蘇家の野心
帝都から南に馬で半日。蘇家の本邸は、帝都の喧噪から離れた丘陵地帯に広大な敷地を構えている。
瑛朝の名門・蘇家は、代々後宮に妃を送り込み、外戚の地位で権勢を振るってきた一族だ。現在の当主、蘇大人は五十がらみの痩せた男で、鷹のような目と薄い唇が、この男の人間性を如実に語っていた。
その蘇大人が、夜半、書斎で二人の手下と密議を交わしていた。
「——宰相の情報統制が失敗したそうだな」
蘇大人は冷笑した。低い声に嘲りが滲んでいる。
「趙文昌は所詮、紙の上でしか戦えぬ男だ。穀物の問題を言葉で解決しようなどと」
「して、当家はいかがなさいますか」
手下の一人が問うた。
「食糧問題は、使い方次第で我が家の力となる」
蘇大人は卓上の書状を手に取った。蘇玉蘭——後宮で皇帝の寵愛を受ける蘇家の切り札——からの密書だ。
「玉蘭の報告によれば、皇帝は食糧問題に苛立っている。趙文昌への信頼も揺らぎ始めた。——この隙に、宰相の椅子を揺さぶれるかもしれん」
「趙宰相を?」
「食糧問題を解決できない宰相に、何の価値がある。我が蘇家が解決の糸口を示せば、朝廷における発言力は格段に増す」
蘇大人の目が細まった。鷹が獲物を見定める目だ。
「だが、解決の糸口など——」
「鳳凰領の穀物を手に入れるのではない。鳳凰領の力の源を手に入れるのだ」
蘇大人は手下の前に一枚の絵図を広げた。
鳳凰領の地図だった。ただし、通常の地図とは異なる書き込みがある。山間部の複数の地点に、朱で印が付されていた。
「これは?」
「先月、鳳凰領に送り込んだ者の報告だ。鳳凰領の豊かさが地養術なる秘術によるものであることは、すでに分かっている。だが、術の源は鳳家の人間ではない。大地の奥を流れる力——霊脈だ」
蘇大人は朱印の一つを指で示した。
「霊脈は大地の深くを流れるが、ところどころで地表に顔を出す。それが霊脈の露頭だ。我が配下の者は、鳳凰領の農地ではなく、この露頭を調べていた」
「なぜ露頭を?」
「霊脈の力を掌握できれば、鳳家に頼らずとも穀物は育てられる。あるいは——鳳凰領の霊脈を断てば、鳳家の力は消える」
手下が息を呑んだ。
「しかし、霊脈の操作などと——」
「我々にはできん。だが、調べるだけなら話は別だ。まずは情報を集める。使い道は後から考えればよい」
蘇大人は絵図を畳み、懐にしまった。
その目は、食糧問題の解決などという殊勝な動機で輝いてはいなかった。彼が見ているのは、鳳家を超える権力の源泉。穀物を支配する力そのもの。
「——ところで」
蘇大人は話題を変えた。
「晩餐はまだか」
「ただいま用意させております。ですが——その、鳳凰領産の酒が底をつきまして」
「なに?」
「蘇家の酒蔵に残っていた鳳凰領産の黄酒は、先週で最後の壺を開けてしまいました。代わりの酒を手配しましたが——」
蘇大人は眉をしかめた。
「出してみよ」
手下が奥から酒壺を持ってきた。杯に注がれた液体は、鳳凰領の黄酒に比べて色が薄く、濁っている。蘇大人が一口含み——即座に吐き出した。
「——何だ、この酢は」
「申し訳ございません。他領の酒はどうしても——」
「鳳家の酒が手に入らなくなっただと? この蘇家ですら?」
蘇大人の声が低くなった。怒りではなく、屈辱の色が滲んでいた。
蘇家は瑛朝きっての名門だ。後宮に妃を送り、外戚として権勢を誇る。その蘇家の食卓からすら、鳳凰領の産物が消えつつある。
(——あの鳳家の小娘が)
蘇大人は杯を置き、唇の端を歪めた。
政治で鳳家を潰した。廃妃に追い込んだ。それで終わったはずだった。
だが鳳家は穀物を止め、帝都の権力者の食卓を枯らし始めた。政治の手が届かない場所——食卓という最も原始的な戦場で、鳳家は反撃していた。
(面白い。ならば我々も、政治ではない場所で戦おう)
蘇大人は懐の絵図を撫でた。霊脈の露頭を示す朱印。まだ情報は断片的だが、いずれ形になる。
「調査を続けよ。鳳凰領の霊脈の露頭を全て把握しろ。——それと」
「はい」
「調査員には十分注意させよ。鳳家の侍女頭は切れ者だ。前回の者は尾行に気づかれた可能性がある」
蘇大人の懸念は、正鵠を射ていた。
同じ夜。
鳳凰領の鳳家屋敷、春蘭の部屋で、柳春蘭は灯火の下で報告書をまとめていた。
「お嬢様。蘇家の件ですが」
麗華が部屋に入ってきた。夜着の上に薄い上掛けを羽織った、くつろいだ装いだ。手には湯気の立つ杯を持っている。
「蜂蜜湯よ。夜遅くまで起きているなら、身体を温めなさい」
「ありがとうございます。——報告です。先日、鳳凰領内で不審な動きをしていた者の出所が分かりました。やはり蘇家の手の者です」
春蘭が報告書を差し出した。麗華は受け取り、灯火に近づけて目を通した。
「……農地を見ていなかった、とは?」
「はい。行動を辿ったところ、彼は農地ではなく山間部の岩場を中心に調べていました。しかも記録を取っている。鳳凰領の東の山中、渓谷の奥にある——」
「岩場」
麗華の目が細まった。
「蘇家の者が、畑ではなく岩場を調べていました」
岩場。渓谷の奥。鳳凰領の東の山中。
それは——霊脈の露頭がある場所だった。
麗華は報告書を卓に置き、蜂蜜湯を一口飲んだ。温かい甘みが喉を通る。だがその表情に、温かさはなかった。
(蘇家は、穀物ではなく霊脈を見ている。政治的な嫌がらせではない。もっと根本的なものを狙っている)
「春蘭。蘇家の動きを引き続き監視して。それと——領内の霊脈の露頭の場所を全て洗い出して、巡回の頻度を上げてちょうだい」
「承知しました」
「蘇家が何を企んでいるにせよ、霊脈に手を出させるわけにはいかない。あれは鳳凰領の——この国の生命線よ」
麗華は窓の外を見た。夜の鳳凰領は静かで、秋の虫の音だけが聞こえる。遠くに田畑の輪郭がうっすらと見え、その下に——目には見えない霊脈が脈打っている。
(政治の戦いだけではない。もっと深い何かが動き始めている)
蜂蜜湯の甘さが、舌の上でわずかに苦味を帯びた気がした。




