監視役の男
帝都、御書房。
瑛承乾は玉座に座ることなく、書卓の前に立っていた。
卓上には鳳麗華の帰還に関する報告書が一通。侍従が置いていったものだ。元貴妃は昨日、予定通り帝都を発った。供回りは侍女頭の柳春蘭ただ一人。護衛は鳳家の手配した数名のみ。反抗の素振りは一切なし——
報告書を読み終え、承乾は静かに卓上に戻した。
反抗の素振りは一切なし。当然だろう。あの女が表立って抵抗するはずがない。笑顔のまま、こちらの退路を塞ぐのが鳳麗華という人間だ。
去り際の一言が、耳の奥にこびりついて離れない。
帝都の食卓が寂しくなりませんよう。
あれは挨拶ではない。宣戦布告だ。
承乾は御書房の窓辺に歩み寄った。窓の外には宮城の中庭が広がり、手入れの行き届いた枯山水と白砂の庭が夕陽に照らされている。しかし承乾の目は庭を見ていなかった。あの日の大殿を、微笑んだまま去っていった深紅の裳裾を、思い出していた。
「——暁風」
承乾は名を呼んだ。
御書房の隅に控えていた男が、音もなく一歩前に出た。
陸暁風。禁軍の将軍にして、承乾が最も信頼する腹心。齢二十四。鉄紺の軍袍に暗銀の胸当て。肩当てには禁軍の紋章である雲雷紋が刻まれている。腰に長剣を佩き、背に弓を負った男は、切れ長の墨色の目で主君を真っ直ぐに見つめた。
「は」
一語で応じる。余計な言葉を継ぎ足さない。この男はいつもそうだ。
「鳳凰領へ行け」
承乾は簡潔に命じた。
「鳳麗華——元貴妃を監視しろ。何をしているか、誰と会っているか、領地で何が動いているかを逐一報告せよ」
暁風の表情は変わらなかった。しかし、わずかに眉が動いた。
「……監視、ですか」
「不満か」
「将軍の任務としては、些か」
「些かなんだ」
「——畑違いかと」
承乾は薄く笑った。嘘がつけない男だ。だからこそ信用できる。
「畑違いだからこそ、お前を遣る。政治家を送れば鳳家に丸め込まれる。間者を送れば春蘭に見破られる。お前は嘘がつけないし、裏表がない。つまり、鳳麗華がお前を通じて朕に嘘を伝える余地がない」
暁風は沈黙した。納得したのか、反論を飲み込んだのか。どちらでもいい。この男は命じれば従う。それが忠義だ。
「もう一つ」
承乾は声を低くした。
「鳳凰領を、見てこい。あの領地が——この国にとって何なのかを、お前の目で確かめろ」
暁風の墨色の目が、一瞬だけ鋭くなった。
「お言葉ですが、陛下。廃妃にした相手の領地に将軍を送るのは、朝廷の不安を示すことになりませんか」
「なる。だが不安を隠して破滅するよりはいい」
それきり承乾は口をつぐみ、書卓に向き直った。話は終わりだ、という意味だ。
暁風は一礼し、御書房を辞した。
廊下を歩きながら、暁風は命令を反芻した。
鳳麗華。後宮の貴妃だった女。偽証で弾劾されたという噂は軍内にも流れている。真偽は分からない。政治のことは暁風の領分ではない。ただ、皇帝が「監視しろ」と命じた以上、危険な存在であることは間違いないのだろう。
軍営に戻り、出立の準備を整えた。
荷は最低限だ。替えの衣と武器と、三日分の乾糧。将軍が単身で赴任するのは異例だが、大部隊を連れていけば鳳家を刺激する。暁風と小規模な従卒だけ——それが皇帝の意図だ。
翌朝、帝都の北門を出た。
官道は一本道で、両側に荒地が広がっている。麗華が通ったのと同じ道だ。
街道沿いの茶屋で昼食を取った。出されたのは灰色がかった雑穀の粥と、塩だけで漬けた菜の端切れ。粥は薄く、匙ですくうと底が見える。穀物が足りていない。菜の漬物は色が黒ずみ、塩辛さだけが口に残った。味などあってないようなものだ。
暁風は黙って平らげた。軍の兵糧に比べれば上等だ——と思いかけて、ふと気づいた。軍の兵糧が不味いのは鍛錬の一環だと思っていたが、そもそもこの国の食がこの水準なのではないか。
茶屋の親爺が茶を注ぎ足しながら言った。
「お武家様、北へ行かれるなら、もうすぐ景色が変わりますよ」
「景色が変わる?」
「鳳凰領に入ればね。あそこは別の国みたいなもんですから」
親爺は笑ったが、その笑いには羨望が混じっていた。
暁風は銅銭を卓に置き、茶屋を出た。親爺の言葉が頭に引っかかっていた。別の国。同じ瑛朝の領土であるはずの場所を、民がそう呼ぶ。
さらに半日ほど馬を走らせた。
荒地は相変わらず続いていた。乾いた風が砂を巻き上げ、路傍の木は葉を落としてほとんど骸のようだ。こんな土地で穀物が育つはずもない。百年前の大災が何をもたらしたか、暁風は知識としては知っていた。だが、こうして実際に荒地の中を進むと、知識と実感は別物だと思い知らされる。
そして——
それは唐突に訪れた。
官道の先、左右に広がる景色が一変した。灰色の荒地が途切れ、そこから先は一面の緑だった。
暁風は馬を止めた。
見渡す限りの水田が、午後の陽を受けて輝いている。穂はまだ青いが、茎は太く、葉は深い緑色でみっしりと茂っていた。畦道に沿って水路が走り、澄んだ水が音を立てて流れている。その向こうには果樹園があり、桃や杏が枝もたわわに実をつけていた。
荒地との境界は、刃物で切り取ったように鮮明だった。一歩手前は灰色の死地。一歩先は、溢れんばかりの緑。
風が変わった。
乾いた砂の匂いが消え、代わりに湿った土の香りと、稲の青い匂いが鼻をくすぐった。水を含んだ大地の匂い。生きている土の匂いだ。そして——どこかの家から炊飯の匂いが漂ってくる。白米を炊く、甘くふくよかな湯気の香り。先ほどの茶屋で食べた灰色の粥とは、何もかもが違った。
暁風は、無意識に唾を呑んだ。
これが、鳳凰領。
廃妃が帰る場所。
この国の穀物の七割を生み出す、唯一の生きた大地。
暁風は馬の腹を蹴った。
鳳凰領の門が見えてきた。門の上には鳳家の旗がはためいている。深紅の地に金糸で刺繍された鳳凰紋。その旗は夕陽に染まり、燃えるような赤に見えた。
「——これが、廃妃の領地か」
呟きは風に紛れた。
馬を進めながら、暁風は先ほどの皇帝の言葉を思い出していた。
鳳凰領を見てこい。あの領地がこの国にとって何なのかを、お前の目で確かめろ。
陛下は知っていたのだ。この光景を。荒地と緑の境界線がどれほど鮮烈か。そして、その緑を支配する女を廃妃にしたことが何を意味するか。
門をくぐる。
暁風はまだ知らなかった。この領地で待つ女が、自分の忠義も、信条も、そして人生までも変えてしまうことを。




