皇帝の夜
帝都の夜は暗かった。
かつて宮城の燈籠は一晩中灯され、帝都の空を朱色に染めていた。だが燈籠の油も鳳凰領産の上質な桐油が手に入らなくなり、代替品の油は煙が多く、光が弱い。宮城の夜は、以前より一段暗くなっていた。煤の匂いが廊下に漂い、燈籠の傍を歩く宦官たちが時折、袖で鼻を覆っている。
その暗がりの中、皇帝の私室には灯台が一つだけ灯っていた。
瑛承乾は卓の前に座り、夕食の膳を見つめていた。
雑穀粥。干し魚。漬物。
皇帝の食事としては、あまりにも質素だった。いや、質素という言葉すら上等だ。街道沿いの茶屋の定食の方がまだましだろう。
承乾は箸を取り、粥を啜った。
米粒は少なく、ほとんどが雑穀だ。粘りがなく、噛んでも甘みは出ない。干し魚は塩が強すぎ、漬物は酸味が勝っている。
かつて毎日食べていた鳳凰米の白飯。一口で口の中に甘みが広がり、噛めば噛むほど旨みが増したあの飯。あれが——今はない。
承乾は箸を置いた。
(朕が、こうなることを予見できなかったのだ)
窓の外を見た。暗い。月は出ているが、薄雲がかかり、宮城の屋根の輪郭が辛うじて見える程度だ。
廃妃の詔を出した日のことを思い出す。
あの日。大殿で詔を読み上げたとき、承乾の手は震えていた。
微かに。だが確かに。
詔を持つ右手が、紙の端を揺らした。大殿に居並ぶ嬪妃や官吏は気づかなかっただろう。距離が遠すぎる。だが——鳳麗華だけは、あの目で見ていた。
(あの女は、朕の手の震えを見たのだ)
承乾は目を閉じた。
蘇家と趙文昌が提出した証拠。鳳麗華が蘇家と密通し、皇帝の暗殺を企てたという偽証。承乾は疑念を持っていた。証拠が出来すぎている。鳳麗華という女が暗殺を企てるとは思えなかった。
だが——疑えば、朝廷の調査機構そのものを否定することになる。宰相と外戚が結託して提出した証拠を、皇帝が却下すれば、朝廷の秩序が崩壊する。
少なくとも、あの時の承乾はそう判断した。
(——判断したのか。判断させられたのか)
趙文昌の顔が浮かんだ。あの老獪な宰相は、承乾が即位してから四年間、ずっと傍にいた。政治の指南役として、判断の拠り所として。趙文昌が「これが朝廷のためです」と言えば、承乾はそれを信じた。信じるしかなかった。自分の判断力に自信がなかったから。
廃妃の詔も、趙文昌に背中を押された。
『陛下、鳳貴妃の件は証拠が揃っております。ここで裁かねば、朝廷の威信に関わります。お辛いとは存じますが——国のためでございます』
国のため。
あの言葉を、何度聞いただろう。
承乾は粥の碗を手に取り、もう一口啜った。冷めていた。冷めた粥は、温かいときよりもさらに不味い。
(朕が誤ったのだ)
初めて——明確に、その言葉が胸の中で形になった。
これまでは「もしかしたら」「あるいは」という曖昧な後悔だった。だが粥と干し魚の食卓を前に、あの日の手の震えを思い出したとき、言い訳の余地はなくなった。
廃妃にしたのは承乾だ。趙文昌に操られたとしても、詔を出したのは皇帝の手だ。その手が震えていたということは、心のどこかで「これは間違いだ」と分かっていたということだ。
(分かっていて、止められなかった。それが朕の弱さだ)
承乾は膳を押しやり、書架から一通の書簡を取り出した。
陸暁風からの密書。鳳凰領の監視報告だ。
月に二度届くこの密書を、承乾は誰にも見せずに自分で読んでいる。趙文昌にも見せていない。暁風の報告だけは、宰相の手を通さずに受け取りたかった。信頼できる目が見た、偽りのない現実を知りたかったから。
最新の報告を開いた。
『鳳凰領は豊かである。農地は秋の収穫を終え、領民は安定した生活を送っている。鳳麗華は朝から晩まで領務に励み、領民の信頼は厚い。食糧の民間流通は通常通り維持されており、民が飢えている様子はない。なお、蘇家と思われる偵察者が領内で不審な行動を取っていることを確認した。農地ではなく山間部の調査を行っていた模様。詳細は次報にて——』
承乾は書簡を卓に置いた。
(暁風。お前の報告はいつも正直だな)
報告書には一切の評価や意見がない。事実だけが簡潔に記されている。だが事実の選び方そのものが——暁風の気持ちを語っていた。
鳳麗華は危険人物ではない。領民のために働いている。食糧戦略は民を飢えさせていない。
暁風は書いていない。だが読めば分かる。
(朕は——あの女を知らなかったのだ。後宮にいたときも、廃妃にしたときも)
承乾は新しい紙を広げ、筆を取った。
暁風への密旨。
筆が紙に触れ、一瞬だけ止まった。何を書くべきか迷ったのだ。そして——迷いを振り切るように、一気に書いた。
『暁風。鳳凰領の実情を詳しく報告せよ。何も隠すな。ありのままを報告せよ。鳳麗華が何をしているか。領民がどう暮らしているか。蘇家の不審な動きの詳細も含めて。——趙宰相には見せるな。朕だけが読む』
最後の一文を書いたとき、承乾の手は——あの日と違って、震えていなかった。
墨が乾くのを待つ間、承乾は冷めた粥の碗をもう一度手に取った。
一口。
不味かった。だが今度は、最後まで飲み干した。
皇帝が粗末な粥を残さず飲む。そこに気高さがあるかどうかは分からない。だが少なくとも——これが今の自分の食卓なのだと、承乾は初めて正面から受け止めた。
(この粥の味を忘れるな。この渋みを、このざらつきを。これが、朕の判断の結果だ)
灯台の火が揺れ、皇帝の影が壁に大きく伸びた。墨の匂いと、冷えた粥の残り香が、書斎の空気に混じり合っている。
帝都の夜は暗かった。代替の桐油で灯した燈籠は、半刻も持たずに灯芯が焦げ、煤が壁に黒い筋を引く。だがその暗がりの中で、若き皇帝は初めて——自分の目で見ることを選んだ。




