暁風の手紙
夜更け。鳳家屋敷の東棟、暁風に与えられた部屋。
燭台の灯りが揺れる中、暁風は卓に向かっていた。筆を手に取り、白い紙を広げる。
皇帝への報告書。監視任務に就いて以来、初めての正式な書面だ。
暁風は筆に墨をつけ、書き出した。
「鳳凰領着任報告。陸暁風、謹んで陛下に申し上げます。鳳麗華は——」
筆が止まった。
「鳳麗華は——」
何を書く。
危険人物である、と?
暁風は筆を置き、腕を組んだ。
天井を見上げる。梁の木目が燭台の灯りに浮かび上がっている。
(あの女は、危険人物か)
脳裏に浮かぶのは、この数日間で見た光景だった。
畑の中を裸足で歩き、土を手に取り、農民一人一人の名前を呼ぶ女。
試験田で地養術を使い、掌から翡翠色の光を流す女。使った後に顔色が蒼白になることを、笑顔で隠す女。
荒地と鳳凰領の境界に立ち、「この緑を守っているのは私一人」と静かに言う女。
書斎で官糧と市糧の図を描き、「民は飢えさせない」と迷いなく宣言する女。
そして——食卓で、栗と銀杏の炊き込みご飯を穏やかに食べる女。
「鳳麗華は——」
暁風は再び筆を取った。
「鳳麗華は危険人物である」
書いた。そして、その文字を見つめた。
嘘ではない。鳳麗華は危険だ。国の食糧の七割を握り、官糧の減額を実行に移した。帝都にとって、間違いなく脅威だ。
だが、その文の次に何を書く。
「鳳麗華は危険人物である。民を飢えさせない方針を明言しており——」
筆が止まった。これでは危険人物の報告にならない。
(民を飢えさせない。市糧は維持する。困るのは朝廷だけ。——それを「危険」と呼ぶのか、「正当」と呼ぶのか)
暁風は紙を丸めて捨てた。
新しい紙を広げる。
「鳳凰領着任報告。鳳麗華は鳳凰領において領地経営に従事している」
事実だ。嘘ではない。
「鳳凰領の農地は瑛朝有数の豊かさを誇り、領民の暮らしは安定している。麗華は領地の巡回を日常的に行い、農地の管理と作物の品質維持に力を注いでいる」
これも事実だ。
「鳳凰領産の穀物は、官糧として帝都に納入されているが、今期は天候の影響により納入量にやや変動がある」
嘘ではない。麗華が「天候不順」と言った以上、その文面に沿って書くのは自然だ。
「地養術と呼ばれる鳳家秘伝の農業技術が存在し、鳳凰領の農業を支えている。術の詳細は機密扱いのため、報告を控える」
暁風は筆を止め、書いた文面を読み返した。
——何も書いていない。
事実しか書いていない。鳳麗華が官糧を意図的に減額していること。食糧を武器に朝廷を詰ませようとしていること。その一切が、この報告書には書かれていない。
書かなかったのではない。書けなかったのだ。
(俺は——何をやっている)
暁風は額を押さえた。
筆を握り直す。墨が乾きかけていた。硯に筆を浸し、新しい墨を含ませる。
脳裏に、今朝の麗華の姿が浮かんだ。朝餉の卓で春蘭に「始めましょう。まずは二割」と指示した声。あの穏やかな声で、帝都の食卓を削りにかかる女。
同時に、畑で泥だらけの手で稲穂を撫でていた姿も浮かぶ。領民の名前を一人一人覚え、膝の具合や漬物の味を褒める女。
同じ女だ。どちらも同じ鳳麗華だ。
皇帝が求めているのは、鳳麗華が朝廷に対して何をしようとしているかの報告だ。それが監視任務の本質であり、暁風が鳳凰領に派遣された理由だ。
それなのに、書けない。
(あの女の粥を食べた。茶を飲んだ。畑を歩いた。荒地を見た。——だからか。だから書けないのか)
暁風は卓の上の茶杯に手を伸ばした。鳳凰領の茶が入っている。春蘭が夜食と共に届けたものだ。
杯を口に運ぶ。碧螺春の甘みが舌に広がった。帝都の茶屋で飲んだどの茶よりも、深い味がする。
(この茶を飲んでいる時点で、もう中立ではないのかもしれんな)
杯を卓に置く。からんと小さな音がした。静かな夜だ。鳳凰領の夜は帝都と違って灯りが少ない。窓の外は暗く、虫の声と遠くの用水路の水音だけが聞こえる。
帝都の軍営では、こんな静けさはなかった。いつも誰かが歩き、誰かが声を上げ、鎧が擦れる音がしていた。ここは違う。穏やかで、温かくて——。
(居心地が良い。それが問題だ)
暁風は茶を飲み干し、報告書に戻った。
結局、事実のみの淡白な報告に留めた。
鳳麗華は領地経営に従事している。鳳凰領は豊かだ。穀物の納入にやや変動がある。以上。
封をし、翌朝の急使に託す準備を終えた暁風は、燭台の火を見つめた。
(陛下はこの報告を読んで、何を思うだろう)
皇帝・瑛承乾は聡明だ。暁風がこれだけ薄い報告をよこせば、「書かなかったこと」の存在に気づくだろう。
(それでいい。いや——それでいいのか)
答えは出なかった。
暁風は卓を離れ、窓を開けた。秋の夜風が頬を撫でる。鳳凰領の空には満天の星が広がり、遠くで虫の声がする。
帝都では見られない星空だ。帝都の空は、宮城の灯りでいつも薄明るい。ここには、余計な光がない。
暁風は窓枠に手をつき、星を見上げた。
(俺はいつから、あの女の味方になった)
味方ではない。まだ味方ではないはずだ。監視役だ。皇帝の忠臣だ。
だが——報告書に「危険人物」と書けなかった事実が、暁風の胸に重く沈んでいた。
窓の外で、風が稲穂を揺らした。
その音は、報告書に書けなかったすべてを知っているかのように、静かに鳴り続けていた。
翌朝。暁風が朝餉の席に着くと、麗華が粥の碗を差し出した。
「陸将軍。昨夜は遅くまで灯りがついていましたね。お仕事ですか?」
「……報告書を書いていた」
「あら。監視のお仕事に精が出ますこと」
麗華は微笑んだ。何を書いたか問わない。問わないことが、麗華の器の大きさだと暁風は思った。
「粥が冷めますよ」
暁風は粥を口に運んだ。鳳凰米の白粥。胃に沁みるような優しい甘さ。
報告書は、今頃急使の馬で帝都に向かっている。
事実だけが書かれた、何も語らない報告書。
暁風は粥を啜りながら、窓の外の田畑を見た。
朝露に光る稲穂が、風に揺れていた。




