玉蘭の苛立ち
蘇玉蘭は、後宮の自室で苛立っていた。
「蜜漬け果実を持ってきなさい」
侍女が膝をつき、目を伏せた。
「玉蘭さま。蜜漬け果実の在庫は、先日をもって——」
「ないの?」
「はい。鳳凰領産の桃の蜜漬けは、もう帝都には入ってきておりません」
玉蘭の細い眉が、きゅっと寄った。
蜜漬け果実は彼女の好物だった。鳳凰領で採れる白桃を丸ごと蜂蜜に漬け込み、三月かけてじっくり仕上げる菓子。果肉が琥珀色に透き通り、口に含むと蜜と桃の香りが溶け合って広がる。噛むたびに果汁が溢れ、甘さの中にほんのかすかな酸味がある。その酸味がまた次の一口を呼ぶ。
後宮に入って以来、毎日の茶菓として欠かしたことがなかった。お茶の時間に白磁の皿の上に載った琥珀色の桃を見るのが、玉蘭にとって一日の中で最も穏やかなひとときだった——蘇家の駒であることを忘れられる、わずかな時間。
「他のもので代わりにならないの」
「他領産の果物で試みましたが、鳳凰領の桃とは味も香りも——」
「試したの? どういうものだった」
「はい。涼州産の杏を蜜に漬けたものを用意いたしました」
侍女が小皿を差し出した。
玉蘭は一切れ口に入れた。——甘い。甘いだけだ。蜂蜜の甘さが口の中に広がるが、果実そのものの味がない。果肉は固く繊維質で、噛むと口の中にざらついた感触が残る。鳳凰領の白桃が蜜と一体になって溶けるような食感とは、天と地の差だった。
「要らない」
玉蘭は皿を卓に戻した。
白磁の茶杯が揺れ、琥珀色の茶が小さく波打つ。侍女が肩をすくめた。
「——ごめんなさい。あなたに当たっても仕方ないわ」
玉蘭は息を吐き、椅子の背にもたれた。
苛立ちの根はもっと深いところにあった。蜜漬け果実が手に入らないこと自体は、我慢できる。問題は、それが意味するものだ。
(鳳凰領が止めた。鳳麗華が止めた。私が廃妃に追い込んだあの女が、帝都の食卓から好きなものを一つずつ消している)
玉蘭は窓の外を見た。後宮の庭園が夕日に染まっている。牡丹の花壇が美しいが、庭園を管理する下働きの食事も質が落ちたと聞いた。花の手入れより腹の足しが欲しいというのが本音だろう。庭師の動きが鈍くなっている。花壇の端に雑草が伸び始めていた。
蜜漬け果実だけではない。
後宮の食卓から、鳳凰領産の食材が次々と消えていた。白米が雑穀に替わった。蓮の実の甘露煮がなくなった。鳳凰領の湖で獲れる淡水魚の蒸し物がなくなった。胡麻油がなくなり、炒め物の味が落ちた。嬪妃たちの不満の声が、日に日に大きくなっている。
玉蘭は文台に向かい、筆を取った。蘇家への書状だ。
——叔父上。帝都の食糧事情が悪化しております。鳳凰領からの納入が完全に止まり、宮廷の食卓にも影響が出ております。蘇家として何か手を打てないでしょうか。
書きながら、筆が止まった。
蘇家に何ができるというのか。蘇家は政治と外交に長けた一族であり、農業や食糧に関する知見は皆無だ。穀物は金で買えばいいと思っている——趙文昌と同じように。
だが金で買える穀物が、もう帝都にはないのだ。
いや、正確には違う。市場には鳳凰米がある。民間の市場には、今日も豊富に並んでいる。ないのは朝廷の倉庫だけ。宮廷の食卓だけ。後宮の——玉蘭の食卓だけだ。
(あの女は、市場には穀物を流している。民は飢えていない。困っているのは朝廷だけ。私たちだけ)
その構造の精巧さに、玉蘭は背筋が寒くなった。
蘇家の教育で磨かれた聡明さが、鳳麗華の戦略の意味を正確に理解してしまう。民を味方につけ、権力者だけを追い詰める。反乱を起こすのではなく、食卓を通じて朝廷の権威をじわじわと削る。力で押すのではなく、「ないこと」の恐怖で相手を屈服させる。
——見事な手だ。
その感想が浮かんで、玉蘭は自分に腹が立った。敵の手を「見事」と思うなど、蘇家の娘にあるまじきことだ。
筆を置いた。墨が紙に滲んで、文字の一部が読めなくなった。
「……鳳麗華」
玉蘭は名前を呟いた。
あの女の去り際の一言を、今でも覚えている。
——帝都の食卓が寂しくなりませんよう。
寂しくなった。蜜漬け果実だけではない。白米も、蓮の実の甘露煮も、上等な胡麻油で炒めた青菜も、何もかも消えた。後宮の食事は日に日に質素になり、嬪妃たちの不満の声がそこかしこから聞こえる。
玉蘭は新しい紙を広げ、もう一通書き始めた。今度は蘇家当主宛ではなく、独り言のような走り書きだ。
——あの女がいなくなれば全て解決すると思った。邪魔な貴妃を消せば、後宮は私のものになると。陛下の寵愛も、権力も、全て。
だが、あの女は後宮を去っても消えなかった。むしろ、いなくなってからの方が存在感が大きい。食卓に座るたびに、鳳麗華の影がちらつく。白い飯がないたびに、蜜漬けの桃がないたびに、あの穏やかな笑顔が脳裏に浮かぶ。
(権力はある。陛下の寵愛もある。後宮の嬪妃たちは私に頭を下げる。なのに——食べたいものが食べられない)
その無力感は、玉蘭が後宮で味わったどの屈辱よりも苦かった。
権力で食卓は満たせない。
寵愛で穀物は生まれない。
演技力で米は炊けない。
蘇家の教育で磨かれた聡明さが、その現実を誰よりも鋭く理解してしまう。
「玉蘭さま。夕餉の支度ができました」
侍女の声に、玉蘭は顔を上げた。
「今夜は何」
「雑穀粥と、干し大根の漬物、それから塩漬けの小魚にございます」
玉蘭は立ち上がり、食卓に向かった。
碗の中の雑穀粥は、濁った灰色をしていた。匙で掬うと、粥というより水に穀物が沈んでいるだけのような頼りない感触だった。
一口含んだ。
甘みがない。香りがない。ただ温かいだけの液体が、喉を通過していく。塩漬けの小魚を齧ったが、塩辛いだけで旨みがない。干し大根は繊維が固く、噛みしめると口の中に渋みが残った。
(こんなもの)
思わず碗を置きそうになり、こらえた。
食べなければ倒れる。倒れれば、後宮での地位が揺らぐ。蘇家の駒として、それだけは許されない。
玉蘭は走り書きの紙を手に取った。
最後の一行を書き加える。
——あの女を追い出したのは私。その報いが、この粥か。
紙を丸め、燭台の火に翳した。炎が端から紙を舐め、文字を灰に変えていく。
灰が卓の上に散った。
玉蘭はそれを手で払い、もう一度粥の碗を手に取った。不味い。だが食べなければ。
蜜漬け果実の甘さを思い出しながら、玉蘭は灰色の粥を啜った。
碗の底が見えたとき、玉蘭の目が一瞬だけ濡れた。だがそれは、蘇家の教育で「武器」として磨かれた涙ではなかった。ただの——苛立ちと、言いようのない空虚さの滲みだった。




