笑っていない笑顔
鳳凰領の夜は静かだった。
秋の虫の音が庭を満たし、池の水面に映る月が揺れている。鳳家屋敷の奥まった一画にある麗華の私室は、灯火が一つだけ灯っていた。
麗華は窓辺の卓に肘をつき、一人で茶を飲んでいた。
金萱茶。鳳凰領の南の丘陵で育てた品種で、花のような甘い香りが特徴だ。麗華が最も好む茶の一つ。湯気が灯火に照らされて、金色に揺れている。茶杯を両手で包むと、掌にじんわりと温かさが伝わってきた。
だが麗華の目は、茶ではなく窓の外を見ていた。
遠くに田畑が広がっている。収穫を終えた後の畑は、黄金色の切り株が整然と並び、月光の下で銀に光っていた。鳳凰領の秋は豊かだ。穀物は実り、民は笑い、食卓には旬の作物が並ぶ。
(帝都は今頃、粥と干し魚の宴席でしょうね)
春蘭から届いた帝都の情報を、一つひとつ思い返す。宮廷の大宴が三品にまで縮小したこと。官吏が市場に並んでいること。民衆の噂話が止まらないこと。情報統制が逆効果に終わったこと。趙文昌が部下を怒鳴りつけたこと。
全て、計算通りだ。
官糧を止めて三月。麗華が描いた食糧戦略の青写真は、寸分の狂いもなく進行している。権力者の食卓だけが枯れ、民間の流通は維持され、民心は鳳家に傾いている。朝廷は追い詰められ、いずれ交渉に応じざるを得なくなる。
全て——計算通り。
なのに。
麗華は茶杯を口元に寄せた。金萱茶の甘い香りが鼻を抜ける。舌の上に広がる、まろやかな花蜜のような余韻。いつもなら、この一杯で一日の疲れが溶けていくのに。
今夜は、味がぼやけていた。
「お嬢様。入ってもよろしいですか」
春蘭が障子の向こうから声をかけた。
「ええ、どうぞ」
春蘭が入室し、麗華の向かいに座った。侍女頭の手には、帝都からの最新の情報をまとめた書簡が握られている。灯火に照らされた春蘭の顔には、隠しきれない昂揚があった。
「帝都の報告です。宮廷の大宴は、ついに粥と干し魚と漬物の三品になったそうです。趙文昌は宴席で部下を怒鳴りつけ、高官の間からは『鳳家に頭を下げるしかない』という声が——」
「楽しそうね、春蘭」
「え?」
「報告のとき、あなたの声がいつもより明るいわ」
春蘭は一瞬きょとんとし、それから気まずそうに視線を落とした。
「……申し訳ございません。つい、ざまあ見ろ、と思ってしまって」
「正直でよろしい」
麗華は茶杯を傾けた。金萱茶の甘い香りが広がる。しかしその香りを、麗華は味わっていなかった。指が茶杯の縁を無意識になぞっている。
「春蘭。あなたが嬉しいのは分かるわ。私を廃妃に追い込んだ者たちが困っている。当然の報いだと思うでしょう」
「はい。あの者たちには、もっと苦しんでいただきたいくらいです」
「……そうかしら」
麗華は茶杯を卓に置いた。
指が無意識に左手首の内側を撫でた。怒りを感じたときの癖だ。だが今、麗華が感じているのは怒りではなかった。もっと捉えどころのない、冷たい何かだった。
「ねえ、春蘭。帝都の宮廷料理人は、どうしているかしら」
「料理人、ですか?」
「ええ。あの料理長——李師傅は腕の良い人だった。花巻一つにも手を抜かない職人よ。生地を三度捏ね、蒸し上がりの柔らかさを指先で確かめてから出す。あの人が今、粥と干し魚しか出せなくて、泣いているかもしれない」
「…………」
「官吏の家族も。下級官吏の妻たちは、俸禄米が不味くて市場に走っている。子供に白い飯を食べさせたくて、家計を切り詰めて鳳凰米を買っている。あの子供たちは、何もしていない。ただ親が朝廷に仕えているだけ」
春蘭は黙った。
「私が止めたのは官糧よ。権力者の食卓。でも——官吏にも家族がいる。子供がいる。彼らは何も悪くないのに、食卓が貧しくなっている」
「しかし、お嬢様。それは朝廷の自業自得では——」
「そうよ。自業自得よ」
麗華の声は穏やかだった。だがその穏やかさの下に、微かな——ほんの微かな翳りがあった。
「自業自得。計算通り。全て予定通り。——でもね、春蘭」
麗華は窓の外を見た。月が雲に隠れかけている。庭の池に映っていた月が揺れ、水面が暗くなった。
「勝っているはずなのに、楽しくないの。不思議ね」
春蘭は言葉を失った。
三年間仕えてきた主人が、初めて見せる表情だった。怒りでもなく、悲しみでもなく、冷静さでもない。それは——虚しさ、だった。後宮で蘇家と対峙したときも、廃妃を宣告されたときも、この女は微笑んでいた。それなのに、勝利を手にしかけた今、笑っていない。
「お嬢様……」
「いいのよ。弱音じゃないわ」
麗華は微笑んだ。いつもの穏やかな笑み。だが春蘭には分かった。この笑顔は、楽しくて笑っているのではない。笑っていなければ保てないから、笑っているのだ。
「——ただ、思うのよ。食糧を武器にした先に、何があるのかしら、って」
風が窓から吹き込み、灯火が揺れた。麗華の影が壁に大きく揺れ、一瞬だけ二つに分かれたように見えた。
「朝廷を追い詰めた。交渉に引きずり出す。条件を飲ませる。それで——終わり? 私はそのために、食を武器にしたの?」
春蘭は答えられなかった。
「食は本来、人を生かすものよ。それを武器にするということは——」
麗華は言葉を切った。自分でも、その先を言語化できなかった。
「……お嬢様。私には難しいことは分かりません」
春蘭が静かに立ち上がった。
「ただ、お嬢様が勝っても楽しくないのなら、勝つだけでは足りないのだと、私は思います」
麗華は少し目を見開いた。
「——春蘭。あなた、時々鋭いことを言うわね」
「お嬢様に三年もお仕えすれば、少しは賢くもなります」
金萱茶が冷めていた。
甘い香りはまだ残っているが、温かさは失われていた。
「春蘭。お茶を淹れ直してくれる?」
「……はい。すぐに」
春蘭は立ち上がり、茶器を手に取った。その背中が一瞬だけ震えたのは、主人の笑顔が——初めて、笑っていなかったから。
麗華は再び窓の外を見た。
月が雲の向こうに消え、田畑の銀色の光が翳った。豊かな鳳凰領の夜が、今夜はどこか寂しく見えた。
(復讐で終わるつもりはない。けれど——終わった先に何があるのか、まだ見えていない)
淹れ直された金萱茶を受け取り、一口飲んだ。温かかった。甘い香りが鼻を抜け、花蜜のような余韻が舌の上に広がる。同じ茶葉のはずなのに、春蘭が淹れ直した茶は、先ほどより少しだけ美味しかった。
人の手が入ると、味が変わる。当たり前のことだ。
だが麗華の目は、もう茶を味わってはいなかった。
窓の外の闇を見つめていた。
その闇の向こうに、まだ形のない問いがあった。




