官糧二割減
朝餉の卓で、麗華は春蘭に言った。
「始めましょう。まずは二割」
春蘭は粥を運ぶ手を止めず、静かに頷いた。
「かしこまりました。商会への指示は本日中に。次の納入日は五日後ですので、その便から反映されます」
「官糧の減額分は、市糧に回してちょうだい。市場の流通量は減らさないこと」
「承知いたしました。帝都の鶴見商会と白楊商会には、すでに市糧の増量を打診してございます」
麗華は粥を一匙すくった。鳳凰米の白粥に、塩漬けの蕪と小魚の佃煮が添えられている。朝の穏やかな食事。この日常が、今日から帝都を揺さぶる起点になる。
「陸将軍にはお知らせした方がいいですか」
「隠す必要はないわ。監視役なのだから、報告書に書いてもらえばいい」
暁風は東棟の自室で朝餉を取っていた。春蘭が知らせに行くと、暁風はしばらく黙ってから「分かった」とだけ答えた。
麗華は粥を飲み干し、碗を卓に置いた。
(これで、帝都の時計が動き始める。備蓄が一日ずつ減っていく。——気づいた時には、もう遅いわ)
内心の冷たい計算を、穏やかな笑みで覆い隠す。いつものことだ。この笑みは後宮で身につけた鎧。脱ぐことは、当分ないだろう。
五日後、鳳凰領からの官糧が帝都に届いた。
ただし、いつもの八割の量で。
最初に気づいたのは、宮廷の糧食を管理する太倉令だった。穀物の搬入量を帳簿と照合し、数字が合わないことに眉をひそめた。
「鳳凰領からの納入が二割減っておるぞ。何かの間違いか」
急使を飛ばして確認すると、鳳凰領の回答は簡素だった。
——今季は天候不順の影響により、作柄が例年に及ばず。やむを得ず、納入量を調整いたします。
「天候不順? 鳳凰領に不作はなかろうに」
太倉令は首を傾げたが、二割程度の減少では大事ではない。備蓄で十分に補える範囲だ。報告書を上げ、そのまま通常業務に戻った。
朝廷の反応は、拍子抜けするほど穏やかだった。
官吏たちの間では「一時的な不作だろう」「来季には戻る」という楽観が支配的で、宰相の趙文昌に至っては報告書に目を通しもしなかった。
太倉令が上申書を提出しても、返答は「備蓄で対応せよ」の一行だけ。二割の減少は、帝都の巨大な備蓄倉庫の前では些事に映ったのだ。
(それこそが狙いよ。些事だと思わせること。些事が積み重なった時——もう取り返しがつかない)
鳳凰領の書斎で、春蘭の報告を受けた麗華は、帳簿に「第一段階:完了」と小さく書き込んだ。
だが——変化は、食卓に現れた。
宮廷の夕膳。通常ならば十二品が並ぶ席で、品数が十品に減った。
消えたのは、鳳凰米を使った点心と、鳳凰領産の蜜漬け果実。料理人たちは代替品で埋めようとしたが、鳳凰米の代わりに帝都近郊の粗米を使った点心は、皮の食感が違った。
「何か、味が落ちたような」
下級官吏が首を傾げる。上級官吏は気づかないふりをした。
皇帝の食卓でも、翡翠粥に使われる鳳凰米の量がわずかに減った。粥の粘りが薄くなり、いつもの艶が足りない。
皇帝——瑛承乾はそれに気づいたが、何も言わなかった。
鳳凰領では、いつも通りの日々が続いていた。
夕刻、暁風が麗華の書斎を訪れた。
「帝都からの返答を聞いた。天候不順、か」
「ええ。嘘も方便です」
麗華は帳簿を繰りながら答えた。
「二割ではまだ痛くないでしょうね。備蓄で補える。朝廷が本気で焦り始めるのは、四割を超えてから」
「なぜ最初から四割にしない」
「急ぎすぎると、相手に『これは攻撃だ』と悟らせます。最初は自然に見える範囲で。不作のせいだと思わせておく。そうすれば朝廷は対策を後回しにする。——後回しにしている間に、備蓄は減っていく」
暁風は腕を組んだ。
「……巧い」
「巧いのではありません。相手が愚かなだけ」
麗華の声に、淡い棘があった。
暁風はその棘に気づいたが、追及しなかった。代わりに、問いを変えた。
「一つ聞く。あんたは、なぜ民を飢えさせないのか」
「以前も申し上げました。食は命です」
「それだけか」
麗華は帳簿から目を上げ、暁風を見た。
「……陸将軍。あなたは帝都の外の荒地を歩いたことがありますか。あの灰色の土地で、泥のような粥しか食べられない子供たちを見たことがありますか」
「ある」
「私もあります。幼い頃、祖父に連れられて鳳凰領の外を見て回りました。痩せた畑で、骨と皮ばかりの農民が、土を掘っていました。何も育たない土を、それでも掘っていた」
麗華は窓の外を見た。鳳凰領の夕暮れ。稲穂が夕日に赤く染まっている。
「あの光景を見てしまったら、食糧を独り占めになどできない。武器にはします。朝廷への怒りは消えません。けれど——飢えた子供を見た者が、同じことを他の子供にできるわけがないでしょう」
暁風は何も言わなかった。
しばらくして、低い声で言った。
「……分かった。あんたの覚悟は、分かった」
「覚悟というほどのものでもありません。ただの意地です」
麗華は微笑んだ。いつもの穏やかな笑み。けれどその目に、ほんの一瞬、何かが光った。怒りか、悲しみか、あるいはその両方か。
春蘭が夕餉を運んできた。
白粥と、蒸し茄子の胡麻和え、鶏の生姜炒め。素朴だが、どれも鳳凰領の恵みが凝縮されている。
「食は命です。武器にはしても、凶器にはしない」
麗華は箸を取り、白粥を一口含んだ。甘い。温かい。生きている味がする。
「——それが鳳家の矜持。そして、私の矜持です」
暁風は無言で箸を取った。鶏の生姜炒めを口に運び、噛む。生姜の辛みと鶏の旨みが広がる。
帝都では今夜、宮廷の食卓から二品が消えている。
けれどこの食卓には、何一つ欠けていない。
暁風はその対比を噛み締めた。
食後、春蘭が茶を運んできた。暁風が自室に戻った後、麗華は一人で書斎に残り、帳簿を開いた。
帝都の備蓄量の推定値。官糧の減額分が備蓄からどれだけの速度で消費されるかの計算。月ごとの推移を墨で書き記す。
「六ヶ月分の備蓄。二割減で消費速度が上がる。四ヶ月後——いえ、宮廷が節約を始めれば五ヶ月。しかし節約など、あの宰相にできるかしら」
筆を置き、窓の外を見た。月が出ている。
「第二段階は、一ヶ月後。その頃には帝都も少しは焦り始めるでしょうね」
独り言が、秋の夜に溶けた。
書斎の灯りだけが、麗華の静かな笑みを照らしていた。




