負傷の報
伝令は息を切らせて駆け込んできた。
「鳳麗華様。至急の報告です」
麗華は帳面から顔を上げた。伝令の顔が青い。汗が額を伝い、唇が震えている。走り通しだったのだろう——靴に泥がこびりつき、衣の裾が汗で濡れていた。
「何がありましたか」
「前線より——陸将軍が負傷されました」
麗華の手から筆が落ちた。墨が帳面に跳ねて黒い染みを作ったが、目に入らなかった。視界が一瞬白くなり、次に暗くなり、そして——鮮明になった。痛いほどに。
「詳細を」
「敵の残党が夜襲を仕掛け、将軍自ら迎撃に出られた際に——左腕を負傷。詳細な傷の程度は不明です」
「不明?」
「戦闘が続いており、続報が届いておりません」
麗華は椅子から立ち上がった。立ち上がろうとして——膝が震えて、卓の縁を掴んだ。指が白くなるほど強く。爪が木目に食い込み、微かに軋んだ。
「お嬢様」
春蘭が駆け寄った。
「あの人に——何かあったら」
声が出ていた。自分でも意図しない言葉が、唇から溢れた。理性の檻を越えて、心の底から這い出てきた言葉だった。
春蘭が目を丸くした。
麗華は自分の口を押さえた。
(私は——今、何を言った。「あの人」と言った。将軍でも暁風殿でもなく——あの人と)
「……何でもありません。続報を待ちます」
座り直した。だが手が震えている。筆を拾おうとして、二度掴み損ねた。指先が言うことを聞かない。まるで自分の手ではないようだ。帳面に落ちた墨の染みが、黒い涙のように滲んで広がっている。
「お嬢様」
「何ですか」
「顔が真っ白です」
「そんなことは——」
「そんなことはあります。お嬢様、暁風殿のことが——」
「春蘭」
麗華が声を上げた。いつもの穏やかな声ではなかった。鋭く、脆く、壊れかけの声だった。春蘭が口を閉じた。
沈黙が落ちた。蝋燭の芯が弾ける音が、やけに大きく響いた。炎が揺れ、二人の影が壁の上で伸び縮みしている。
麗華は両手を膝の上で握りしめた。震えを止めようとするが、止まらない。
(私は——いつから。いつから、こんなに)
暁風の顔が浮かんだ。出征前夜に煮込み料理を食べた、あの穏やかな顔。「母の味だ」と掠れた声で言った瞬間。「待っていてくれ」と言った声。厨房の灯りに照らされた、真っ直ぐな目。椀を空にし、煮汁の最後の一滴まで飲み干した誠実な食べ方。あの大きな手が椀を包み、小さく「旨い」と呟いた声。
(あの人が、傷ついている。どれほどの傷か、わからない。深手かもしれない。腕を——失うかもしれない。死ぬかも——)
その先を考えることを、脳が拒否した。
「……春蘭。続報を、すぐに」
「飛脚を出します。前線に直接」
春蘭が飛び出していった。
一人になった執務室で、麗華は茶を淹れようとした。日常の動作で手を落ち着かせようとした。湯を注ぐ手が震え、茶杯から湯がこぼれた。卓の上に小さな水溜まりができた。湯気が立ち、茶葉の香りだけが虚しく広がった。
こぼれた湯を拭きもせず、麗華は窓辺に立った。北の空を見る。星はまだ出ていない。灰色の空が、どこまでも続いている。
(暁風殿。——暁風殿)
春蘭が運んできた膳には、白飯と味噌汁と漬物が載っていた。味噌汁の豆腐が大きめに切ってある。春蘭なりの気遣いだろう。大きな豆腐は噛む回数が増え、食べ応えがある。少ない量でも腹が満たされる。麗華はその心遣いに気づきながらも、礼は言わなかった。言えば春蘭が心配していることを認めることになる。主人が弱みを見せれば、侍女も動揺する。後宮で学んだ処世術だ。味噌汁を一口啜った。温かい。豆腐が舌の上で崩れ、出汁の旨味が広がった。
名前を心の中で呼んだ。何度も。将軍でも監視役でもなく、ただの名前として。暁風。暁風。その二文字が、胸の中で響くたびに痛い。
(お願い。無事でいて。あの温かい手で、もう一度——もう一度、私の作った飯を食べてほしい。山菜と鶏の煮込みを「母の味だ」と言った声をもう一度聞かせてほしい。「旨い」と一言だけ言って、椀を空にするあの食べ方を。箸が止まるあの瞬間を。——もう一度)
食事が手につかなかった。春蘭が膳を運んできたが、白飯の匂いすら今は遠い。いつもなら食欲をそそる味噌汁の香りが、胃の奥を締めつけるだけだった。
「お嬢様。せめて茶だけでも」
「……ええ」
冷めた茶を、ようやく一口飲んだ。味がしない。あれほど旨いと思った鳳凰領の茶が、何の味もしない。舌が味を拒んでいる。感情が五感を塞いでいるのだ。
膳が下げられた。白飯にも味噌汁にも手をつけなかった。麗華が食を拒んだのは、これが初めてかもしれない。食は命だと言い続けてきた自分が、食べられない。
その夜、続報は届かなかった。
眠れなかった。天井を見つめたまま朝を迎えた。蝋燭が何本も燃え尽き、闇の中で麗華は微動だにせず北の空を案じ続けた。夜半に喉が渇いて水を含んだが、味がしなかった。水の冷たさだけが喉を通り過ぎ、体の奥に沈んでいった。
翌朝、ようやく飛脚が戻った。泥だらけの飛脚が、息を切らしながら叫んだ。
「陸将軍は無事です。左腕に刀傷を負いましたが、深手ではないとのこと」
麗華は膝から力が抜けて、椅子に崩れ落ちた。
「……よかった」
その一言を発した自分の声が、どれほど震えていたか——麗華自身が一番よく知っていた。目の奥が熱い。泣きそうだ。泣いてはいけない。廃妃になった時も泣かなかった。帝都を兵糧攻めにした時も泣かなかった。——なのに今、安堵で泣きそうになっている。
(私は——暁風殿のことを。いつから。いつから、こんなにも)
答えは、とうに出ていた。認めたくなかっただけだ。




