官糧と市糧
翌日、麗華は暁風を書斎に招いた。
鳳家屋敷の西棟にある書斎は、壁一面が棚で埋まっている。帳簿、農事記録、穀物の出荷台帳。どれも鳳家が代々書き継いできたもので、最も古い帳簿は百年以上前の日付が入っていた。
「今日は少し、退屈なお話をします」
麗華が卓の上に大きな紙を広げた。墨で描かれた図がある。
上には「鳳凰領」と書かれた四角。その下から二本の線が伸び、一方は「官糧」、もう一方は「市糧」と記されていた。
「官糧と市糧。この国の穀物流通は、二つの経路に分かれています」
暁風は腕を組んで図を見下ろした。
「官糧は、朝廷への年貢と公式納入。軍の糧食、官吏の俸禄米、宮廷の食料。すべて官糧から賄われます」
麗華が「官糧」の先に次々と四角を書き足す。軍、官吏、宮廷。
「市糧は、民間の商人を通じた流通。市場で売られる穀物、野菜、加工品。帝都の民が日々買い求めるものは、すべて市糧です」
「つまり、二つの別の経路で穀物が動いている」
「その通り。そして——」
麗華は筆を取り、「官糧」の線の上に大きく×を書いた。
「私が止めるのは、これだけ」
暁風の目が細くなった。
「官糧を止めて、市糧は維持する。そうすれば——」
「困るのは朝廷だけ。軍の糧食が減り、官吏の俸禄米が減り、宮廷の食卓から鳳凰米が消える。けれど帝都の市場には今まで通り穀物が並びます。民は飢えない」
麗華は図の「市糧」の線を指でなぞった。
「鳳家と懇意の商会を通じた流通網は、私が後宮にいる間に整備しました。市糧のルートは朝廷の管轄外。止めようとしても、止められません」
「……後宮にいる時点で、ここまで準備していたのか」
「まさか。全部ではありませんわ」
麗華は微笑んだ。
「七割くらいは」
暁風は小さく息を吐いた。感嘆か、呆れか、本人にも分からなかった。
「陸将軍、こちらを見てください」
麗華が卓の上に三つの碗を並べた。
一つ目には鳳凰米。粒が大きく、白い光沢を放っている。
二つ目には帝都近郊の米。粒はやや小さく、くすんだ白。
三つ目には雑穀。黍と粟が混ざった、灰色がかったもの。
「一つ目。鳳凰米。これが官糧としても市糧としても流通している主力穀物です」
「二つ目は」
「帝都近郊で辛うじて採れる米。収量は少なく、味も鳳凰米には遠く及びません。これが官糧の補填に使われることになるでしょう」
「三つ目は」
「他領の雑穀。荒地に近い土地で育つものですから、量も質も限られます。官糧が止まった場合、最終的に宮廷が頼ることになるのはこれ」
三つの碗を見比べれば、答えは明白だった。鳳凰米がなくなれば、朝廷の食事は二段階落ちる。
「あんたは、後宮にいる間にここまで準備を」
「後宮の三年間は無駄ではありませんでしたわ。宮廷の宴席に出ながら、どの商会がどの穀物を扱い、どの倉庫にいくらの備蓄があるか、お茶を飲みながら調べていたのです」
暁風は無意識に眉を寄せた。後宮という修羅場で生き延びながら、裏ではここまでの布石を打っていた。しかも廃妃される前から。
「麗華さま、帳簿を」
春蘭が棚から一冊の帳簿を取り出し、卓に置いた。
「帝都の備蓄は現在、官糧で約六ヶ月分。鳳凰領からの納入が止まれば、半年で底をつきます。もちろん他領からの補填はありますが、それも鳳凰領産に比べれば僅かなもの」
「六ヶ月」
「ええ。六ヶ月です。それが帝都の命綱」
麗華は帳簿を閉じ、穏やかな目で暁風を見た。
「だから段階を踏みます。最初は二割減。品目を少し絞る程度。帝都が『あれ、少し減ったかな』と気づく程度のこと。次に四割減。宮廷の宴席の品数が目に見えて減る。その次に六割。備蓄を食い潰す速度が速まる」
「一気に止めないのか」
「止めません。段階を踏むことで、朝廷に交渉の余地を残します。一気に止めれば戦争になりかねない。それでは民が巻き込まれる」
暁風は腕を組み直し、沈黙した。
(精密だ。怒りや復讐で動いているのではない。計算ずくの、精密な兵糧攻め)
「陸将軍。一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「何だ」
「あなたが仮に帝都に報告なさるとして——この構造を、どう書きますか」
暁風の眉が動いた。
「……事実を書く」
「事実を」
「鳳麗華は官糧の減額を計画している。ただし民間流通は維持する方針。以上」
「それだけ?」
「それ以上、何を書けと。俺は見たものを報告するだけだ」
麗華はしばらく暁風の顔を見つめ、ふっと笑った。
「正直な方ですね、陸将軍」
「正直しか取り柄がない」
「十分です。正直は、この国で最も希少な品物ですもの」
春蘭が茶を運んできた。碧螺春の新茶が、白磁の杯に淡い緑色の液体を湛えている。
「これが私のやり方です。飢えるのは、私を捨てた人たちだけ」
麗華は茶を一口含み、窓の外を見た。秋の陽光が書斎に差し込み、卓上の図を照らしている。
官糧に引かれた×印が、静かに主張していた。
「食は命です。武器にはしても、凶器にはしない。——それが鳳家の矜持です」
暁風は茶を飲んだ。碧螺春の繊細な甘みが舌に広がり、喉を通る。旨い。この茶も、鳳凰領の霊脈が育てたものだ。
(この女の戦は、刃を使わない。飯と茶で、国を詰ませる)
書斎の窓から、農地に向かう領民の姿が見えた。彼らは何も知らず、今日も土を耕し、作物を育てている。
その穀物が、帝都の権力者の首を絞める。民は飢えず、権力者だけが食卓を失う。
暁風は茶杯を卓に置いた。
「分かった。——あんたのやり方は分かった」
「それは良かった。では明日からも、どうぞ監視を続けてくださいまし」
麗華が微笑む。春蘭が小さく笑いを噛み殺した。
暁風は何も言い返せず、茶をもう一口飲んだ。
書斎を辞した後、暁風は東棟に戻る廊下で立ち止まった。
窓の外に、夕日に染まる田畑が広がっている。あの緑の一粒一粒が、帝都の誰かの食卓に届く。あるいは、届かなくなる。
(精密な兵糧攻め。しかも民は飢えさせない。——こんな戦を仕掛ける女を、俺はどう報告すればいい)
暁風は窓枠に手をつき、しばらく田畑を見つめていた。
碧螺春の余韻が、まだ舌の上に残っていた。




