暁風の疑問
鳳家屋敷の庭は、秋の最後の花が咲いていた。
白い萩の花が風に揺れ、石畳の上にはらはらと花弁を落としている。庭の奥には小さな東屋があり、紅葉しかけた楓の枝が屋根の上に影を落としていた。そこで麗華は暁風を待っていた。
卓上には茶器一式が並べてある。急須、茶杯、茶海、湯冷まし。いつもなら春蘭が支度するものだが、今日は麗華が自分の手で揃えた。理由は特にない。ただ、そうしたかっただけだ。
(——理由がないのに手が動く。これを世間では何と呼ぶのかしら)
その問いには答えず、麗華は湯の温度を指先で確かめた。
昼過ぎ。暁風が庭に姿を現した。
灰白の麻袍に革帯。軍装ではなく日常の装いだが、背筋が伸びた歩き方は軍人そのもので、萩の花が舞う庭を歩く姿はどこか場違いに見える。花の庭に刀剣を持ち込んだような、不思議な取り合わせだった。
「陸将軍。お忙しいところ、すみません」
「暇だ。監視の仕事は見るだけでいい」
「あら、正直ですこと」
麗華は東屋の卓に向き直った。急須に湯を注ぎ、最初の湯を捨てる。茶葉を温めるための洗茶だ。手つきは流れるように自然で、後宮仕込みの所作が指先の一つひとつに染み込んでいる。
「——今日は春蘭ではなく、あなたが淹れるのか」
暁風が東屋の長椅子に腰を下ろしながら言った。気づくのか、と麗華は内心で少し驚いた。この男は言葉は不器用だが、目は侮れない。
「ええ。少し、落ち着いて話したいことがあるので」
麗華が向かいに座り、改めて湯を急須に注ぐ。白い湯気が秋の冷気の中で立ち昇り、茶の葉が湯の中でゆっくりと開いていくのが急須の口から見えた。丸まっていた葉が湯を含んで膨らみ、鮮やかな緑が蘇る。
「蘇家の件です」
「聞いている。春蘭から概要は聞いた」
「詳細はこれです」
麗華は懐から春蘭がまとめた報告書を取り出し、暁風に渡した。暁風は受け取り、眉間に皺を寄せながら読み始めた。
茶が蒸れるのを待つ間、麗華は暁風の横顔を見ていた。報告書を読む暁風の表情は真剣そのもので、文字を追う墨色の瞳が左右に動いている。眉間の皺は深くなるばかりで、一行読むごとに険しさが増す。日焼けした額に、秋の陽が斜めに差していた。
(——この人は、嘘が書けない目をしている)
ふと、そう思った。この目で読んだものは、そのまま皇帝に報告されるのだろう。飾ることも、隠すこともなく。だからこそ、この報告書を見せる意味がある。
暁風が自分の言葉ではなく、自分の目で見た事実を伝える。それが皇帝に届いたとき、蘇家の行動は麗華の訴えではなく、将軍の報告として扱われる。
「……霊脈の露頭を三箇所。岩の標本まで採取している」
暁風が報告書を卓に置いた。紙を押さえた指に力がこもっている。
「蘇家が農地ではなく霊脈を調べている。これは——看過できない」
「ええ。蘇家が何を企んでいるかは分かりません。ですが、霊脈に手を出されれば、鳳凰領の農業基盤が脅かされます。それは帝都の食糧にも直結する」
「つまり——」
「鳳凰領を守ることは、帝都を守ることでもある。皇帝陛下も、そうお考えになるのではありませんか」
暁風は腕を組んだ。考え込んでいる。腕を組むのはこの男の癖で、何かを真剣に考えているときに必ず出る。
「あんたの言いたいことは分かる。俺にこれを皇帝に報告しろ、と」
「そうは言っていません。ただ、事実をお伝えしただけですから」
「——回りくどい」
「直接的に言えば、あなたは困るでしょう。監視役が被監視者の指示で動いていると思われたら」
暁風が一瞬、目を逸らした。図星だった。墨色の瞳が泳ぎ、視線が萩の花に逃げる。この男は本当に、嘘がつけない。
麗華は茶を二杯に注いだ。碧螺春。繊細な甘みと清涼感のある茶だ。淡い緑色の茶液が白磁の杯に注がれると、ほのかに甘い香りが秋の風に乗って立ちのぼった。
「どうぞ」
暁風が茶杯を受け取った。武骨な指が白磁の杯を持つ姿は、やはり不釣り合いだった。剣の柄を握るための手が、茶杯をぎこちなく包んでいる。口をつけ、一口飲む。
「……この茶は」
「碧螺春。前にもお出ししたでしょう? お気に召したようでしたので」
暁風の手が止まった。覚えている。この茶の味は覚えている。鳳凰領に来て最初の夜、麗華が出した茶。監視対象から受け取った最初の一杯。あのとき暁風は任務の手前、断るべきかどうか迷った末に口をつけた。そして一口で、今まで飲んでいた茶とは別物だと知った。
「覚えている」
「あら」
麗華は微笑んだ。いつもの穏やかな笑み。だがその目には、ほんのわずかな温かみがあった。
(この人が覚えていてくれたこと。それが少し——嬉しいと思うのは、なぜかしら)
感情に名前をつける前に、話を戻す。それが麗華のやり方だ。
「——それで、だ」
暁風は茶杯を置き、背筋を正した。麗華の微笑みに動揺したのを隠すように、声を硬くする。
「蘇家の件。俺が巡回の範囲を広げる。露頭の周辺も巡回経路に入れる」
「あなたが?」
「皇帝陛下には報告する。蘇家が鳳凰領で不審な活動をしていると。——それは監視役としての正当な報告だ。あんたに言われたからじゃない」
「もちろん。あなたの判断ですものね」
「……そういう言い方をされると、言わされている気がする」
「気のせいです」
暁風は渋い顔をした。だが反論はしなかった。反論する余地がないことを、この数ヶ月の付き合いで学んでいた。この女に言葉で勝つのは不可能だ。剣ならば自信があるが、舌戦では赤子も同然だった。
「あと一つ。巡回は俺一人では足りない。配下の兵を数名、露頭の警備に当てたい」
「ありがたいですこと。忠犬殿」
「……その呼び方はやめろ」
「ふふ。冗談です。——ありがとう、暁風殿」
呼び方が変わった。
暁風は一瞬、目を瞬いた。「陸将軍」でも「忠犬殿」でもなく、「暁風殿」。名で呼ばれたのは初めてではないが、今日の響きには、今までとは違う何かが含まれていた。
「……いつから名で呼ぶようになった」
「さあ。いつからでしょう。嫌でしたか?」
「嫌じゃない」
即答だった。言ってから、暁風は自分の答えの速さに少し戸惑ったように目を逸らした。耳の先がわずかに赤い。
麗華は茶杯を唇に寄せ、笑みを隠した。
(——この人。不器用にもほどがあるわ)
東屋に秋風が吹き込み、白い萩の花弁が茶杯の縁に一枚落ちた。暁風がそれを無骨な指先でつまみ、風に放した。花弁は秋の光の中をゆるりと舞い、庭の石畳に落ちた。
「巡回は明日から始める」
「お願いします。——茶のおかわりはいかが?」
「……もらう」
麗華が茶を注ぐ。暁風が受け取る。碧螺春の繊細な甘みが、白磁の杯の中で静かに湯気を立てている。
その動作は、いつの間にか自然になっていた。監視役と被監視者の間に、そんな自然さがあっていいのか——暁風はふと考えかけて、考えるのをやめた。
今は、この茶が美味い。それだけでいい。
碧螺春の清涼な香りが、秋風に乗って庭に広がった。




