趙文昌の一手
趙文昌は、宰相府の書斎で報告書の山に埋もれていた。
紫紺の官袍の袖口に墨の染みがついているのにも気づかず、手元の帳面を繰り返しめくっている。翡翠の帯飾りが微かに揺れるたびに、傍らの副官が息を詰めた。
書斎の卓には茶が一杯置かれているが、すでに冷めきっている。普段なら三煎目まで味わう上等な龍井茶だが、今日は一口も手をつけていない。
「他領からの穀物調達は」
「各州に早馬を出しております。涼州、青州、雲州——いずれの州にも、余剰穀物の供出を命じました」
「結果は」
副官が喉を鳴らした。
「涼州からは粟が二百石。青州からは麦が百五十石。雲州は——」
「雲州は」
「五十石です。それも品質が——」
「品質は後だ。まずは量を確保せよ。人は生きるために食うのであって、味を楽しむために食うのではない」
趙文昌は言い切り、数珠を弄んだ。玉と玉がぶつかる乾いた音が、書斎に響く。四十年にわたる宰相生活の中で培った信条——政治は現実だ。現実を動かすのは数字であって感情ではない。味がどうであれ、量さえ確保できれば人は死なない。
副官は一瞬口を閉じてから、続けた。
「閣下。集まった穀物の現物が、先ほど倉庫に届いております。ご確認いただけますでしょうか」
「わざわざ確認するまでもなかろう。穀物は穀物だ」
「……恐れながら、閣下ご自身の目で確かめていただいた方がよろしいかと」
副官の声に、奇妙な力がこもっていた。趙文昌は眉を上げたが、立ち上がった。
宰相府の裏手にある倉庫。
扉を開けた瞬間、趙文昌の鼻が異臭を捉えた。酸い。黴くさい。穀物の倉庫にあるべき乾いた甘い香りが、まるでない。
倉庫は広い。かつて鳳凰領からの官糧がここに山と積まれていた頃は、麻袋が天井近くまで積み上がり、穀物特有の香ばしい匂いが満ちていたものだ。今は、隅に寄せられた数十袋が所在なげに転がっているだけだった。
「これが涼州の粟か」
趙文昌は麻袋の一つに手を入れ、中身を掬い上げた。
灰色がかった粟の粒。大きさが不揃いで、中に黒い点が混じっている。虫食いだ。鼻を近づけると、発酵しかけた酸い臭いがした。指で一粒押すと、ぼろりと崩れた。乾燥が足りないのか、芯まで締まっていない。
「青州の麦は」
隣の袋を開けた。
黄ばんだ麦の粒が、半分以上割れていた。水分を含みすぎたのか、指で押すとべちゃりと潰れる。これで粉を挽いても、まともな饅頭は作れまい。粉にした瞬間に黴が生えるだろう。
「雲州は」
副官が三番目の袋を指さした。
趙文昌が中を覗き込んだ瞬間、目の端がぴくりと痙攣した。
米だった。確かに米だ。だが——色が違う。鳳凰米の透き通るような白さとは比べようもない、くすんだ黄色。粒の大きさは鳳凰米の半分ほどで、欠けている粒が多い。匂いを嗅ぐと、米と呼ぶには生臭い。保存状態も悪く、袋の底に粉が溜まっている。砕けた粒が混じっている証拠だ。
「これが、各州の精一杯にございます」
副官が苦い顔で言った。
「各州の土地は荒地化が進んでおり、自領の食糧を維持するだけで精一杯。余剰として供出できる量も質も、この程度が限界です」
趙文昌は雲州の米を掌に載せたまま、しばらく黙っていた。
数珠を弄る手が止まっている。副官はその沈黙が怖かった。数珠が止まるのは、宰相が重大な判断を下す前兆だからだ。
だが今回ばかりは、判断ではなかった。
困惑だった。
(鳳凰米との差が、ここまでとは)
趙文昌は政治に生きてきた。科挙の首席合格以来、四十年間、朝廷の中枢で権力を操ってきた。穀物とは帳簿の上の数字であり、倉庫に積まれる袋の数であり、流通を操作する対象だった。味がどうの、色がどうのと考えたことはない。
「人は食うために生きるのではなく、生きるために食う」——それが趙文昌の持論だった。
だが、目の前の現実は帳簿の数字では覆せなかった。
色が違う。匂いが違う。粒の大きさが違う。触った感触が違う。何もかもが、鳳凰米とは雲泥の差だった。そしてこの差は、政治力では埋められない。
「——量が確保できれば、品質は二の次だ」
趙文昌は掌の米を袋に戻し、手を払った。
「宮廷の食卓に並べる必要はない。軍の兵糧と官吏の俸禄米を、これで賄え。味が不満なら黙って食えと伝えよ」
「閣下。量につきましても——」
副官が帳面を広げた。
「三州からの供出を合算しても、宮廷と軍の必要量の三割に満たず。残り七割の不足分をどう補うか、算段が立っておりません」
三割。
たった三割。
趙文昌は書斎に戻り、椅子に腰を下ろした。冷めた龍井茶を一口含んだが、味がしなかった。
机の上に広げられた報告書——鳳凰領の食糧生産に関する過去十年の統計。その数字を改めて読み直す。
瑛朝全土の穀物生産量のうち、鳳凰領の占める割合——七割。
残り三割を、他の全州が分け合っている。
しかもその三割すら、荒地化の進行によって年々減少している。
(穀物の七割。穀物の——七割)
この数字の意味を、趙文昌は初めて実感した。
帳簿で見る「七割」と、腐りかけた粟の酸い臭いを嗅いだ後の「七割」では、重みがまるで違った。
「……小娘が」
呟きが漏れた。
趙文昌は数珠を弄り直した。今度は速い。玉と玉がせわしなくぶつかり、乾いた連打音が書斎に響く。
「たかが穀物で——」
言いかけて、止めた。
たかが穀物。その一言を口にするには、先ほどの倉庫の光景があまりにも生々しかった。
副官が退室した後、趙文昌は一人で書斎に残った。
報告書の数字を睨む。数珠の音だけが、薄暗い書斎に響き続けていた。
窓の外で、夕暮れの帝都に炊飯の煙が立ち昇っている。あの煙の下では、市場で買った鳳凰米が炊かれているのだろう。民は食べている。朝廷だけが、食べられない。
趙文昌は数珠を握りしめ、目を閉じた。




