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廃妃にされた悪役令嬢、国の食糧を全て握っているので帝国が詰みました  作者: 蒼月よる


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廃妃の食卓

 鳳凰領ほうおうりょうの夕暮れは、いつも穏やかだ。

 西の空が茜色に染まり、田畑の稲穂が金色の光を弾く。風が吹くたびに稲の波が揺れ、ざわざわと優しい音を立てる。虫の声が遠くから聞こえ、炊飯の煙が屋根の向こうに昇っていく。鳳凰領の夕暮れには、いつも何かが炊かれ、蒸され、煮込まれている匂いがある。この土地の空気そのものに、食の豊かさが染み込んでいた。


 鳳家の食堂は、木造の質素な建物だった。

 貴妃時代の麗華を知る者が見れば驚くだろう。後宮では金と翡翠で飾られた食卓で食事を取っていた女が、今は無垢の木の卓に素焼きの皿を並べて夕餉ゆうげを取っている。だが卓の上は素朴でも、椅子は座り心地がよく、窓の位置は夕日がちょうど入るように計算されていた。麗華らしい、品格のある簡素さだった。


 だが、料理は質素ではなかった。


 卓の中央に、土鍋が置かれていた。蓋を取ると、湯気とともに芳醇な香りが立ち昇る。鳳凰米の炊き込み飯——栗と鶏肉の炊き込みだ。


 鳳凰米が鶏の出汁を吸い込み、一粒一粒がふっくらと膨らんでいる。栗のほくほくとした甘さと、鶏肉の旨みが米に移り、蓋を開けただけで唾が湧く。栗は皮を剥いてから一度蒸し、甘みを凝縮させてから炊き込んでいる。鶏肉は朝のうちに塩をして水分を抜き、旨みを閉じ込めた。表面に散らした三つ葉の緑が、黄金色の炊き込み飯に映えていた。


「今日は炊き込み飯にしてみました」


 麗華が杓子しゃくしで飯を碗に盛った。暁風の碗にはたっぷりと、自分の碗にはやや少なめに。盛り方にも癖がある。暁風は白飯を山盛りにして食べるから、炊き込み飯も多めに。自分は一杯をじっくり味わう方が好きだから、少なめに。いつの間にか、相手の食べ方に合わせた盛り方が習慣になっていた。


「栗は先月の収穫です。鳳凰領の栗は皮が剥きやすくて、実が甘い。鶏は領内の養鶏場から。朝締めの地鶏なので、出汁がよく出ます」


「ああ」


 暁風は碗を受け取り、まず香りを嗅いだ。以前は食事の前に匂いを嗅ぐ習慣などなかったが、鳳凰領の食卓に着くようになってから、自然と身についた所作だった。軍の飯は「食えればいい」で、味も香りも気にしたことがなかった。だが今は、蓋を開けた瞬間の香りが楽しみの一つになっている。


「——いい匂いだ」


「でしょう? 炊き込み飯は、蓋を開けた瞬間が一番おいしいんですよ。香りが閉じ込められていた分、蓋を取った瞬間に一気に広がる。その瞬間のために、火加減を調整するんです」


 他の皿も並んでいた。

 豆腐の麻婆風マーボーふう——絹豆腐が辛味噌の中でとろりと揺れ、上に散らした青葱あおねぎから湯気が立つ。花椒ほわじょうの痺れと豆板醤トウバンジャンの辛さが鼻を刺激する。豆腐は崩れすぎず、箸で持ち上げると辛味噌が絡んでゆっくりと滴る。

 蓮根の甘酢漬け——薄く切った蓮根のしゃきしゃきとした食感と、甘酸っぱい漬け汁が食欲を呼ぶ。蓮根の穴の中にも漬け汁が染みており、噛むと一口ごとに甘酸っぱい汁が弾ける。

 なつめのスープ——干し棗を鶏骨と一緒にゆっくり煮出した滋養の湯。琥珀色の汁に棗の甘みと鶏の旨みが溶け合い、飲むと身体の芯から温まる。枸杞くこの実が数粒浮かんで、赤い色が澄んだスープに映えていた。


 暁風は炊き込み飯を一口食べた。

 箸が止まった。いつものことだ。


 米が——旨い。鶏の出汁を含んだ鳳凰米が、噛むたびに層を重ねるように味を広げていく。最初に米の甘み、次に鶏の旨み、そして栗のほのかな甘さが追いかけてくる。三つの味が口の中で調和し、飲み込んだ後にも余韻が長く残った。白飯だけでも十分旨い鳳凰米が、鶏と栗の力を借りてさらに一段上の味に昇華している。


「……うまい」


「ありがとうございます」


 麗華は自分も一口食べ、満足そうに頷いた。


「暁風どの。帝都の様子は聞いていますか」


 暁風の箸が止まった。呼び方が変わっている。いつの間にか「陸将軍」から「暁風どの」になっていた。いつからだったか。暁風自身も覚えていない。指摘する機を逸して、そのまま受け入れてしまった。


「……春蘭しゅんらんから聞いた。宮廷の食堂が雑穀飯に替わったと。宴席の品数も半減したと」


「ええ」


「市場には鳳凰米が出回っているのに、宮廷にはない。あんたの——策だ」


「はい」


 麗華は棗のスープを一口啜り、碗を卓に置いた。


「私が止めたのは官糧かんりょうです。朝廷の倉庫に入る穀物だけ。市糧しりょう——民間の流通はそのまま。だから帝都の民は困っていない。困っているのは、宮廷の官吏と、軍と、後宮だけ」


「分かっている」


「私が出したのは、帝都全体への兵糧攻めではありません。皇帝の食卓への——」


 麗華は少し考えてから、言葉を選んだ。


「請求書、です」


「請求書」


「ええ。廃妃にした代価の。食べ物を作る人間を追い出したのですから、食べ物がなくなるのは道理でしょう? 私は何も特別なことはしていない。ただ——届けるのをやめただけです」


 暁風は腕を組んだ。眉間に皺が刻まれている。


「……恐ろしい人だ」


「よく言われます」


「褒めていない」


「分かっています」


 麗華は微笑んだ。だがその笑みの奥に、暁風は何か別のものを見た気がした。


(笑っているが——楽しんでいるわけではない。この人は、自分がやっていることの重さを分かっている。食を武器にすることの意味を、誰よりも理解している)


 暁風は炊き込み飯をもう一口食べた。栗の甘さが、口の中に広がった。


「あんたに聞きたいことがある」


「何でしょう」


「民を飢えさせないと言った。その約束は——」


「守ります」


 麗華が遮った。声は穏やかだが、鉄のように硬かった。


「民の食卓には手を出しません。どれだけ朝廷を追い詰めても、市場の穀物は止めない。それが——私の一線です」


 右手の人差し指が、左手首の内側を無意識に撫でた。怒りを感じたときの癖だ。だが今、麗華が怒っているのは朝廷に対してではなく——食を武器にしなければならない状況そのものに対して、だった。


 暁風は麗華の目を見た。琥珀色の瞳に、嘘の気配はなかった。


「……信じる」


「あら。監視役が被監視者の言葉を信じていいのですか」


「信じるとは言っていない。確かめると言っている」


「同じことですよ」


「違う」


 麗華が小さく笑った。今度の笑みには、策略の影も苦さもなかった。ただ——少しだけ、嬉しそうだった。


 暁風はそれに気づかないふりをして、麻婆豆腐に箸をつけた。花椒の痺れが舌を刺し、豆腐の柔らかさがそれを包む。辛い。だが旨い。この味を知ってしまった舌が、帝都の雑穀飯に戻れるだろうか。


(俺は——何を考えている)


 報告書のことを考えなければならない。皇帝に、鳳凰領の状況を正確に報告する義務がある。だが「鳳麗華の料理がうまい」とは書けない。「廃妃の食卓に毎晩招かれている」とも。


 暁風は棗のスープを飲み干し、碗を置いた。


「ごちそうさまでした」


「お粗末さまでした。——あ、暁風どの」


「何だ」


「明日は魚にしようと思うのですが、川魚と海魚、どちらがお好みですか」


 暁風は一瞬黙り、それから答えた。


「……川魚だ」


「承知しました。鳳凰領の清流で獲れる岩魚いわなが旬ですから、塩焼きにしましょう。皮がぱりっと焼けたところに、すだちを絞ると——」


「楽しみにしている」


 言ってから、暁風は自分の言葉に驚いた。監視役が被監視者の食事を「楽しみにしている」などと。


 麗華が嬉しそうに頷いた。暁風は目を逸らし、席を立った。


 食堂を出ると、鳳凰領の夜空が広がっていた。星が降るように瞬き、田畑の向こうからかわずの声が聞こえる。涼しい風が頬を撫で、遠くの農家の明かりが橙色にぼんやり光っている。


(恐ろしい人だ。だが——)


 暁風は立ち止まり、食堂の明かりを振り返った。麗華が春蘭と食器を片付けている影が、窓の向こうに見えた。何か話しながら笑っている。策士の顔ではない。食卓を片づける、ごく当たり前の女の姿だ。


(目が離せない)


 その感情に名前をつけることを、暁風はまだ自分に許していなかった。


 食堂の中で、春蘭が暁風の碗を洗いながら呟いた。


「麗華さま。将軍の碗、三杯分ですね」


「よく食べてくださるようになりましたね」


「最初の日は一杯半でしたのに」


 麗華は少しだけ黙ってから、微笑んだ。


「明日は、きっと四杯になりますよ」


 春蘭は何も言わず、碗を拭いた。

 鳳凰領の夜は深まり、食堂の明かりがゆっくりと消えていった。


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