南からの客
南からの客人が鳳凰領を訪れたのは、浄化作業が完了して十日後のことだった。
冬の朝。霜が降りた石畳の上を、三人の旅人が門に向かって歩いてくる。春蘭の手の者が先に知らせを持ってきていたが、門前で実際に彼らを目にした時、春蘭の目が鋭くなった。
「商人を名乗っていますが——」
春蘭が耳元で囁いた。唇がほとんど動いていないのに、言葉は明瞭に届く。
「身のこなしが商人ではありません。護衛の二人は明らかに武官です。足運びが軽く、腰の位置が安定している。剣を帯びていなくても分かります。それから——話す瑛朝語に南方の訛りが混じっています」
「南嶺国ですか」
「おそらく」
麗華は頷いた。南嶺国。瑛朝の南に位置する海洋国家。直接の国交はないが、商人を通じた交易は古くから行われている。正式な使者ではなく商人を装って来た——ということは、本国には知られたくない密かな訪問だ。
「通してください。客間に案内を」
客人は三人だった。先頭の男は四十がらみ。日に焼けた肌に、海の男特有の鋭い目をしている。潮風に晒されてきた皮膚の質感と、遠くを見る癖のついた目つき。商人の衣を纏っているが、歩き方は確かに商人のものではなかった。重心が低く、揺れない。武人の歩き方だ。
「遠路はるばる、ようこそ鳳凰領へ」
麗華は客間で出迎えた。上座を客人に譲り、自らは対面に座った。客間には早朝の淡い光が差し込み、白磁の花瓶に生けた冬梅が清廉な香りを放っている。
「お名前を伺えますか」
「……林と名乗っております。南方の商人です」
「林殿。長旅でお疲れでしょう。まずはお食事を」
麗華は食事を用意させた。旅人をもてなす最初の一手は——食だ。言葉より先に食を出す。それが麗華の外交の流儀であり、鳳家の礼儀だった。
客間の卓に料理が並んだ。山椒の効いた白身魚の蒸し物。蓮の葉で包んだ炊き込み飯。翡翠色の青菜の胡麻和え。鶏の清湯。
白身魚は鳳凰領の清流で獲れた岩魚を、薄切りの生姜と山椒の粒と共に蒸し上げたものだ。蒸し器の蓋を開けた瞬間、山椒の爽やかな香りと魚の旨味が混じり合った湯気が立ちのぼる。蓮の葉包みの炊き込み飯は、蓋を開けると蓮の葉の青い香りがふわりと広がり、中の米粒は一粒一粒が艶やかに光っていた。
客人——林と名乗った男は、料理を見て目を見開いた。
「これは——」
「鳳凰領の家庭料理です。特別なものではありませんが」
林が白身魚の蒸し物に箸をつけた。一口。
箸が止まった。
「……旨い」
暁風と同じ反応だ、と麗華は内心で微笑んだ。男という生き物は、旨いものを口にすると皆同じ顔をする。
「山椒が利いていて——魚の臭みが消えている。だが魚の旨味は残っている。この調理は……」
「新鮮な川魚を使っています。鳳凰領の清流で獲れた岩魚です。臭みが少ない魚ですから、山椒は風味付け程度に留めています」
林が炊き込み飯を一口。蓮の葉の香りが広がる。米粒は一粒一粒が立ち、噛むと甘みが溢れる。
「この米——」
「鳳凰領の米です。地養の畑で育てたものですから、味が濃いのです。普通の米の倍は甘みがあると、よく言われます」
林の目に——涙が浮かんだ。箸を持つ手が震えている。
麗華は箸を置いた。
「林殿」
「……失礼した。このような食事は——我が国ではもう、記憶にしかない」
林が箸を置き、深い溜息をついた。商人の仮面が——剥がれかけていた。日に焼けた顔の皺が深くなり、年齢以上の疲弊が浮かんでいる。
「商取引のお話の前に——一つ、伺ってもよろしいですか」
「何を」
「『我が国』と仰いましたね」
林の顔が強張った。
「……失言だった」
「構いません。ここでは身分を問いません。ただ——正直にお話しくださった方が、互いに実りある対話ができると思います」
麗華の声は穏やかだが、有無を言わせない説得力がある。嘘を責めるのではなく、真実を語る道を開く。そういう話し方を、麗華は後宮で学んだ。
長い沈黙があった。林の視線が卓の上の料理に落ち、それから麗華に戻った。
林が——姿勢を正した。
「私は南嶺国の者です。商人ではなく——国主の密使として参りました」
「やはり」
「鳳凰領の食糧事情を視察し、可能であれば——食糧の融通について、密かに交渉したい。それが命です」
麗華は頷いた。
「南嶺国の食糧事情を——お聞かせください」
林の表情が暗くなった。鋭い目に、重い影が落ちる。
「我が国でも——穀物が取れなくなりつつある。海産物は豊富だが、米が採れない。田畑が——荒れている」
「荒地化、ですか」
「荒地化——そう呼ぶのですか。我が国では『土枯れ』と呼んでいます。大地の力が抜け落ちたように、土が痩せていく。肥料をどれだけ入れても、収穫は年々減る一方だ」
麗華の表情が変わった。琥珀色の瞳が、知略を超えた深い関心の色を帯びる。
「それは——瑛朝だけの現象ではないのですか」
「違う。我が国の北部でも、ここ十年で急速に広がっている。以前は沿岸部だけだったのが、内陸まで——」
林が卓の上に手を置いた。武人の手だ。節くれ立った指が、力なく卓を叩く。
「鳳凰領が唯一の例外だと聞いた。ここだけが——荒地化に侵されていないと。だから来た」
麗華は沈黙した。
荒地化は瑛朝だけの問題ではない。隣国でも——同じことが起きている。
(世界が——枯れていく?)
食を武器に国を詰ませることに忙殺されて、麗華はより大きな構図を見落としていたのかもしれない。鳳凰領を守る。帝都を詰ませる。蘇家を退ける。全て「瑛朝の中」の話だった。
だが荒地化が国境を越えているなら——鳳凰領だけを守っても、根本的な解決にはならない。
「林殿。食糧の融通については——検討しましょう。ですがそれ以上に、荒地化についての情報交換をさせてください」
「情報交換?」
「はい。瑛朝と南嶺国——二国の荒地化の状況を突き合わせれば、原因の手がかりが見えるかもしれません」
林が目を見開いた。
「食糧を売る話ではなく——原因を探る話をするのか」
「食糧を売ることは応急処置です。荒地化が止まらなければ、鳳凰領もいずれ——同じ運命を辿る」
林は麗華を見つめた。武人の目が、真剣な敬意の色を帯びている。
「あなたは——噂通りの人だ」
「噂?」
「食の国を率いる廃妃の女——帝都を笑顔で詰ませる知略家だと。だが今の言葉は——知略家ではなく、食を愛する者の言葉だ」
麗華は微かに笑った。
「私は食を武器にしてきました。ですが食の本質は——武器ではない。人を生かすものです。荒地化がそれを奪うなら——戦う相手は朝廷でも蘇家でもなく、荒地化そのものかもしれません」
林が頷いた。
「話をしよう。我が国の『土枯れ』について——知っていることを全て話す」
二人は食事を終え、茶を入れ替えた。麗華が自ら淹れた冬摘みの茶は、苦味の中にほのかな甘みがあった。林がその茶を一口飲み、目を閉じた。
「旨い茶だ」
「鳳凰領の茶畑で採れたものです。地養の力で育てると、茶葉も味が深くなります」
夜が更けるまで——食と荒地と、二つの国の未来について語り合った。蝋燭が二本燃え尽き、三本目に火が移った頃、林の口から語られた南嶺国の情報は——麗華の中で、新しい地図を描き始めていた。




