宮廷料理人の嘆き
宮廷の厨房は、帝都の地下に広がる巨大な空間である。
煉瓦造りの竈が十二基、蒸籠を積み上げる棚が壁一面、乾物を吊るす天井の梁からは干し肉や香辛料の束がぶら下がっている。最盛期には五十人の料理人が立ち働き、朝昼夕の三食に加えて宴席の支度までこなす——瑛朝の台所を文字通り支えてきた場所だ。
だが今、その厨房は沈黙に包まれていた。
十二基の竈のうち、火が入っているのは三基だけ。残りは冷えたまま、煉瓦の表面に白い灰が薄く積もっている。蒸籠は重ねられたまま動かず、乾物の吊るし棚には空の鉤ばかりが目立つ。
「もう一度、確認する」
宮廷料理長の周善明は、竈の前に広げた帳面を睨んでいた。五十代の恰幅のいい男で、料理人としての腕は瑛朝随一と謳われている。二十年前に料理長に就任し、先帝から今上帝に至るまで、宮廷の食卓を守り続けてきた。その顔が、今は蒼白だった。
「鳳凰米——在庫なし。鳳凰領産の小麦粉——在庫なし。蓮の実——在庫なし。干し棗——残り三日分。胡麻油——残り五日分。花椒——」
「長、もう読まなくとも」
副料理長が遮った。
「鳳凰領産の食材は、ほぼ全滅です」
周善明は帳面を閉じ、太い腕を組んだ。
宮廷の宴席は通常、十五品で構成される。前菜三品、温菜五品、冷菜二品、湯菜二品、主食二品、甜品一品。各州の代表や外交使節をもてなす国宴から、後宮の祝い事まで、この十五品の格式が瑛朝の威信を示す。
そのうち、鳳凰領産の食材を使わずに作れるのは——
「八品です」
周善明は唸った。
「八品。宴席が八品。先帝の御代ですら、最も質素な宴で十二品あった」
料理人たちが顔を見合わせた。
問題は品数だけではない。消えた七品は、いずれも宴席の花形だった。
燕の巣と冬瓜のスープ——琥珀色の清湯に燕の巣が糸を引くように浮かび、冬瓜の翡翠色が彩りを添える至高の一椀。
紅焼肉——鳳凰領産の豚を甘辛い醤油と氷砂糖で煮込んだ、脂身が飴色に透き通る名物。
蟹の甲羅蒸し——秋の宴の花形。鳳凰領の湖で獲れる大蟹を甲羅ごと蒸し上げ、生姜酢で食す。
蓮の実の甘露煮——蓮の実をゆっくり蜜で炊き上げた甜品。一粒で口の中に広がる甘さが、宴の余韻を締めくくる。
翡翠粥——鳳凰米に翡翠色の青菜の汁を混ぜて炊いた粥。見た目の美しさと滋味深い味わいで、宰相の趙文昌が殊のほか好んでいた。
名前を並べるだけで、周善明の喉が鳴った。どれも鳳凰領の豊かな土壌が育んだ食材がなければ成立しない料理ばかりだ。
「代わりに出せるものは」
「干し野菜の炒め物、塩漬け魚の煮付け、雑穀の粥。あとは——」
副料理長が言い淀んだ。
「あとは?」
「漬物です、長」
沈黙が降りた。
五十人の料理人が——いや、今は三十人に減っている。仕事が減れば人も減る——竈の前で拳を握りしめていた。自分たちの腕が落ちたわけではない。材料がないのだ。名匠が最高の筆を持っていても、墨がなければ何も描けない。それと同じだ。
若い料理人が、拳で竈の縁を叩いた。
「長。俺たちの腕で、何とかならないんですか。鳳凰領の食材がなくても、工夫すれば——」
「工夫はする」
周善明が静かに答えた。
「だが、いくら工夫しても、ない食材は出せん。干し野菜を十品並べたところで、燕の巣の代わりにはならん。味も、格も、何もかもが違う」
若い料理人が唇を噛んだ。
周善明はその肩を叩き、厨房を出た。
「——陛下に報告する」
宮城の長い回廊を歩きながら、かつて鳳貴妃——いや、廃妃となった鳳麗華が後宮にいた頃のことを思い出していた。
あの方は、厨房にもよく足を運ばれた。
貴妃の身分で厨房に立つなど前代未聞だったが、麗華は食材の目利きに優れ、周善明も舌を巻くほどの味覚の持ち主だった。ある晩、宴の仕込み中に麗華がふらりと現れ、火加減の助言をしたことがある。
——周料理長、この蓮の実は煮すぎですよ。あと一刻早く火を止めて。芯に残る甘みが、スープの余韻になるのですから。
その助言通りにしたら、出来上がったスープは皇帝を唸らせた。
あのとき麗華は微笑んで言ったものだ。
——料理長の腕があればこそです。私は少し、口が贅沢なだけ。
謙遜だった。だが心地よい謙遜だった。あの方は食の価値を知っていた。料理人の仕事を理解し、敬意を持っていた。
(あの方がいなくなり、あの方の食材もなくなった。この厨房に何が残る)
内廷の御書房の前で、周善明は膝をついた。
「——陛下。宮廷料理長の周善明、ご報告申し上げます」
扉が開かれ、皇帝の前に通された。
承乾は書案の向こうに座り、周善明を見下ろした。その表情は穏やかだったが、目の下に薄い隈がある。朝の粟粥以来、あまり食が進んでいないのかもしれなかった。
「申し上げます。来月の国宴の献立につきまして——品数を、十五品から八品に減じる許可をいただきたく」
承乾の眉が微かに動いた。
「八品」
「はい。鳳凰領産の食材がなければ、これが精一杯にございます。臣の——臣の力不足でございます」
周善明の声が震えた。太い肩が揺れている。料理長として二十年、宮廷の食卓に恥じない品を出し続けてきた男の誇りが、いま崩れかけていた。
「臣が無能なのではございません。いえ——無能なのやもしれません。しかし、材料が。材料さえあれば、臣は——」
「分かっている」
承乾は静かに言った。
「材料の問題だ。お前の腕の問題ではない」
「陛下……」
「八品でよい。出せるもので最善を尽くせ。それが料理人の務めであろう」
周善明は深く頭を下げ、御書房を退出した。
回廊を歩きながら、袖で目元を拭った。涙ではない。ただ、目が熱かっただけだ。
扉が閉まった後、承乾は書案に両肘をつき、額を掌で覆った。
八品。
宴席の品数が半分になる。それは単なる食事の問題ではない。国の威信の問題だ。宴に招かれる各州の代表や、外交使節がこの食卓を見れば、瑛朝の台所事情は丸裸になる。
八品の宴で国賓をもてなせば、「瑛朝は衰えた」と見なされる。隣国に付け入る隙を与えることになる。
(鳳麗華。お前の一手は、食卓だけでなく朝廷の体面をも削りにきている)
承乾は目を閉じ、今朝の粟粥の味を思い出した。
あの薄い甘みと、ざらついた舌触り。鳳凰米の白粥が当たり前だった頃は、粥の味など気にしたこともなかった。
失って初めて知る。
それが食というものの、残酷な本質だった。




