霊脈の露頭
鳳凰領の東の山中は、秋の紅葉が盛りを過ぎ、枯れ葉の絨毯が渓谷の底を覆い始めていた。風が吹くたびに落ち葉が舞い上がり、渓流の水面に朱と黄の色彩を散らしていく。山の空気は冷たく澄み、鼻の奥に針葉樹の青い匂いが染みた。
春蘭の配下の者が、この渓谷で蘇家の偵察者を追跡し始めたのは十日前のことだ。今日、その追跡の最終報告が届いた。
「お嬢様。お時間をいただけますか」
午前の農務を終えた麗華のもとに、春蘭が巻物を手に現れた。
「蘇家の偵察者の行動記録の全容がまとまりました」
「場所を変えましょう。書斎で」
鳳家屋敷の書斎は、麗華の私的な執務室だ。書架に農書と政治書が並び、卓の上には鳳凰領の地図が常に広げてある。春蘭は卓の対面に座り、巻物を広げた。
「偵察者は計三名。いずれも蘇家の私兵です。鳳凰領に入ったのは先月中旬。身分を偽って流れの薬売りを装っていました」
「行動は」
「ここが重要です。三名とも、農地にはほぼ立ち入っていません。動いていたのは山間部です。特に——」
春蘭が鳳凰領の地図上に、三箇所を指で示した。
「東の渓谷。北の峰の麓。そして南の鍾乳洞の入り口。——この三箇所を重点的に調べていました」
麗華は地図を見つめた。
その三箇所は、麗華にとって馴染み深い場所だった。
「霊脈の露頭ね」
「はい。鳳凰領で霊脈が地表に露出している主要な三地点と、ほぼ一致します」
霊脈の露頭。大地の奥を流れる霊脈が、ところどころで岩盤の隙間から地表に顔を出す場所。麗華が地養術の力を最も感じやすい場所であり、同時に——鳳凰領の豊かさの根源に最も近い場所。
「偵察者たちは何をしていた?」
「岩を削って標本を採取していました。また、露頭周辺の地形を絵図に写し、方位と距離を記録していたようです」
「岩の標本まで」
麗華の声が低くなった。
「それと——」
春蘭が一枚の紙片を差し出した。
「偵察者の一人が落とした書き付けを回収しました。暗号めいた文言ですが、解読を試みたところ——」
紙片には、崩した字で数行の文が書かれていた。春蘭の横に添えられた解読文を読む。
『東の露頭、脈の太さ推定三尋。色は翡翠。南の洞窟入口では脈動を肌で感じた。報告書に詳細図を添付する』
麗華は紙片を卓に置いた。
「蘇家は、農地を見ていなかった。穀物を見ていなかった。見ていたのは、霊脈そのもの」
「はい」
「政治的な嫌がらせや偵察ではない。もっと根本的なものを調べている」
麗華は椅子の背もたれに身を預け、天井を見上げた。
(蘇家は何を企んでいる。霊脈の情報を集めて、どうするつもりだ。蘇家に地養術は使えない。使い手がいない。だとすれば——)
いくつかの可能性が頭を巡った。
一つ。霊脈の情報を朝廷に売り、趙文昌を出し抜こうとしている。
二つ。霊脈を破壊する方法を探している。鳳凰領の力の源を断てば、鳳家は無力になる。
三つ。霊脈の力を鳳家以外の者が利用する方法を模索している。
どの可能性も、麗華にとっては看過できないものだった。
「春蘭。偵察者はまだ領内にいる?」
「一名は先週脱出しました。残り二名は——現在も領内で活動中です。泳がせています」
「泳がせ続けなさい。ただし、露頭への接近はこれ以上許さないで。巡回の頻度を上げて、偵察者が露頭に近づけないようにする」
「承知しました」
「それと——」
麗華は卓の上の干し果実に手を伸ばした。鳳凰領産の干し杏だ。皺の寄った表皮が飴色に光っている。噛むと甘酸っぱい味が口に広がった。果肉は柔らかく、舌の上で甘みと酸味が順番に押し寄せる。この杏も地養術の恩恵を受けた土地で育ったものだ。帝都の干し杏とは甘みの深さが根本から違う。
「この果実も、霊脈の恩恵よ。霊脈が枯れたら、この味も消える」
干し杏を噛みしめながら、麗華は地図に目を落とした。
「政治だけではない。もっと深い何かを狙っている」
呟いた。
蘇家が政治的権力だけを求めていたなら、鳳家を廃妃に追い込んだ時点で目的は達成されているはずだ。それをわざわざ霊脈の調査に人を送るということは、蘇家は食糧問題の本質——霊脈と地養術の関係——に気づき始めている。
気づいた上で、それを手に入れようとしている。あるいは——潰そうとしている。
(蘇家がどこまで知っているか。何をするつもりか。今の段階では分からない。だが——)
麗華は地図の霊脈の露頭の位置に視線を走らせた。三箇所。いずれも鳳凰領の防衛線の内側にある。外部から簡単に侵入できる場所ではないが、偵察者が入り込めた以上、防備は万全ではない。
「陸将軍にも、この件は伝えるべきですか」
春蘭が訊いた。
麗華は一瞬、考えた。
暁風は皇帝の監視役だ。蘇家の不審な行動を伝えれば、暁風は皇帝に報告するだろう。それは蘇家の動きを牽制する材料になる。だが同時に、鳳凰領の霊脈の情報が朝廷に流れることでもある。
(——でも。暁風は、この件では味方の側にいる)
「伝えるわ。暁風殿には」
「分かりました」
麗華は干し杏の最後の一欠片を口に入れ、立ち上がった。
「さて。蘇家の思惑がどうあれ、こちらのやることは変わらない。霊脈を守る。領地を守る。食糧を武器にし続ける。——ただし、守るべきものが一つ増えたわ」
「霊脈そのもの、ですね」
「ええ。地の下に流れる、目に見えない命綱よ」
書斎を出る麗華の背中を、春蘭は見送った。その足取りに迷いはない。だが肩に力が入っている。新たな戦線が開かれたことを、麗華の体が理解しているのだ。
干し杏の香りがまだ部屋に残っていた。甘酸っぱい、鳳凰領の恵みの匂い。
その恵みの源を、敵が狙い始めている。
戦いは、食卓の上だけでは終わらないかもしれなかった。




