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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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鳳老太爺の茶

 鳳家屋敷の奥まった書斎は、かすかな茶の香りに満ちていた。

 紫檀の卓の向こうに、一人の老人が座っている。白髪を後ろで束ね、背筋をまっすぐに伸ばしたその姿は、隠居の身とは思えない威厳を湛えていた。

 鳳老太爺ほうろうたいや——鳳家先代当主にして、麗華の祖父。

 そして、この国でただ二人しかいない地養術ちようじゅつの使い手のうちの一人。


「おじいさま」


 麗華は書斎の敷居で足を止め、一礼した。

 老太爺は顔を上げず、目の前の茶器に湯を注いでいた。陶器の急須から細く注がれる湯が、乾いた茶葉に触れた瞬間、青い香りが立ち昇る。


「座れ」


 一言。それだけだった。

 涙もない。抱擁もない。「よく帰った」の一言すらない。

 けれど麗華は、その素っ気なさに目の奥がじわりと熱くなるのを感じた。


(おじいさまらしい)


 麗華は卓の向かいに腰を下ろした。老太爺が茶杯を差し出す。白磁の杯に澄んだ翠色の液体が揺れている。

 碧螺春へきらしゅん

 鳳凰領ほうおうりょうの茶畑で採れる一番摘みの茶葉を、老太爺が自ら炒って仕上げた逸品だ。霊脈に近い土壌で育った茶葉は、他の産地では決して出せない繊細な甘みを湛える。

 麗華は杯を両手で包み、唇に運んだ。


 ——花のような香りが、鼻腔の奥をくすぐった。


 続いて舌の上に広がる、柔らかな甘み。苦味はほとんどない。ただ滑らかな旨みが口の中を満たし、喉を過ぎた後もなお、余韻がいつまでも残る。

 後宮にいた三年間、どれほど高級な茶を飲んでも、この味には届かなかった。


「……おいしい」


 思わず、飾りのない言葉が漏れた。

 老太爺がわずかに口元を緩めた。それが、この老人なりの「おかえり」なのだと、麗華は知っている。


「して」


 老太爺が茶杯に口をつけ、ゆっくりと一口啜った。


「帝都を干上がらせるつもりか」


 単刀直入だった。

 麗華は微笑んだ。——後宮で何百回と浮かべてきた、あの穏やかな笑みではない。祖父の前でだけ見せる、素の表情だった。


「ご明察です」


官糧かんりょうを止めるのか」


「段階的に。最初は量を減らし、次に品目を絞ります。完全に止めるのは最後の手段です」


 老太爺は黙って聴いていた。茶杯を卓に置き、節くれ立った指で杯の縁をなぞる。

 麗華は続けた。


市糧しりょう——民間の流通は止めません。帝都の民が飢えるようなことはさせない。困るのは朝廷の備蓄だけ。軍の兵糧、官吏の俸禄米、宮廷の食卓。つまり」


「権力者の腹だけが空く、と」


「はい」


 老太爺が小さく息を吐いた。笑ったのか、嘆いたのか、判別がつかない。


「民を巻き込まぬ自信があるか」


「あります。鳳家と懇意の商会を通じた流通路は、後宮にいる間に整備しました」


「三年も前から備えておったか」


「……いつか、こうなると思っていましたから」


 嘘ではない。蘇家そけ趙文昌ちょうぶんしょうが鳳家を潰しにかかる可能性は、後宮に入った初日から計算に入れていた。

 後宮で過ごした三年間。華やかな宴席の裏で、麗華は商会の帳簿を読み込み、穀物の流通経路を一本ずつ確認し、信頼できる商人を選別していた。貴妃としての公務の合間に、それだけのことをやり遂げた。

 春蘭の情報網がなければ不可能だっただろう。あの侍女頭は、後宮にいながらにして帝都中の商人と繋がりを持っていたのだから。


「朝廷の備蓄は六ヶ月分。秋の官糧を減らせば、冬には宮廷の食卓が変わります。翡翠粥ひすいがゆが雑穀粥に変わるだけで、朝廷の威信は揺らぐ」


宰相さいしょうの趙文昌は、それを飲むのか」


「飲まざるを得ません。他に穀物の出所がないのですから」


 老太爺が低く唸った。


「お前は——昔からそうじゃった。わしが何か言うより先に、答えを用意しておる」


「おじいさまの教えの賜物です」


「追い込まれたときの逃げ口上まで、わしが教えたつもりはないがの」


 老太爺の目尻に皺が寄った。冗談を言って自分で笑う癖は、昔から変わっていない。だがすぐにその表情が引き締まった。


 老太爺はしばらく沈黙した。書斎の窓から午後の光が差し込み、白い髭に金色の筋を落としている。

 やがて、老人は茶杯を持ち上げた。


「そうか」


 たった二文字。

 承認でも否定でもない。ただ孫娘の覚悟を受け止めた、それだけの言葉。

 けれど麗華には、それで十分だった。


(おじいさまは、口を出さない。いつもそう。やるなら自分の責任でやれ、と)


 老太爺が残りの茶を飲み干し、立ち上がった。杖を突く音が、静かな書斎に響く。


「茶葉を持っていけ。お前が好きだった碧螺春、今年は出来がよい」


「ありがとうございます、おじいさま」


「——それとな、麗華」


 書斎の出口で、老太爺が足を止めた。振り返らない。


「茶畑の向こうの試験田、見ておくがよい。今年は少し、土の調子が変わっておる」


「土の調子、ですか?」


「……うむ。土というのはな、怒らせると百年は機嫌を直さぬ。人も同じじゃ。じゃが、丁寧に詫びれば——いつかは赦してくれる」


 何のことだろう。

 地養術の教えのようでいて、どこか別の意味を含んでいるような言い方だった。


 けれど麗華が問い返す前に、老太爺は杖を突いて廊下を歩き始めていた。その背中はやはり齢に似合わず真っ直ぐで、隠居の身というよりは、長い戦を終えた将の後ろ姿に見えた。

 杖の音がゆっくりと遠ざかる。


 麗華は一人残された書斎で、空になった茶杯を見つめた。

 碧螺春の最後の一滴が、白磁の底で小さな翠色の輪を描いている。


(「土の調子が変わっている」——か)


 老太爺は何も説明しなかった。けれど、あの言い方は明らかに何かを含んでいる。

 試験田。鳳凰領の農地の中でも、新しい栽培法を試す特別な区画だ。霊脈の影響を最も強く受ける場所でもある。


(明日、見に行こう)


 麗華は立ち上がり、窓の外に目をやった。

 鳳家屋敷の庭の向こうに、夕日に照らされた田畑が広がっている。黄金色の穂が風に揺れ、収穫の時を静かに待っていた。


 この景色を守るために帰ってきた。

 この景色を武器にするために、計算してきた。


(おじいさまは、すべて分かっている。私が何をしようとしているか。その代償がどれほどのものか)


 廊下の奥から、かすかに春蘭の声が聞こえた。夕食の支度について使用人に指示を出しているらしい。今夜は麗華の好物を並べるつもりだろう。帰還の祝いとして。


 麗華は小さく笑った。

 帝都では最後まで笑顔を崩さなかった。馬車の中でも春蘭の前では冷静に戦略を語った。荒れた村を通過したときも、表情一つ変えなかった。


 けれど今、祖父の茶の余韻が舌に残るこの書斎で——


「……ただいま」


 誰にも聞こえない声で、麗華は呟いた。


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