消えた白米
その日、帝都の朝は静かだった。
いつもと同じ刻限に鐘が鳴り、いつもと同じように宮城の門が開き、いつもと同じ顔ぶれの官吏たちが朝議のために参内する。空は秋晴れで、宮城の甍に朝日が反射して金色に光っていた。
変わったのは、食堂だった。
宮廷の官吏食堂は、本来ならば瑛朝の威信を示す場である。朝餉の膳には鳳凰米の白飯が盛られ、副菜が四品、汁物が一椀。下級官吏であっても、帝都の一般市民よりは上等な食事が保証されている——はずだった。
食堂の壁には「食は国の基なり」と揮毫された額が掲げられている。先帝の御筆だ。その額の下で、百人を超える官吏たちが毎朝、朝廷の威光を腹に収めてから政務に就く。それが瑛朝の日常だった。
「……何だ、これは」
戸部の末席に座る若い書記官が、膳の上を見て声を上げた。
碗の中に盛られているのは、白飯ではなかった。灰色がかった雑穀の飯。粒の大きさが不揃いで、粘りがなく、箸でつまむとぱらぱらと崩れる。
「鳳凰米は」
隣の同僚が首を振った。
「今朝から切り替わったそうだ。厨房の者が言うには、備蓄の鳳凰米が底をついたと」
食堂のあちこちでざわめきが起きていた。
碗を覗き込む者、箸を止めて隣人と顔を見合わせる者、無言で雑穀飯を口に運んでから眉をひそめる者。
それぞれの反応は違えど、ひとつだけ共通していたのは——誰もが「鳳凰米の味」を覚えていることだった。
(粘りがない。甘みがない。香りもない)
若い書記官は一口食べて、箸を膳に置いた。不味いわけではない。雑穀は雑穀なりの素朴な味がある。だが鳳凰米を知ってしまった舌には、何かが決定的に足りなかった。穀物の甘みだけではない。炊き上がりの艶、口に入れた瞬間の粘り、噛み締めるたびに広がる米の余韻——その全てが消えている。
噛んでも甘みが広がらない。飲み込んでも余韻がない。鳳凰米の白飯ならば、口の中に残る甘い残り香が鼻に抜け、もう一口を自然に促す。あの感覚が、完全に消えている。
「一時的な措置でしょう」
上席の老官吏が、落ち着いた声で場を収めようとした。
「鳳凰領からの次の納入があれば元に戻る。騒ぐほどのことではない」
だが、その老官吏の箸も微かに震えていた。
彼は知っているのだ。鳳凰領からの官糧がもう二月届いていないことを。そして次の納入の見通しが、まったく立っていないことを。
食堂の隅で、二人の武官が低い声で話していた。
「聞いたか。禁軍の糧食も来月から雑穀に切り替わるそうだ」
「軍の飯まで? 冗談だろう」
「冗談ならよかったがな。兵糧官が頭を抱えていた。演練の後に腹いっぱい白い飯を食うのが兵の楽しみだったのに、それが雑穀になれば士気に関わる」
「鳳凰領が出荷を止めた、というのは本当か」
「分からん。だが、備蓄が尽きたのは事実だ。倉庫を見た者がいる。空っぽだったそうだ」
二人は顔を見合わせ、黙って雑穀飯を口に運んだ。
雑穀飯の碗から立ち昇る湯気は、鳳凰米のときのような甘い香りを持たない。ただ温かいだけの、味気ない蒸気が天井に消えていった。
副菜の皿にも変化があった。いつもなら鳳凰領産の青菜を胡麻油で炒めた一品が添えられていたが、今朝はそれが塩漬けの大根に替わっている。汁物も、鶏骨出汁の清湯ではなく、干し菜を煮たものだ。一品一品の変化は小さい。だがその「小さな変化」の積み重ねが、食堂全体の空気を確実に変えていた。
——同じ朝。
内廷の皇帝の食卓にも、変化は及んでいた。
瑛承乾は、膳の上に並んだ品を黙って見下ろしていた。
白粥がない。代わりに置かれているのは、粟と稗を混ぜた粥だった。色が黄色く濁り、表面に薄い膜が張っている。副菜も品数が減った。干し野菜の和え物と漬物が一品ずつ。昨日まであった蒸し魚の皿が消えている。
かつて鳳凰米の白粥には、蓮の実と棗が散らされていた。粥そのものの甘さに、蓮の実のほくりとした食感と棗の深い甘みが重なり、朝の一杯で一日の活力が満ちるような食事だった。それが——粟粥と漬物に替わっている。
「……陛下」
給仕の宦官が、怯えた顔で膝をついた。
「申し訳ございません。鳳凰領産の食材が——」
「分かっている」
承乾は短く遮った。
宦官を咎めても意味がない。これは厨房の問題ではなく、もっと根深い——廃妃にした女がもたらした、静かな報復の第一手だ。
承乾は粟粥を一口含んだ。
甘みが薄い。舌触りがざらついている。飲み込んだ後に、喉の奥に微かな渋みが残った。
(鳳麗華)
去り際に彼女が残した言葉が、脳裏に蘇る。
——帝都の食卓が寂しくなりませんよう。
寂しくなっている。まさに、その通りに。
あの言葉が予言だったのか、それとも宣戦布告だったのか。今となっては、その両方だったのだろう。
承乾は二口目の粥を啜り、三口目で碗を置いた。
食欲が失せたわけではない。ただ、この粥を食べ続ける朝が明日も、明後日も続くのだという予感が、胃の底を冷たく重くしていた。
(廃妃を命じたのは朕だ。その結果がこれだ。鳳家の穀物を失うとは、こういうことだったのか)
陸暁風の報告書が思い出された。鳳凰領の食の豊かさ。領民の笑顔。麗華の領地経営の様子。事実のみが淡々と記された報告書の行間に、暁風が何を感じているか——承乾には読み取れた。
「——宰相を呼べ」
宦官が慌てて立ち上がり、走り去った。
承乾は空になりかけた粥の碗を見つめた。碗の底に残った粟粥の黄色い残滓が、かつて鳳凰米の白粥が満たしていた同じ碗の中で、ひどく寂しげに見えた。
帝都の食卓から、白が消えた。
それは始まりに過ぎなかった。




