光る掌
その日の午後、麗華は暁風を試験田に連れていった。
鳳凰領の農地の東端、小高い丘の裾に広がる一区画。他の田畑と比べて面積は小さいが、土の色が明らかに違う。深い黒褐色の土壌が陽光を吸い込み、植えられた苗の緑がいっそう鮮やかに映えていた。
「ここが試験田です。新しい栽培法を試したり、品種の改良をしたりする場所」
麗華は畑の縁で足を止め、暁風の方を振り返った。
「——そして、あなたに見せたいものがある場所」
「見せたいもの?」
「鳳凰領がなぜ豊かなのか。昨日の問いの答えです」
麗華は草履を脱ぎ、裸足で畑に踏み入った。
試験田の一角に、明らかに元気のない苗があった。葉が黄ばみ、茎が細く、このまま放っておけば数日で枯れるだろう。
「この苗を見てください」
暁風が畑の縁から身を乗り出した。
「枯れかけている」
「ええ。この区画だけ、意図的に手を加えていません。鳳凰領の土地がどうなるか、対照実験のためにね」
麗華は枯れかけた苗の前にしゃがみ込んだ。両手を広げ、ゆっくりと土の上に置く。
「——静かにしていてください」
暁風が口を閉じた。
麗華は目を閉じた。
呼吸を深く整え、意識を指先に集中させる。土の感触が掌に伝わる。乾いている。冷たい。生気が薄い。
けれどその下に——遥か深くに——脈動がある。
霊脈。
大地の奥深くを流れる、目に見えない力の奔流。鳳凰領が他の土地と決定的に違う理由。この領地の下には、瑛朝でも数少ない「生きた霊脈」が走っている。
麗華は霊脈に意識を繋いだ。
慣れた感覚だ。幼い頃から祖父に教わり、十年以上繰り返してきた。霊脈の脈動に自分の呼吸を合わせ、力を引き上げ、土を通して作物に注ぎ込む。
それが——地養術。
麗華の掌が、淡く光った。
暁風は息を呑んだ。
白い指先から翡翠色の光が滲み出し、土の中に溶け込んでいく。光は根に沿って広がり、茎を昇り、葉の先端にまで届いた。
枯れかけた苗が——震えた。
黄ばんだ葉に緑が戻っていく。細い茎が太く、しっかりとした弾力を取り戻す。しおれていた葉先がぴんと張り、やがて苗全体が朝露を浴びたように瑞々しく輝いた。
ものの数刻のことだった。
麗華が手を離し、立ち上がった。わずかに息が乱れている。額に薄く汗が浮いていたが、すぐに袖で拭い、平静を取り繕った。
「——これが、鳳家の秘伝。地養術です」
暁風は、苗を凝視していた。
枯れかけていたはずの苗が、隣の健康な苗と見分けがつかないほどに回復している。
「……術、か」
「霊脈の力を引き上げて、土と作物に注ぎ込む。それが地養術。鳳凰領の農地がこれほど豊かなのは、鳳家が代々この術を使って土地を養ってきたからです」
「それを使えるのは」
「私と、祖父だけ。祖父はもう高齢で、大規模な術は使えません。実質的には——私、一人」
暁風の表情が変わった。鋭い墨色の瞳が、麗華を真っ直ぐに見据える。
「……つまり、あんたが手を引けば」
「鳳凰領の土地は数年で枯れます。他の荒地と同じように」
風が吹いた。試験田の苗が揺れ、先ほど蘇った苗も健康な苗と同じように風になびいている。
「この国の穀物の七割が、鳳凰領で採れている。鳳凰領の豊かさは、地養術で維持されている。地養術を使えるのは私だけ」
麗華は微笑んだ。いつもの穏やかな笑み。だがその言葉の意味は、暁風の背筋を冷たくさせるものだった。
「つまり——この国の食糧は、私の掌の上にあるということです」
暁風は無言だった。
腕を組み、眉間に皺を寄せ、試験田と麗華の顔を交互に見ている。感情を言語化するのが苦手な男だ。だが目の奥に浮かんでいるのは、恐怖でも怒りでもなかった。
(……畏れ、か。この男、今初めて理解したのね。食糧とは何か。それを握るとはどういうことか)
「陸将軍。食べ比べてみませんか」
麗華は声のトーンを軽くした。
試験田の隅に、二種類の穀物が干されていた。一方は地養術を施した鳳凰米。もう一方は、地養術を使わずに同じ土地で育てた米。
「こちらが地養術を使った米。こちらが使わなかった米。どちらも同じ品種、同じ土地、同じ水で育てたものです」
春蘭が小さな七輪と鍋を用意していた。手際よく二種類の米を同時に炊き始める。やがて蓋の隙間から湯気が立ち昇り、二つの鍋から異なる香りが漂った。
「さあ、どうぞ」
炊きあがった米が二つの碗に盛られた。
見た目から違った。地養術を施した米は粒が大きく、透き通るような白さで、一粒一粒が宝石のように光を弾いている。施さなかった米は粒がやや小さく、色がくすみ、光沢が弱い。
暁風がまず、地養術なしの米を口にした。
……普通だった。帝都で食べる米と大差ない。噛めば甘みはあるが、特筆するほどではない。
次に、地養術を施した米を口にした。
「——」
箸が止まった。
甘みが、段違いだった。噛んだ瞬間に口の中に広がる旨みの層が厚い。粘りがあるのに歯切れが良い。飲み込んだ後も、喉の奥から鼻に抜ける香りが消えない。
昨夜の食卓で食べたあの白飯。あの衝撃の味は、この術の力によるものだったのか。
「違いが分かりましたか」
「……分かった。分かりすぎるほどに」
「これが、鳳家の力。そして帝都が失うもの」
暁風は碗を膝に置き、しばらく黙っていた。
やがて、低い声で言った。
「あんたに聞きたいことがある」
「何でしょう」
「あんたはこの力を、武器にするのか。民を——」
「民を飢えさせはしません」
麗華が遮った。声は穏やかだが、そこには一切の迷いがなかった。
「官糧は止めます。朝廷の食卓は寂しくなるでしょう。けれど民間の流通は維持します。帝都の民が食べる米は、今まで通り届く。困るのは、私を廃妃にした権力者たちだけ」
「……それを信じろと?」
「信じなくて結構。あなたは監視役でしょう? ご自分の目で確かめればいい」
麗華は微笑んだ。春蘭が黙って茶を注ぎ、暁風の前に置いた。
暁風は茶を手に取った。口をつける。
碧螺春の繊細な甘みが、舌の上で穀物の余韻と重なった。
(この女は——本気だ。飯を武器にする。だが、民は飢えさせない。精密な兵糧攻め)
報告書の文面が浮かんだ。消えた。また浮かんだ。
暁風は茶杯を卓に置き、立ち上がった。
「……見せてもらった。礼を言う」
「いいえ。監視のお役に立てたなら幸いです」
「一つだけ聞く。地養術を使った後、あんたの顔色が悪かった。あれは——」
麗華の笑みが、一瞬だけ固まった。
「——気のせいですよ。新米の季節は忙しくて、少し寝不足なだけ」
嘘だ、と暁風は思った。だが追及する言葉を持たなかった。
試験田を後にする二人の背中を、春蘭が少し離れた場所から見ていた。
(陸将軍。術の後の麗華さまの顔色に気づくとは。——目だけは良い方のようですね)
春蘭は小さく首を傾げ、七輪の火を消した。
試験田の苗は、夕日の中で健やかに葉を揺らしていた。地養術の光はとうに消えていたが、蘇った緑は確かにそこにあった。




