交渉の決定
帝都・朝廷の重臣会議は、通常であれば月に一度開かれる。
だがこの月は、すでに三度目だった。会議のたびに議場の空気は重くなり、重臣たちの顔色は一段ずつ蒼ざめていく。
朝廷の議場は宮城の中枢にある。朱塗りの柱が等間隔に並び、高い天井から陽光が差し込む荘厳な空間だ。だがその荘厳さとは裏腹に、議場に集まった重臣たちの顔色は一様に暗かった。
「——それでは、議題に入ります」
趙文昌が議場の上座に座り、静かに口を開いた。宰相の座から見下ろす形で、二十名あまりの重臣が左右に居並んでいる。
「食糧問題について、現状の報告を求む」
戸部尚書が立ち上がった。財政と物資を管轄する六部の長だ。顔色が蒼い。
「申し上げます。鳳凰領からの官糧が停止して四月目に入りました。朝廷の穀物備蓄は——残り二月分を切っております」
議場がざわついた。
「来月の俸禄米の支給にも支障が出る見込みです。また、軍糧の備蓄も底が見え始めており、禁軍の兵糧を維持するには——」
「十分だ」
趙文昌が制した。数珠を弄ぶ手が、いつもより速い。
「他領からの代替穀物の調達状況は」
「芳しくございません。各地の荒地化が予想以上に進行しており、他領からの穀物は量・質ともに不足しています。代替策としては——」
「つまり、代替は不可能だと」
礼部尚書が口を挟んだ。外交儀礼と祭祀を担当する穏やかな老人だが、今日はその目に焦りが浮かんでいた。
「申し上げにくいことではありますが——もはや鳳家と交渉するほかないのではありませんか」
議場が静まった。
鳳家に頭を下げる。それは、朝廷が食糧問題の解決を自力でできないと認めることだ。廃妃に追い込んだ女に——その女の家に——助けを乞うことだ。
「交渉、か」
趙文昌の声は平坦だった。
「諸卿の意見を問う。鳳家との交渉について」
重臣たちが顔を見合わせた。しばらく沈黙が続き、やがて一人、また一人と声が上がり始めた。
「やむを得まい。民も官吏も困窮している。このままでは朝廷が内側から崩壊する」
「しかし、交渉と言っても——鳳家は何を求めてくるか分からぬ」
「何を求められようと、飯が食えねば話にならん」
「廃妃にした女に頭を下げるなど、朝廷の威信が——」
「威信で粥が炊けるか」
最後の一言に、議場が一瞬静まった。言ったのは兵部尚書だ。歴戦の武人らしい率直さだった。
趙文昌は数珠の音を止めた。
「——よかろう。交渉使節を鳳凰領に派遣する」
議場にかすかな安堵の空気が流れた。だが趙文昌の目は、安堵とは無縁の色をしていた。
「正使には、礼部の周大人を充てる。交渉の格式を保つためだ。副使には——」
趙文昌は一瞬、言葉を切った。
「——戸部の張副使を充てよう。財政の実務に明るい者が必要だ」
重臣たちが頷いた。妥当な人選に見えた。だが趙文昌の腹心である兵部の一人が、宰相の視線の意味を読み取っていた。
会議が閉じ、重臣たちが議場を出ていく。
趙文昌は最後に残り、議場の隅で一人の男を待った。
張副使——戸部侍郎の張大人。四十がらみの痩せた男で、趙文昌の派閥に属する腹心の一人だ。
「張よ。交渉使節の副使を任せる」
「光栄です、宰相閣下」
「だが——交渉が本当の目的ではない」
張副使は一瞬、目を細めた。
「と、仰いますと」
「鳳凰領に入れば、鳳家の内情を直に見ることができる。穀物の貯蔵量、農地の規模、領兵の数——そして、あの廃妃の弱みだ」
趙文昌は数珠を握った。
「交渉は建前だ。時間を稼ぎながら、鳳凰領の内情を洗え。——特に、穀物の備蓄と、地養術とやらの詳細を探れ」
「承知いたしました」
「それと——」
趙文昌は声をさらに落とした。
「鳳凰領にいる監視役——陸暁風の動向も見ておけ。あの男の報告が最近、妙に中立的になっている。鳳家に取り込まれていないか、確かめろ」
「かしこまりました」
張副使が退出し、趙文昌は一人、議場に残った。
高い天井を見上げた。陽光が差し込み、朱塗りの柱を照らしている。荘厳な空間。だがその荘厳さが、今は空虚に見えた。
(鳳家に頭を下げる——か。四十年の政治家人生で、これほどの屈辱があったか)
趙文昌は歯を食いしばった。
鳳家を排除したのは自分だ。蘇家と組み、偽証で貴妃を追い落とし、鳳家の権力を削いだ。それで全てが片付くと思っていた。食糧などという地味な問題は、金と政治力で何とでもなると。
ならなかった。
(——だが、まだ手はある)
趙文昌は書斎に戻り、机に向かった。
筆を取り、密書を書き始めた。宛先は——朝廷の正規の宛先ではなかった。
『交渉は時間稼ぎに過ぎぬ。鳳凰領の内情を掴み、次の手を打つための布石とする。本当の狙いは——』
筆が止まった。
趙文昌は密書を読み返し、二行目から先を墨で潰した。書き直す。今は具体的なことを書くべきではない。まず交渉使節を送り込み、情報を集め、その上で——
(鳳家を政治で潰せないなら、別の方法を探す。穀物の代替策がなくとも、鳳家に交渉の主導権を握らせるわけにはいかぬ)
趙文昌は新しい密書を書いた。今度は簡潔に。
『交渉は予定通り進める。だが結果は急がぬ。重要なのは、鳳凰領に入ることだ。入れば見える。見えれば手が打てる』
墨が乾いた密書を封じ、懐に入れた。
書斎の卓に、冷えた茶が残っていた。二番煎じの茶だ。かつて毎日飲んでいた龍井茶の香りはもうない。代わりの茶葉は薄く、苦味ばかりが舌に残る。
趙文昌は茶を一口飲み、顔をしかめた。
(鳳家の穀物が止まった程度で、この趙文昌が詰むものか)
だがその自負は、日を追うごとに空虚になっていた。
食糧という、趙文昌が最も軽視していたものが——今や、この国で最も重い武器になっていた。
帝都の夜。宰相府の書斎の灯が、遅くまで消えなかった。




