将軍の箸が止まる
翌日の夕刻、麗華は暁風を食堂に招いた。
正確に言えば、春蘭が東棟に赴き「麗華さまがお食事にお誘いでございます」と告げたのだが、暁風は断るつもりだった。
「任務中だ。食事は自分で——」
「陸将軍。失礼ですが、昨夜のお食事は何を召し上がりましたの?」
「……干し肉と堅焼き餅」
「携行食でございますね。今朝は?」
「……同じだ」
「まあ」
春蘭が困ったように微笑んだ。困っているのではなく、呆れているのだと暁風が気づいたのは後のことだった。
「麗華さまが仰るには、『鳳凰領の食を知らずに報告書を書くのは、戦場を見ずに軍略を語るようなもの』だそうでございます」
暁風は黙った。
一理ある、と思ってしまった自分が腹立たしかった。
「……分かった。行く」
春蘭が先に立って廊下を歩く。足音がしない。暁風は無意識に春蘭の足元を確認した。侍女の草履で石畳を歩いているだけなのに、まるで猫のように気配が薄い。
(この侍女も一筋縄ではいかんな)
食堂は屋敷の南棟にあった。広すぎず狭すぎず、卓の上に並んだ料理が一望できる程よい大きさの部屋だ。窓は開け放たれ、夕暮れの風が庭の花の香りを運んでくる。
麗華はすでに席についていた。今日は藍染めの上に薄い羽織を重ねており、襟元に小さな翡翠の留め具が光っている。春蘭が麗華の隣に控え、暁風は向かいの席に案内された。
「ようこそ。今日は少しだけ、鳳凰領の味を楽しんでいただこうと思いまして」
麗華が手を振ると、厨房から料理が運ばれてきた。
最初に卓に置かれたのは、炊きたての白飯だった。
蓋を開けた瞬間、湯気とともに甘い香りが立ち昇る。米粒の一つ一つが艶やかに光を弾き、ふっくらと膨らんでいる。
「鳳凰米です。今年の新米を、湧き水で炊きました」
続いて並んだのは、川魚の生姜蒸し。鳳凰領を流れる清流で獲れた川魚を、薄切りの生姜と共に蒸し上げたもの。白い身がほろりとほぐれ、生姜の爽やかな香りが食欲を誘う。
その隣に、翡翠白菜の塩炒め。瑛朝の高級品種である翡翠白菜は、葉の色が翡翠のように鮮やかな緑で、甘みが強い。塩だけで炒めたそれは、素材の味が真っ直ぐに伝わる一品だった。
そして最後に、鶏の薬膳スープ。丸鶏を棗、枸杞の実、黄耆と共に半日かけて煮込んだ澄んだスープが、深い陶器の碗に注がれている。金色の液体の表面に、細かな油の粒が浮いていた。
「どうぞ。お箸を」
暁風は箸を取った。
まず白飯を一口、口に運ぶ。
——箸が、止まった。
甘い。
米そのものの甘さが、噛むほどに口の中に広がっていく。粘りがあるのに重くない。一粒一粒がしっかりと立っているのに、舌の上でとろけるように溶ける。
軍の兵糧米とは比べものにならなかった。帝都の宮廷で出される上米ですら、おそらくこれには及ばない。
「…………旨い」
声が勝手に出た。暁風は自分でも驚いた顔をしたが、箸は止まらなかった。
川魚を口に入れる。生姜の香りが鼻に抜け、白い身は脂がのっていて、噛むと淡い旨みが溢れ出す。骨離れが良く、蒸し加減が絶妙だった。
翡翠白菜は、一口噛んだ瞬間にしゃくりと小気味よい音がした。甘い。野菜の甘さがこれほど強いのかと、暁風は箸を持ったまま固まった。
薬膳スープを一口啜る。鶏の旨みと棗の甘み、枸杞の実のかすかな酸味が調和し、体の芯まで温まる味だった。
「……旨い。この粥——いや、スープ。旨い」
語彙が消えていた。暁風自身もそれは分かっていたが、他に言いようがなかった。
軍に入って九年。戦場と軍営を行き来する日々で、食事とは腹を満たす作業でしかなかった。塩漬けの肉、堅焼きの餅、味の薄い粥。それが暁風の知る「飯」だった。
だが今、目の前の料理は、暁風が知らなかった世界を突きつけてくる。食べることはこんなにも——こんなにも豊かなものだったのか。
麗華が口元を隠して微笑んだ。
(あら。正直な方)
箸の動きを見ていれば分かる。武骨な持ち方で、後宮の作法など知らないのだろう。だが一口ごとに表情が変わる。眉間の皺が消え、鋭い目が柔らかくなり、咀嚼する顎の動きが丁寧になった。
この男は、おそらく「美味しいもの」をまともに食べたことがない。軍の兵糧で育ち、食事とは腹を満たす作業でしかなかった。
(だからこそ、分かるでしょう? この食卓に並んでいるものの価値が)
「陸将軍」
麗華が穏やかに声をかけた。暁風が白飯を二杯目に手を伸ばそうとした瞬間だった。
「帝都の食卓から消えるのは、この味です」
暁風の手が止まった。
「鳳凰米の甘さ。翡翠白菜の歯触り。清流の川魚。——すべて、鳳凰領でしか採れないもの」
麗華は茶杯を傾けながら、穏やかに続けた。
「官糧が止まれば、宮廷の食卓からこの白飯が消えます。宰相閣下のお好きな翡翠粥も。皇帝陛下の朝餉に並ぶ蒸し魚も。代わりに並ぶのは、荒地で育った痩せた雑穀だけ」
暁風は箸を置いた。
旨さの余韻がまだ舌に残っている。それが麗華の言葉と重なり、食糧戦略の意味が——理屈ではなく、味覚として身体に刻まれた。
「……あんたは、この飯を人質にするつもりか」
「人質だなんて。ただ、正当な対価を求めるだけですから」
微笑みは変わらない。だがその琥珀色の瞳には、鋼のような意志が宿っていた。
暁風は黙って三杯目の白飯を茶碗に盛った。
食べないという選択肢は、もう暁風の中になかった。
春蘭が給仕をしながら、小さく唇の端を上げた。
(麗華さま。陸将軍、すでに三杯目でございますよ)
麗華が春蘭に目配せした。
(分かっているわ。この調子なら、すぐに四杯目にいくでしょう)
果たして暁風は四杯目に手を伸ばし——途中で我に返ったように箸を止め、咳払いをした。
「……食事の礼を言う。だが、俺の任務は変わらん」
「もちろんですとも。ご自由にどうぞ。——ああ、それと陸将軍」
暁風が立ち上がりかけた体を止めた。
「明日の朝食もお待ちしていますよ。鳳凰領の朝粥は、白飯とはまた別の味わいがありますの」
「……考えておく」
それは断りの言葉のはずだった。だが暁風自身、明日の朝にこの食堂に来るだろうことを、もう分かっていた。
食堂を出た暁風は、廊下で一度足を止めた。
腹が満ちている。こんなに腹が満たされたのは、生まれて初めてかもしれなかった。
(くそ。報告書に何を書けばいい。「鳳麗華の夕食は旨かった」とでも書くのか)
東棟に戻りながら、暁風は無意識に唇をなめた。鳳凰米の余韻が、まだ消えていなかった。




