荒地の境界
鳳凰領の東端に、世界が二つに裂ける場所がある。
麗華が暁風を連れて馬を走らせたのは、地養術を見せた翌朝のことだった。朝霧がまだ低く漂う中、二頭の馬が農道を抜け、やがて畑が途切れる地点で止まった。
「ここです」
麗華が馬を降り、前方を示した。
暁風も降りて、その光景を見た。
——左は、緑だった。
鳳凰領の田畑が続いている。朝露に濡れた稲穂が風に揺れ、畝ごとに色の違う作物が整然と並ぶ。用水路の水が朝日を反射して銀色に光る。
右は、灰色だった。
草一本生えていない。土は乾ききり、白っぽく罅割れている。風が吹くと、砂埃が舞い上がった。遠くに枯れた木の骨格が見える。かつて何かが生えていた痕跡だけが残り、今は何も育たない死んだ土地。
その境目は、恐ろしいほど鮮明だった。
一歩手前は鮮やかな緑。一歩向こうは灰色の荒野。まるで誰かが筆で線を引いたように、生と死が隣り合っている。
「……これが、荒地か」
暁風が荒地の側に足を踏み入れた。
膝をついて土を手に取る。指の間からさらさらと崩れた。砂とも土ともつかない、乾ききった粉。昨日試験田で触れた黒褐色の土壌とは、まるで別物だった。
「握っても固まらない。水分も養分もない」
「ええ。霊脈が死んでいるから」
麗華が境界線の上に立ち、暁風を見下ろした。風が吹き、藍染めの袍の裾が揺れる。
「百年前の大災——霊脈震で、瑛朝の国土の七割がこうなりました。霊脈が断たれた土地は枯れ、作物が育たなくなり、人が住めなくなった」
暁風は立ち上がり、荒地の向こうを見つめた。灰色の平野がどこまでも続いている。地平線まで、緑のかけらもない。
「七割、か。帝都の周辺も——」
「帝都の外に広がる平野を思い出してください。あの痩せた畑で農民がどれほど苦労しているか。それでも帝都の周辺はまだましな方です。北方や西方には、人が住めなくなった廃村が百を超えると聞きます」
麗華は境界線の鳳凰領側に膝をつき、土を掬い上げた。黒く湿った土が、掌の上でしっとりとまとまる。
「こちらの土は生きている。霊脈が通っているから。水を蓄え、養分を生み出し、作物を育てる力がある」
二つの土を見比べるだけで、言葉は要らなかった。
暁風の掌には乾いた砂。麗華の掌には黒い土。同じ国の、ほんの一歩違いの土地で、これほどの差がある。
「鳳凰領が豊かなのは、鳳家が勤勉だからではありません。もちろん努力はしていますが、根本は霊脈の有無。そして霊脈の力を引き出す地養術の有無」
暁風は無言で頷いた。昨日の光景が蘇る。麗華の掌から流れた翡翠色の光。枯れかけた苗が蘇った奇跡。
「陸将軍。あの向こうに、枯れた果樹が見えるでしょう」
麗華が指差した先に、灰色の枝が空に突き出していた。かつて果樹園だった場所だ。幹だけが化石のように残り、実をつけることはもうない。
「あそこはかつて、梨の果樹園でした。百年前に霊脈が死んで、十年で全ての木が枯れた。祖父が幼い頃には、まだ最後の一本が辛うじて葉をつけていたそうです。今は見ての通り」
暁風は枯れた果樹園の方に数歩歩き、足元の土を靴の先で蹴った。乾いた粉が飛び、風に攫われて消えた。
幹に近づいてみると、樹皮はとうに剥がれ落ち、灰色の木肌が剥き出しになっている。枝の先端は折れ、地面に散らばっていた。百年の風雨に晒されてなお立っているのは、根が深いからだろう。だが生きてはいない。ただの残骸だ。
「この木も、霊脈が生きていれば——」
「花を咲かせ、実をつけていたでしょうね。梨は鳳凰領でも育てています。秋になると白い花が咲いて、冬の入り口に甘い実がなるの。この木々もかつてはそうだった」
麗華の声に、わずかな痛みが滲んだ。一瞬のことだったが、暁風はそれを聞き取った。
「……この国の土地の大半が、これか」
「ええ。そして鳳凰領だけが違う。私の掌だけが、この土地を生かしている」
麗華は土を払い、立ち上がった。
春蘭が二人の傍に寄り、荒地の方を眺めた。
「麗華さま。昔、この境界の向こうにも村がございましたね」
「ええ。楊柳村。百年前は五十戸ほどの集落があったと記録にあるわ。霊脈が死んで井戸が涸れ、二十年で全員が離散した」
「今は廃墟すら残っておりません」
春蘭の声は淡々としていたが、その事実の重みは暁風にも伝わった。五十戸。百人以上の人間が暮らしていた場所が、今は砂と枯れ木だけの荒野になっている。
朝の風が吹いた。鳳凰領の側から、稲穂の匂いが運ばれてくる。甘く、青く、生きている匂い。荒地の側からは何も匂わない。乾いた砂の無臭だけだ。
「陸将軍。昼食にしましょう」
麗華が唐突に話を変えた。
春蘭がいつの間にか包みを広げていた。鳳凰米の粥を小さな土鍋に仕立て、傍らには塩漬けの筍と、干し椎茸の煮物が並んでいる。
「境界の見学には粥を持ってくることにしているの。荒地の風に当たると体が冷えるから」
碗に注がれた粥は白く滑らかで、湯気が緩やかに立ち昇っていた。一匙すくって口に含むと、鳳凰米の甘みが舌の上に広がる。塩漬けの筍を添えると、ほどよい塩気が粥の甘みを引き立てた。
暁風は黙って粥を口に運んだ。旨い。この米が消える。帝都の食卓から。
「あちら側の土では、この粥は炊けません」
麗華が静かに言った。碗を両手で包み、荒地を見つめている。
「鳳凰領の外で暮らす人々は、こんな粥を知らない。知らないまま、泥のような雑穀粥で命を繋いでいる」
「……あんたは、それを武器にするんだな」
「武器にします。けれど——」
麗華は粥を一口飲み、続けた。
「あの荒地を見てしまったら、食糧を独り占めにすることの重みが分かるでしょう。私はこの力を武器にしますが、民を飢えさせるためには使いません。あの荒地で暮らす人たちに粥を届けるのも、鳳家の務めですから」
暁風は碗を膝に置き、しばらく荒地を見つめていた。
やがて粥の残りを飲み干し、碗を春蘭に返した。
「……見せてもらった。あの境界を見れば、あんたの言う食糧戦略の意味が分かる」
「分かっていただけたなら十分です。監視役としてのご見識が深まったことでしょう」
麗華は微笑んだ。あの穏やかな笑み。
暁風は返す言葉を探して、見つけられなかった。
帰り道、二頭の馬は並んで農道を歩いた。左手に広がる田畑の緑が、さっきよりも眩しく見えた。
振り返ると、荒地の灰色が遠くに霞んでいる。
(この緑を守っているのが、あの女一人か)
暁風は前を行く麗華の背を見た。細い肩。銀の簪。藍染めの袍。
その肩に、この国の食糧の七割が乗っている。
馬蹄の音だけが、秋の農道に響いていた。




