穀物の七割
帝都を離れた馬車は、北へ向かう官道をひた走っていた。
車内には二人。麗華と、侍女頭の柳春蘭。
春蘭は麗華の向かいに座り、膝の上で握りしめた拳を震わせていた。目元が赤い。廃妃の詔が読み上げられた瞬間から、この忠実な侍女は泣くのをこらえ続けている。
「泣きたければ泣いていいのよ、春蘭」
麗華は穏やかに言った。
「わ、私は泣いてなんかおりません。目にゴミが入っただけでございます」
「そう。長い道中ですから、ゴミも多いでしょうね」
麗華は薄く笑い、車窓へ目を移した。
帝都の華やかな街並みはとうに消え、官道の両側には灰色の景色が広がっている。痩せた畑。ひび割れた用水路。枯れかけた雑木林。かつて穀倉地帯だったはずの平野が、見渡す限りの荒地と化している。
百年前の大災——と、人はそう呼ぶ。この国の大地を枯らし、国土の大半をこのような死んだ土に変えた厄災。その詳細を知る者は少ないが、結果だけは誰の目にも明らかだった。
瑛朝の大地は、死にかけている。
車輪が石を踏み、馬車が揺れた。窓の外を乾いた風が吹き抜け、砂粒が車体を叩く音がした。帝都を出てまだ半日だというのに、空気から湿り気が消えている。大地が水を留められないのだ。
「お嬢様」
春蘭が声を落とした。涙は引っ込めたらしい。この侍女は泣き虫だが、切り替えは早い。そして切り替えた後は、誰よりも頭が回る。
「朝廷は、お嬢様の帰還で何が起こるか、本当に分かっているのでしょうか」
「分かっていないから、あんな愚かな真似ができるのよ」
麗華は車窓の荒地から目を離さずに答えた。
「春蘭。この国の穀物の七割は、どこから出ているか知っているでしょう?」
「鳳凰領でございます」
「そう。鳳凰領。うちの領地だけが、まともに穀物を実らせることができる。帝都の民が毎日食べている白米も、宮廷の宴席に並ぶ珍味の食材も、軍が携行する兵糧も——七割は鳳凰領産。朝廷はその事実を、数字としては知っている。けれど、数字の意味を理解してはいない」
麗華は一度言葉を切り、荒地に視線を向けた。路傍に崩れかけた石碑が見えた。かつての農村の名残だろう。碑面の文字は風化して読めない。
「数字の意味というのは、こういうことよ。この荒地にかつて住んでいた民が、どこへ流れたか。帝都と鳳凰領。それしかないの。つまりこの国の人口も、労働力も、消費も——全てが鳳凰領の穀物の上に載っている」
春蘭の目が細くなった。侍女頭としての顔だ。
「お嬢様、まさか——」
「穀物の流通には二つの経路がある。官糧と市糧。官糧は朝廷への年貢として納める公式ルート。軍の兵糧、官吏の俸禄米、宮廷の食料——権力を動かす穀物はすべてこちら。一方の市糧は、民間の商人を通じて市場に流す穀物。町の米屋に並ぶ米、露店で売られる饅頭の粉、庶民が買う雑穀——民の食卓を支えているのはこちら」
麗華は指を二本立てた。
「私が止めるのは、官糧だけ」
春蘭が息を呑んだ。
「市糧はそのまま流す。鳳家と懇意の商会を通じた流通ルートは、私が後宮にいるうちに整えておいた。帝都の民は飢えない。町の食卓は変わらない。困るのは宮廷の台所と、軍の糧倉と、官吏の俸禄——つまり、権力者だけ」
言葉を切り、麗華は微笑んだ。
「帝都の食卓が寂しくなる、というのはそういう意味よ。民の食卓ではなく、宮廷の食卓が」
春蘭は数秒黙り、それから深く息を吐いた。
「……お嬢様。廃妃を宣告される前から、この計画を」
「当然でしょう。蘇家と趙宰相の動きは一月前から掴んでいた。あなたの情報のおかげでね」
「では、あの場での微笑みも」
「全部、計算のうちよ」
麗華は車窓の外を見つめたまま、声だけを和らげた。
全部計算のうち。そう言い切ることで、胸の奥のわずかな痛みに蓋をする。皇帝の手が震えていたこと。あの震えが何を意味したか。考えたところで詮のないことだ。
「ただし」
麗華は声を引き締めた。
「いきなり全部は止めない。最初は官糧を二割減らす。名目は凶作による減産。鳳凰領だって毎年必ず豊作とは限らない——という建前を使う。朝廷が対応を協議している間に三割、四割と段階的に絞る。交渉の余地を残しつつ、圧力だけは確実に上げていくの」
「朝廷が武力で穀物を取り立てに来る可能性は?」
「あるでしょうね。だから次の手も打ってある」
春蘭が身を乗り出した。
麗華は微笑んだまま、人差し指を唇に当てた。
「それは鳳凰領に着いてから。馬車の中は壁に耳あり、よ」
春蘭は口をつぐんだ。しかしその目には、もう涙の気配はない。代わりに、鋭い光が宿っていた。
車窓の外、荒地が延々と続いている。
だが麗華の目には、その荒野が別のものに映っていた。
枯れた大地。実らない畑。飢えていく人々。——それこそが、鳳凰領の価値を際立たせる背景だ。
後宮から放逐された女。領地に追い返された廃妃。
朝廷はそう思っているだろう。
だが実態は違う。
この国で唯一、食糧を生み出せる土地に、その土地を動かせる唯一の人間が帰る。それは追放ではない。
麗華は干し果実を一粒、口に運んだ。春蘭が旅支度に忍ばせておいたものだ。杏の干し果実。陽に干されて凝縮された甘みが、じんわりと舌の上で広がる。噛むほどに果実の濃い香りが鼻に抜け、干した後にも残る微かな酸味が唾液を誘った。保存食としてはこれ以上ないほど優秀で、しかも味が落ちていない。
「春蘭。この杏、見事ね。いつもの乾物屋?」
「はい。お嬢様がお好きだと伝えたら、最良のものを選んでくれました」
「帰ったら、お礼の手紙を書きましょう」
何気ない会話だった。だが麗華は知っている。この干し杏を作る乾物屋も、杏を育てる果樹園も、鳳凰領にしか存在しない。他の領地では杏すらまともに実らないのだ。
堅焼き餅を一つ割り、春蘭に渡した。小麦の香ばしさが車内に漂う。ほんのりと胡麻の風味が混じるそれは、旅路の疲れを癒やすには十分だった。表面は固く焼き締められているが、割ると中はほどよくしっとりしている。鳳凰領の小麦粉で作った旅餅ならではの質だった。
「食べなさい。鳳凰領まで、まだ二日はかかる」
「ありがとうございます」
春蘭が餅を受け取り、小さく齧った。
麗華は車窓の外に広がる灰色の荒野を見つめ、静かに口角を上げた。
この荒野が、私の武器だ。
帝都よ、覚悟なさい。あなたたちの食卓は、もうすぐ変わる。




