宰相の楽観
帝都の南、瑛水河を見下ろす高台に、趙家の屋敷はある。
宰相・趙文昌の私邸は朝廷の高官にふさわしい壮麗さで、庭園には四季折々の花が植えられ、池には錦鯉が泳いでいた。
その夜、趙家の宴客堂には蘇家の当主・蘇明徳が招かれていた。
丸卓の上には贅を凝らした料理が並んでいる。燕の巣のスープ、紅焼肉、蟹粉豆腐、鮑の蒸し物、翡翠白菜。酒は鳳凰領産の花彫酒で、琥珀色の液体が銀の杯に輝いていた。
「鳳凰領からの官糧が二割ほど減っているそうですな」
蘇明徳が酒を啜りながら切り出した。五十路半ばの痩身の男で、鋭い目と薄い唇が、どこか狐を思わせる。
「ああ、聞いておる」
趙文昌は紅焼肉を箸でつまみ、鷹揚に頷いた。太い腹に錦の衣を纏い、顎鬚を撫でている。宰相として二十年の重みがその体躯に表れていた。
「天候不順とか申しておるが」
「たかが二割ですぞ。備蓄で十分に賄える。鳳家の小娘が、廃妃にされた腹いせに少々渋っているのでしょう。じきに折れます」
趙文昌は蟹粉豆腐を匙ですくい、口に運んだ。蟹の旨みが絹のような豆腐に染み込み、上品な味わいが広がる。
「折れましょうか。あの娘は」
蘇明徳の声には、趙文昌にない慎重さがあった。
「蘇殿。あの娘は二十歳の小娘ですぞ。後宮から放り出された廃妃じゃ。何ができるというのか」
「しかし、鳳凰領を握っている。地養術も使える」
「地養術? あの怪しげな秘術か。畑仕事の延長じゃろう。政の場では何の役にも立たぬ」
趙文昌は翡翠白菜を箸でつまんだ。しゃくりと歯切れの良い食感の後に、白菜の甘みと塩の旨みが広がる。これも鳳凰領の白菜があってこその味だが、趙文昌にはその認識がない。
この男にとって食卓に並ぶものは「あって当然」のものだ。穀物がどこから来るか、野菜がどの土で育つか——そんなことは下々の者が考えればよい。宰相の仕事は、政を動かすことだ。
趙文昌は花彫酒をぐいと煽り、杯を卓に置いた。
「鳳家に圧力をかければ済む話です。官糧の減額が続くようなら、鳳凰領への通商路に関所を設け、市糧の流通を絞る。あるいは——」
宰相は声を低めた。
「兵を鳳凰領の境界に並べる。武力示威じゃ。小娘一人、千の兵を見れば震え上がって膝を折るわ」
蘇明徳は酒杯を傾けたまま、しばらく黙っていた。宴客堂の壁に掛けられた山水画を眺めながら、言葉を選んでいる。
「……趙閣下。一つ、ご進言を」
「何か」
「鳳家の娘は、折れるような女ではないかもしれません。後宮で三年、あの修羅場を笑顔で生き延びた女ですぞ。わが家の玉蘭でさえ、正面からは崩せなかった。偽証という搦手を使って、ようやく——」
「玉蘭殿が見事に仕留めたではないか。廃妃にできたのは蘇家と我が家の連携のおかげじゃ」
「ええ。廃妃にはしました。しかし——あの女、去り際に笑っておりましたな」
蘇明徳の目が細くなった。
「笑って去る廃妃を、わたくしは他に知りません」
趙文昌は鼻で笑った。
「強がりですよ。女一人に国が動かせるものか。穀物が減った? ならば鳳家を締め上げればよい。いつの時代も、力を持つ者が勝つのです」
そう言って、趙文昌は鮑の蒸し物に箸を伸ばした。柔らかく蒸された鮑が、口の中でとろりと崩れる。
「この鮑も鳳凰領の海産かの。旨いのう」
「鳳凰領は内陸ですが、鳳家の商会が沿岸から仕入れているものです。この流通網も、いずれ——」
「いずれ我々が握る。鳳家の商会ごと接収すればよい。宰相の権限で商会の許認可を取り消せば、市糧の流通も止まる」
蘇明徳は杯を卓に置いた。
「帝都の民が飢えませんか」
「民? 民は雑穀でも食っておれ。困るのは一時のこと。鳳家を屈服させれば、元に戻る」
蘇明徳は何も言わなかった。酒を一口飲み、窓の外に目を向けた。趙文昌の楽観に頷くことはできないが、正面から反論する理由もない。蘇家には蘇家の思惑がある。
鳳家が朝廷と衝突すれば、混乱の中で蘇家が漁夫の利を得る可能性もある。逆に鳳家が勝てば——蘇家はさらに深い窮地に立たされる。どちらに転んでもいいように布石を打つのが、蘇家の流儀だ。
趙文昌が鮑の最後の一切れを口に運んだ。
「いやあ、旨い。この鮑はやはり格別じゃな」
「ええ。格別でございますな」
蘇明徳は微笑みながら、心の中で数えた。この宴席の料理は、あと何度食べられるだろうか。
燕の巣のスープの湯気が、薄暗い宴客堂に立ち昇っていた。鳳凰領の食材で作られた最上の料理。それが当たり前でなくなる日が来ることを、この宰相はまだ想像すらしていない。
夜更け、蘇家屋敷。
帰宅した蘇明徳は書斎に入り、灯りをつけた。棚から帳簿を取り出し、卓の上に広げる。
鳳凰領からの穀物の流通量。市場の価格推移。備蓄の残量。
「二割減——あの娘が、この程度で止めるとは思えんな」
蘇明徳は帳簿を閉じ、窓の外を見た。帝都の夜景が広がっている。
「趙閣下は楽観しておられるが、あの娘は後宮で三年を生き延びた女だ。玉蘭を使って追い落としたとはいえ——追い落とされた後に笑える女は、追い落とした側より強い」
独り言は闇に消えた。
蘇家の屋敷の灯りが一つ、また一つと消えていく。
蘇明徳は帳簿を閉じ、椅子の背にもたれた。
書斎の灯りが揺れ、壁に影が伸びる。
「二割はまだ序の口だ。あの女は段階を踏む。三割、四割と絞り上げてくるだろう。趙閣下が気づいた時には——」
言葉を切り、酒の残り香を口の中で転がした。
帝都の夜は静かだった。
まだ誰も気づいていない。宮廷の食卓からわずかに品が減ったこと。それが、これから始まる嵐の最初の風だということを。
趙文昌は今頃、屋敷の寝台で満腹の腹を抱えて眠っているだろう。紅焼肉の脂と花彫酒の余韻に浸りながら、「たかが穀物」と嗤いながら。
だがその贅沢が、あと何日続くのか。
帝都の空に浮かぶ月だけが、すべてを見下ろしていた。




