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別、花散る

 海。


 その日は、なんとなく朝早くから海を見たい気分だった。

 ただ、なんとなく、海を見に行かなければならないと感じた。


 浜辺に人はいない。いつかの日、ここで出会った不思議な少女。思えば、物語のような不思議な出会いだった。そう考えながら、同じ場所に腰を下ろす。

 左手に、砂ではない何かの感触があった。瓶だろうか、中に手紙が入っている。見慣れた文字を見た瞬間、すぐに立ち上がり、病院へ走った。

 ただ、なんとなく、そうしなければならないと感じた。


「……花夢」

 真っ白い病室に付いた頃、人の気配が2つあった。いつも付き添っていた看護師の宮澤、それとおそらく担当医らしき人。つまり、


花夢は、息を引き取っていた。


「……っ」

 真っ白い肌に血色はなく、青い目は閉じられていて見えなかった。胸の前で組まれた手には、おそろいのブレスレットが今も付いていた。らしくない涙をポツポツと落としながら、冷たくなった手を握る。苦しみに耐えていた花夢の顔は、とても安らかで。

 夢のようだった。昨日、温かい海を眺めながら二人で話をした、花夢はもうここを立ち去っている。あんなに嬉しそうで、楽しそうに笑った顔を見せてくれた、花夢はもうここに居ないのだ。自分が死神であることを忘れそうになる。人の死など、自分の仕事が増えるだけのものと感じていたはずなのに。いや、寧ろ、人間として過ごしたこの日々が、眼の前の近しい人の死を心に深く刺さるようしているのか。


 ふと、手に握った手紙を見る。手に力が入っていたせいで、若干シワが出来ている。折りたたまれた紙を開くと、弱々しくも意思のこもった筆跡で、心が綴られていた。


『ゆずきへ


 この手紙を読んでる頃、わたしはもういないでしょう。

 でも大丈夫。わたしなら、あっちでも上手くやってけるよ。

 だから心配しないでね。

 短かったけど、かけがえのない毎日をありがとう。

 大好きだよ

                        かのん ♡ 』


 小さなハートマークで締められた署名は、最後に少し線が掠れていた。きっと手紙を書いているときには既に腕の限界が近かったのだろう。紙が無色に滲む。端がくしゃりと皺を立てる。

「……俺の知らないところで……っ……馬鹿……」

 無いはずの右目から雫が溢れる。人間と同じ肉体のお陰で血を通すようになった眼球が、かつて無いほどの液体に溺れて潤う。


 死とは、生命活動の終わりを示す。しかし、死神として超次元を本分とするユアナにとっては別の意味を示す。例えば、現実は時間を含む物理四次元にあるが、魂という概念は同じ現実を空間四次元として渡る。平面の紙に描かれた障壁は人間の行動を阻まないように、魂は時間を1軸として扱う三次元の者には滅多に認識されない。本来魂というものは四次元の存在で、それが物理界から霊界へ渡るために元ある存在に戻る。彼ら死神にとって、死とはそういうものだった。


 だが、今のユアナ……もとい柚希は、たった一人の「人間」である。周囲にあふれる三次元の人間と、何ら変わりない存在なのだ。


 揺れ動く感情に反して、安らかに眠る死者の顔はいつまで経っても変わらない。目を開いてこちらを見ることも、握った手を握り返すことも……いつものように、出かけようと腕を引っ張ってくれることも、無い。それでも、ただ冷たい手を握り、顔を眺めることしか、出来なかった。


 なぜだか、亡き顔がこちらに微笑んだ気がした。


 心のうちの弔いが済、感情も落ち着いてきた頃、花夢の母親らしき人影が急いだ様子で病室に入ってきた。相当飛ばしてきたのだろう、メイクは少し崩れ、髪も風に乱されたままだが、それでも尚ここまで来るのには体温の残り香すら感じれなくなるほどの頃になった。魂でならすぐに来られるのに、と思いもしなかったが、きっと思っても口に出すのは無粋だろう。暗に死ねと言うか、幽体離脱でもするかと言うようなものである、自分がかつてそうしたように。それに、ここに残された花夢が生きていた証には、同じく生きている今の自分たちでしか、触れられないから。

 家族の邪魔をしないよう、さりげなく病室を後にした。前に花夢が話していた、シングルマザーの一人娘が自分より先に立たれてしまったとなれば、きっと数カ月を一緒にした自分よりも悲しみと心の傷は深いだろう。どんなに運命を謳おうが、血の繋がりは切り捨てられない。柚希は病院を出て、再びあの浜辺へと歩いた。道路脇には少し花弁のちぎれた蒲公英が、風に揺られている。


 きっと、この感情を忘れることはないだろう。

 ユアナという存在の成り立ちから、今まで。初めてで、多分、最後の体験。

 そして、初めての恋と、離別。

 この浜辺で昇りかけの太陽と、光を反射して輝く海を眺めていた。


 旅の前、渡された指令書を見る。この地が書かれていた文章はいつの間にか消え、代わりに次の行き先を示すものが書かれていた。

「……まったく、休暇って言うんならもう少し息付く暇をくれないもんかね……」

 文章には時間が記載され、注釈に小さく『迎え人あり。遅れぬように』と添えられていた。超次元の時間の流れは今いるこの空間とは違うとはいえ、目標は今出発して丁度にある。


 ならば征こう。この地を離れ、この長い休暇の新たな出会いのために。

 肉体を空に溶かす。三次元の摂理から外に出る。そこに残るものはない。


 こうして、物理界から柚希は存在を消した。厳密には、はじめから居なかったモノがもとに戻っただけだが、確かに人間の「未門柚希」はある意味で死んだとも言えるだろう。そうすれば、この物語の一区切りのオチとして綺麗に締まる。


 2つの火が消えた。だが、彼らが生きた証は鮮明に残された。

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