ヶ月は店の二階にある「月の間」を使っている。
つまり、私がこの夜香楼で「女黒服」として働き始めてからは、ほぼずっと。
「そろそろ身請けかしら」
この言葉に、私はぴくっと反応する。
そうだ。
自宅に連れ帰らず二階を使うのは、「自分がどの嬢を愛しているか」を他の嬢と騎士たちに知らしめる行為。
騎士がその嬢にどれだけ本気かを示しており、「二階ばかりになると身請けが近い」というのが、この店の常識。
イサナ姐さんも予感しているのだろう。「最近ゼイン様ったら激しくて」なんて笑う顔は、得意げで幸せそのもので、本当にきれいで。
ああ、私は今、どんな顔をしている?
嫉妬が滲んでいませんように。
「ソフィア、お客様からいただいたお菓子よ。おあがんなさい」なんて、いつも気にかけてくれるイサナ姐さん。
そんな姐さんの幸せを祝わず、心の底から妬んでいるだなんて、誰にも知られたくない。
「困るわぁ、イサナは稼ぎ頭なのに」
私だって困る。自分のどす黒さを思い知らされて。
「身請け金を計算して、それから新しい子も採用しないと。ああ忙しい」
「お疲れ様でございます」
店主を見送って、私はまた酒の準備に戻り、ぎゅっと唇を噛んだ。
ーーー
「…失礼いたします」
二人が夜を過ごす部屋。その静けさが「会話がなくても一緒にいられる絆の強さ」を証明しているようで、心が痛い。
けれど、手は止められない。
酒と簡単な料理を並べて。
夜が終われば、イサナ姐さんが「最近激しくて」というとおり、どうやったらこうなるのかわからないくらいに乱れた部屋を片付けて。
それが夜香楼の「黒服」である私の仕事だから、ひたすら心を無にする。
「…」
視線を感じる。顔を上げると、ゼイン様がこちらを見ていた。
その顔には何の表情も浮かんでいないのに、彼と目が合うだけで嬉しいと思ってしまう。
「…何か不手際がございましたでしょうか」
すべていつも通りのはずだけれど、「身請けが近い」という事実に動揺したあまり、何か粗相があったのかもしれない。
彼は、ほんの少しだけ目を細めた。
「…いや」
たった一言、低い声。
それだけで、胸の奥がじんと熱くなる。
だって、彼が私に向かって声を発してくれたのは初めて。その事実だけで、たまらなく嬉しくなってしまう。
叶うはずもない想いなのに…私の馬鹿。
「では失礼いたします。お客様、花嬢様、よい夜を」
そう言って、私は頭を下げて静かに部屋をあとにする…はずが。
「いや、イサナが下がって黒服が残れ」
「え…?」
聞き違いだろうか。
「黒服が残れ」
心臓が早くなり、呼吸が乱れそうになる。
…この言葉を受け入れて、一夜だけでも情けをいただけたらどんなに幸せなことだろう。
つかの間でもいいから夢見たいと思うほどには、私は彼に焦がれていた。
誰よりも美しい無表情な顔で、同僚騎士たちの冗談にも笑わない彼を。
…けれど。
奉公先を追い出された私を拾ってくれた店主や、いつも優しいイサナ姐さんのことは、裏切れない。
「お客様、”悪食は紳士の嗜み”という方もいらっしゃいますが…ご覧の通り私は花嬢ではありません」
煌びやかなドレスの嬢たちを引き立てる、ブラックスーツ姿の黒服。それが私。
「だからなんだ」
「ですので、花嬢と同じようなご奉仕は…夜のお相手はできません」
「なぜだ」
「それは…ルールですので」
夜香楼の嬢たちは容姿も教養もそこらの貴族令嬢に負けないくらいだけれど、黒服の私は違う。
会話でも容姿でも技術でも、彼を満足などさせられない。
嬢としての教育を受けていない私がサービスを提供するなど、あってはならない。
「…そうか」
「はい。ですので失礼いたします。どうぞ花嬢様と素敵な夜を」
たった一度きりの、チャンスの芽。
それを自分で摘んで、私は静かに扉を閉めた。
ーーー
その翌日。
「ゼイン様、ご提案をありがとうございます」
店主の部屋の前で、そう声が聞こえた。
足が止まって、呼吸も止まる。
「優秀な子でして、いなくなると手前どもにも大打撃ですから、このくらいで」
「ああ、きちんと払う」
心臓がうるさい。むしろ止まってくれたらいいのに。
「では明日」
そこまで聞いたら、もう十分だった。
明日、イサナ姐さんはゼイン様に身請けされる。
そしたら、ゼイン様はもう店に来なくなる。
「でもイサナ姐さんの水差しに、毒を一滴垂らすだけで」と考えて、私は戦慄した。
私が自分の手で、イサナ姐さんを傷つけてしまう…?
そんなのだめだ。
私はその日のうちに、店主への謝罪を記した置き手紙を残して、店を出た。
ーーー
できるだけ遠くへ。
ゼイン様のこともイサナ姐さんのことも、耳に入ってこないような場所へ。
無理を言って予約もなしに満員の乗り合い馬車に飛び乗り、どこかもわからない街で降りる。そしてまた次の日には別の街に移動して。
「気に入った街があれば」と思っていたけれど、なんだかどこも灰色で空虚に見えて。
小さな宿でベッドに横になりながら、「次は西か東か」と息を吐いたとき、ノックもなしに部屋の扉が開いた。
「きゃ…!?」
飛び起きて、身体を固くした瞬間。
「…探したぞ、ソフィア」
たった一度だけ、あの夜にだけ聞いたことのある、低い声。その声が、初めて私の名前を呼ぶ。
「ゼイン様…?」
意味がわからない。私がここにいることと、彼がここにいることが、どう考えてもつながらない。
「馬車の記録を全部洗わせて、ようやくだ」
なぜ、彼がそこまでして私を探す必要が…?だって、イサナ姐さんと幸せに暮らし始めて万々歳なんでしょ?
混乱していると、腕を掴まれた。
「勝手にいなくなるな」
その手は強くて熱くて、振りほどけない。
「勝手に、とは…?」
「俺に何も言わずいなくなっただろ!」
私が店を辞めることを、どうして彼に報告しなくてはならないのだろう。
彼はイサナ姐さんを愛していて、私はただの黒服。
「ええと…イサナ姐さんに頼まれたのですか?」
考えつくとすれば、「イサナ姐さんが、ゼインに身請けされたあとも私に世話をしてほしいと望んでいる」くらい。
「何のことだ。あの女は関係ない」
「あの女だなんて!イサナ姐さんを愛して、身請けまでされたのに…」
言い終わる前に、ぐっと引き寄せられた。
「俺が愛しているのは、君だ」
息が止まる。
「…へ?」
そんな間抜けな声しか出ない。
「わからなかったのか」
「何を、どう、わかれと…」
彼の目が、わずかに細くなる。
「イサナと月の間で過ごしていたのは、そうすれば君が来るからだ」
思考が止まる。
「二階を使えば、準備も片付けも君が来るだろう」
以前は自宅に連れ帰っていたのに、私が店で働き始めてから月の間を使うようになったのは…
イサナ姐さんじゃなくて、私に近づくため…?
「そうやって確かめていたんだ。俺が…君に抱く感情が何なのか」
「ゼイン様の…感情…?」
「そうだ。いつからか君が欲しくなって…ずっと見ていた」
淡々と決まった手順を崩さずに酒と食事を提供し、質の悪いお客様をそれとなく嬢から遠ざけ、酔いのまわった嬢にこっそり水を飲ませる私を。
無理やり馬鹿になってコールして、店の片隅でこっそり落ち込む私を。
…全部、見られていた。
「美人でもなんでもない黒服なのに…」
「関係ない」
そう言い切って、ゼイン様は続ける。
「イサナを抱いているときに、料理を並べながらちらりと俺のほうを見るソフィアの顔を思い出すんだ」
ちらちらと彼のことを見ていたことすら、バレていた。目が合ったことなんて、ないと思っていたのに。
「するとどうしようもなく昂って、獣のようになって果ててしまう」
私は思わず、月の間の乱れようを思い返した。
あれほど激しく乱れていたのは、ゼイン様が私のことを想っていたからだなんて…
「けれど純粋な性欲でないのは確かだ。君を抱きたいが、怖がらせるのも痛がらせるのも嫌われるのも嫌で、ためらってしまうのだから」
「それは…」
「愛かもしれない、と思った。けれど今まで誰にも愛情を感じたことがなかったから、きちんと確かめたかった」
それで…確かめられたのだろうか。
「あの日断られて、確信した」
ゼイン様は「これは、愛だ」と、私の髪に顔をうずめる。
「そして逃げられて、焼き印のように刻まれたんだ」
その声があまりに低くて、私は彼に抱き寄せられたまま身体を硬直させる。
「どういうことか、わかるか?」
「いいえ…」
「もう消えないってことだよ」
深く深く、キスされる。
「ん、あ…」
「その顔」
低く、けれど嬉しさの滲む声。
「何度も頭の中でなぞった顔だ」
彼の太い指が、私の指を絡めとる。
「その顔を俺以外の男に見せられたら、俺は君もその相手も殺してしまうだろう」
「んん…っ」
あまりに物騒で。でも現実味があって。
「だから俺から逃げるな」
「は、い…」
狂ったように、私に愛の焼き印を刻もうとする彼。
「ソフィア、ソフィア…っ!俺から逃げられると思うな…っ」
もう、わかってる。
逃げ場など、どこにもない。最初からなかったのかもしれない。
そしてきっとこれからも、彼が逃げ道を与えてくれることはない。
――それが、どうしようもなく嬉しくて。
私は、彼の重い愛に押しつぶされるようにして、悦びに溺れていった。




