帝都の食卓が寂しくなりませんよう
「廃妃を申し渡す」——皇帝の宣告に、鳳麗華は微笑んだ。泣き崩れると思ったか。この国の民が食べている穀物の七割は、私の領地で採れたものだ。
瑛朝後宮、大殿。
黄金の龍柱が林立する広間に、皇帝の声だけが冷たく響いた。天井には極彩色の鳳凰と麒麟が描かれ、その荘厳な天蓋の下で、居並ぶ嬪妃たちが一斉に息を呑む。衣擦れの音すら凍りついたかのような静寂。朱塗りの柱に挟まれた広間の空気が、張り詰めた絹のように震えていた。
その中で、玉座に最も近い位置に立つ女だけが動じなかった。
鳳麗華。後宮第二位、貴妃の座にあった女。
たった今、その位を剥奪された女である。
「鳳貴妃は蘇家への不正な圧迫、ならびに宮中の秩序を乱した廉により、貴妃の位を廃す。直ちに後宮を退去し、鳳凰領へ帰還せよ」
詔を読み上げる宦官の声は震えていた。無理もない。鳳家といえば瑛朝随一の名門であり、この国の食を一手に支える大貴族だ。その令嬢に廃妃を告げるなど、宦官にしてみれば虎の尾を踏むに等しかろう。
詔の文言は荘重だったが、中身は茶番だ。蘇家への不正な圧迫など、でっち上げもいいところである。むしろ圧迫していたのは蘇家のほうだ。偽証を用意し、証人を買収し、三月もかけて弾劾の舞台を整えた。その手回しの良さだけは褒めてやってもいい。
麗華はゆるりと視線を上げた。
玉座の皇帝——瑛承乾と目が合う。
若き天子の顔は、白玉のように白く、表情を消していた。しかし麗華の目は見逃さなかった。膝の上に置かれた手が、かすかに震えていたことを。
ああ、とうとう決めたのね。
麗華は心の中で静かに呟いた。一月ほど前から蘇家と趙宰相の動きが慌ただしくなり、弾劾の準備が整ったことは察していた。偽証の内容も、証人の顔ぶれも、すべて春蘭が掴んでくれている。
皇帝がこの茶番を止められなかった、あるいは止めなかった。それだけが、少しだけ胸に刺さった。
三年前、入内した日のことを思い出す。十七の春、深紅の花嫁衣装に身を包み、宮門をくぐった。あの日の承乾は、今よりもずっと若い顔で笑っていた。政略の婚姻とはいえ、互いに敬意はあった——と、思っていた。
だが、痛みは一瞬だ。ここは後宮。感情を見せた者から沈む修羅の園。
「——謹んで、お受けいたします」
麗華は深く一礼した。背筋は糸を引いたように真っ直ぐで、伏せた睫毛の先に涙の気配はない。深紅の裳裾が石畳に広がり、裾に織り込まれた金糸の鳳凰紋が、灯火を受けてかすかに光った。
ざわ、と広間が揺れた。泣き崩れるか、抗弁するか。嬪妃たちが予想していた反応のどちらでもなかったのだ。麗華の微笑みは穏やかで、まるで宴の招待を受けたかのような優雅さだった。恐れも怒りもない。それが、かえって広間の空気を凍らせた。
「——悔しくないの?」
声は斜め後ろから飛んできた。
振り返るまでもなく、声の主はわかる。蘇玉蘭。嬪の位にあり、今や皇帝の寵愛を一身に受ける女。そして今回の弾劾において、偽の証言で麗華を陥れた張本人。
紗の袖に白玉の腕輪が涼やかに鳴る。儚げに潤んだ瞳で、玉蘭はまるで心配しているかのような顔を作っていた。唇はわずかに震え、眉は憂いを帯びて——完璧な演技だった。後宮の女官たちが彼女に同情的なのも頷ける。
ただし、麗華に通じる芝居ではない。
(その涙は左目からしか出ていないわよ、玉蘭。右目の涙腺がお留守ね)
「あら、玉蘭。心配してくださるの?」
麗華は振り返り、にこりと笑った。
「ご安心なさいな。私はとても清々しい気分ですから」
嘘ではなかった。三年間この後宮で、策を巡らせ、味方を作り、情報を集め、布石を打ってきた。廃妃は想定の範囲内。むしろ遅かったくらいだ。
玉蘭の目がわずかに揺れた。勝者の余裕で声をかけたつもりが、敗者に余裕で返されたのだ。計算が狂ったときの一瞬の動揺。それを見ただけで、今日の収穫としては十分すぎる。
(その顔を覚えておきなさいな。半年後にはもっと素敵な表情を見せてくれるでしょうから。楽しみにしていてね)
麗華は広間を振り返らず、背を向けた。
広間の隅で、嬪妃の一人が隣の者にささやくのが聞こえた。「鳳貴妃は……笑っていたわ」「強がりでしょう」「いいえ、あの目は——」。声はすぐに途切れた。麗華が歩み出したからだ。
嬪妃たちの前を悠然と歩く。深紅の裳裾が石畳の上を流れ、金糸の鳳凰紋がかすかに光る。翡翠の耳飾りが歩みに合わせて揺れ、簪の鳳凰が灯火を弾いた。この装束を身につけるのも今日が最後だ。
だが、足取りに未練はなかった。鳳凰の飾りが施された深紅の靴が、石畳を一歩一歩踏みしめるたび、後宮の日々が遠ざかっていく。三年間の策謀も、夜ごとの警戒も、茶を一杯飲むにも毒見が必要だった日々も。全て、今日で終わりだ。
回廊を抜け、宮城の正門へ向かう。
途中、渡り廊下の欄干越しに、後宮の厨房が見えた。夕餉の支度が始まっているのだろう。湯気が白く立ち昇り、蒸し物の甘い香りが風に乗って漂ってくる。花巻の小麦の匂い。棗を煮詰めた蜜の甘さ。そして翡翠粥の、青菜と出汁が溶け合った澄んだ香り。
どれもこれも、鳳凰領の穀物と食材がなければ成り立たない品々だ。
麗華は足を緩めず、しかし鼻腔に残る香りを丁寧に記憶した。この匂いを、覚えておこう。半年後、この厨房から同じ香りが消えたとき——それが私の答えだ。
門の手前で、麗華はふと足を止めた。
視線の先に、遠く玉座に座したままの皇帝の姿があった。距離がありすぎてその表情までは読めない。それでも、先ほどの手の震えを思い出す。
あの震えは後悔か。それとも恐れか。
後悔なら遅すぎる。恐れなら——正解だ。
麗華は門をくぐる直前、一度だけ振り返った。
宮城の壮麗な屋根が夕陽に染まり、甍の上の金の鸞鳳が赤く燃えていた。三年間暮らした場所だ。権力と美と策謀が渦巻く、絢爛たる牢獄。
そして、誰に聞かせるでもなく、穏やかに告げた。
「——帝都の食卓が寂しくなりませんよう」
微笑みは完璧だった。声は優しかった。
だが、その意味を正確に理解できた者が、この場に何人いただろうか。
精々その翡翠粥を味わっておくことね。秋の収穫を届けなければ、来春には宮中から白米が消える。棗も胡麻も蓮の実も——全部、うちの領地のものだもの。
門が閉じた。
重い木戸が背後で合わさり、鉄の閂が落ちる音がした。その音は、三年間の後宮生活に打たれた終止符のように響いた。
深紅の裳裾が、春の陽光の中に消えていく。
門の外で待っていた馬車の傍らに、侍女頭の春蘭が立っていた。目を赤くしたまま、毅然と背筋を伸ばしている。麗華はその姿に小さく頷いた。泣いてくれる人がいる。それだけで、十分だ。
瑛朝後宮から一人の貴妃が消えた。
それがどれほどの意味を持つか。帝都がそれを知るのは、まだ少し先の話である。




