領地巡回
翌朝、麗華は日の出とともに馬を引かせた。
藍染めの袍の裾を紐で留め、白い麻の腕抜きをつけた出で立ちは、後宮の貴妃どころか令嬢にすら見えない。だが背筋の伸びた乗馬姿には、どこかの将軍よりもよほど堂々とした気品があった。
「陸将軍、巡回にいらっしゃい」
東棟の入口で声をかけると、暁風はすでに身支度を済ませていた。軍袍を略装に替え、長剣だけを腰に佩いている。
「巡回?」
「領地を見なければ、何も分からないでしょう? 監視のお仕事でしたら、ここに座っているより畑を歩いた方が有益ですよ」
暁風は一瞬黙り、小さく頷いた。
「……分かった」
「春蘭、昼食の支度を」
「かしこまりました。新米のおにぎりと浅漬けをご用意いたします」
馬で屋敷を出ると、鳳凰領の朝の風景が広がった。
まず目に入るのは、一面の田畑だ。朝露に濡れた稲穂が陽光を受けて金色に輝き、畝ごとに異なる作物が整然と植えられている。稲の隣には麦、麦の向こうには粟と黍。さらにその先には菜園が広がり、白菜、大根、茄子、胡瓜が列をなしていた。
道沿いの用水路には澄んだ水が流れ、子供たちが水を汲みに来ている。すれ違う農民たちは日に焼けた顔で笑い、麗華を見ると手を振った。
「おはようございます、お嬢様!」
「今年の穂は良い出来ですよ!」
麗華は馬上から手を振り返し、一人一人に声をかけた。
「李のおじさま、膝の具合はいかがですか」
「王家のおばさま、先日の漬物、とても美味しかったわ。あの塩加減は真似できません」
暁風は少し離れた場所から、その光景を見ていた。
馬上から振る手が自然だった。作り物の笑顔ではない。声をかける言葉に嘘がない。農民たちの顔が、麗華を見た瞬間に明るくなる。それは権力者への追従ではなく、信頼の表情だった。
(名前を覚えているのか。農民の一人一人の)
廃妃。後宮を追われた女。帝都では「鳳家の驕り高ぶった令嬢」と噂される存在。
その女が、馬を降りて農民と話をしている。膝をついて土を手に取り、色を確認し、指で揉んで湿り具合を測っている。
「この区画は水の引きが遅いわね。用水路の分岐を確認してちょうだい」
「へい、すぐに」
「向こうの畝は穂が少し垂れすぎている。収穫の時期を早めた方がいいかもしれない。明日もう一度見に来るわ」
麗華は畑から畑へと歩き回り、作物の根を確認し、葉の色を見比べ、土の匂いを嗅いだ。その手つきは畑仕事に慣れた者のものだった。白く細い指に泥がつくのを、まったく厭わない。
ある畝の前で膝をつき、穂先を指で撫でた。穂が重く垂れている。よく実った証拠だ。麗華は満足げに頷き、横の農民に何事かを伝えた。農民が笑顔で頷く。
(後宮の貴妃が、泥だらけの手で稲穂を撫でている。——帝都でこの話をしても、誰も信じまい)
暁風は馬上から降り、麗華の後を歩いた。言葉は少ない。だが目は動いている。
農地の広さ。作物の種類。水路の構造。農民の数。そして何より——この土地の異常なまでの豊かさ。
(帝都の周辺では、こんな光景は見られない)
帝都の外は荒地だ。痩せた土に痩せた穀物。農民は日がな一日働いても、碌な収穫がない。それが瑛朝の「普通」だった。
だが鳳凰領は違う。土が黒い。水が澄んでいる。作物が力強く育っている。
「陸将軍」
昼近くになり、麗華が暁風を丘の上に案内した。領地を一望できる場所だ。
眼下に広がるのは、どこまでも続く緑の田畑。遠くに山並みが霞み、その手前を清流がうねりながら流れている。風が稲穂を揺らし、金色の波が領地全体に広がっていく。
「きれいでしょう」
麗華の声に、誇りと、それ以上の何かが滲んでいた。
「ああ。——きれいだ」
暁風は素直にそう答えた。
春蘭が包みを開いた。新米のおにぎりが三つ。塩で結んだだけの素朴なものだが、米粒が艶やかに光っている。隣には畑で朝採れた胡瓜の浅漬けが添えられていた。
「どうぞ。巡回の昼食は、いつもこれです」
麗華がおにぎりを一つ手に取り、ためらいなく齧った。後宮仕込みの所作からは想像できない、飾り気のない食べ方。だがその横顔は不思議と品があった。
暁風もおにぎりを手に取った。口に運ぶ。
塩と米だけ。それだけなのに、噛むほどに甘みが広がる。胡瓜の浅漬けを一切れ齧ると、しゃくりと小気味よい音とともに、さっぱりとした酸味が口の中を洗った。
(旨い。昨夜の飯もだったが——この土地の食い物は、素材の力が違う)
「陸将軍。この田畑を見て、何か気づいたことはありますか」
麗華がおにぎりの最後の一口を飲み込み、尋ねた。
「……気づいたこと?」
「この緑。この豊かさ。——放っておいたら、枯れるの」
暁風の眉が動いた。
「枯れる? これだけ肥沃な土地が?」
「ええ。鳳凰領の外を思い出してください。荒れた村の痩せた畑。泥のような粥しか食べられない子供たち。——あれが、この国の本来の姿なの」
風が吹いた。金色の稲穂が一斉に揺れる。
「鳳凰領だけがなぜ豊かなのか。他の土地と何が違うのか。——それを知りたければ、もう少しだけ、私に付き合ってくださいな」
麗華は立ち上がり、丘の斜面を下り始めた。
風が吹き、麗華の黒髪が肩の向こうに流れた。銀の簪が午後の光を一瞬弾く。その足取りは軽く、この丘の道を何百回と歩いてきた者の慣れた歩みだった。
ここは私の土地だ——その背中が、そう語っていた。
暁風は残りのおにぎりを口に押し込み、慌てて麗華の後を追った。米の甘さがまだ口の中に残っている。こんな旨い握り飯を食ったのは初めてだ。塩と米だけなのに。
(あの女は——ただの廃妃じゃない)
それは確信に近かった。鳳麗華は追放された女ではない。自らの意思でここに戻り、この土地を握り、その上で笑っている。
(報告書に何を書く。「鳳麗華は危険人物ではない」か? いや——危険人物ではある。だが、想定していた意味とは違う)
丘の下から、麗華の声が聞こえた。
「陸将軍、置いていきますよ」
暁風は小さく舌打ちして、足を速めた。




