一人舞台
「ここね……よし」
私はチケットに印字された番号と、座席上部に取り付けられた小さなプレートの数字を見比べ、間違いがないと確かめてから、静かに腰を下ろした。
ふう、と息を吐く。思わず『よっこいしょ』なんて口に出しかけた自分を小さく笑った。
時間には余裕をもって来たつもりだったのに、すでにホールの客席は半分以上埋まっていた。周囲を見渡すと、名前入りの団扇やペンライトを持つ人たちの姿がちらほら目に入る。知らなかったが、彼はずいぶん人気者になったらしい。
……それもそうか。何せ、今日は彼が主役の舞台なのだから。
高校時代、同じクラスだった男の子。すらりと伸びた手足、それなりに整った顔立ちに白い肌は、それだけで周囲とどこか違う雰囲気を放っていた。それに加え、彼は物静かで群れず、誰かに合わせることなく、ただ一人でダンスのことだけを考えているような子だった。
当時から、『あいつはいつか有名になる』と言われていた。それが卒業して数年経った今、こうして現実になっているのだから、本当にすごいことだと思う。
クラスの中で彼だけが、くだらない序列や誰が誰を好きだとか、そうした湿った人間関係から逸脱した存在だった。教室の片隅にいるだけで絵になり、周りの空気が違う。そう、彼はまさにスペシャルだった。
そんな彼から、ある日突然、この公演のチケットが送られてきた。
どうして私に? と最初は思った。クラス全員に送ったのかな。律儀だなあ、なんて考えながら、同級生たちのSNSを覗いてみたけれど、どうやら招待されたのは私だけのようだった。
彼にとって私も、その他大勢のクラスメイトの一人でしかなかったはずなのに――いや、もしかすると……彼は気づいていたのかもしれない。
私もまた、あのクラスの中では、ほんの少し異質だったことに。
でも私は彼とは違い、ちゃんとクラスに溶け込んでいた。くだらない話でも、さも面白げに笑い、興味がなくても「へえ」と相槌を打ち、誰かが落ち込めば一緒に悲しむふりをしてあげていた。そうやって、うまくやっていた。
彼はさながら白鳥。アヒルの群れが泳ぐ池で、一羽だけ優雅に舞う。
私はカラス。白い羽をまとい、アヒルの仲間をふりをする。
そんな私を、彼はどう見ていたのだろうか。
尊敬? それとも軽蔑? あるいは――。
『息苦しくはないかい?』
『いいえ』
『君はもっと自由に舞いたい。そうだろう?』
『ううん、これでいいの……』
彼は、私を解放したいと思っていたのかもしれない。けれど、私たちが教室で言葉を交わすことはなかった。たまに、視線がふと重なる程度。それだけで、おバカなアヒルたちはガアガアと騒ぎ立てる――もしかすると野性的な勘が働いて、私たちが特別だと気づいていたのかもしれない――。『ねー、今見てたよね? 好きなの? 告っちゃえば?』。私は適当に笑って『ないない』と流して、それでおしまい。
ロミオとジュリエット? ノンノン、そんな劇的なものじゃない。私たちはもっと静かな関係。秘密の共犯者。翼を隠したエンジェル。
……と、照明が落ちた。
ざわめいていた客席の空気が、すっと引き締まる。いつの間にか、開演の時刻になっていた。
幕が上がり、舞台から白いスモークが天使の羽を散らすようにふわりと広がる。かすかに残っていた客席のざわめきを地の底へ沈め、視線も意識もすべて舞台の中央へ吸い寄せられていった。
そこに立っていたのは、あの頃と変わらない彼だった。いや、もちろん背は伸び、身体つきも洗練されている。でも、纏っている空気は昔のまま。湖面に映る月のように静かで、冷たく、そして眩い。
彼は舞い始めた。
一人で静かに。やがて激しく、荒々しく。それはまるで、当時の彼――あの教室にいた頃の心の内を吐き出しているかのようだった。
ねじれ、苦しげで、物憂げで、それでいて美しい。……ああ、そうか。彼は私たちを――いいえ、クラスメイトたちを哀れんでいたのだ。理解しようとしては苦しみ、自分とは別の世界の人間だと割り切ることもできず、その狭間でもがいていた。
『ああ、君たちはどうしてそうなんだ? ……そして、君はどうしてそうなんだ?』
独白のような舞は続いていく。やがて他の出演者たちが舞台へと加わり、物語は季節が移ろうように姿を変えていく。
始まりは冬。白く冷たい照明の中、孤独と静寂が舞台を支配する。
次は春。芽吹きを思わせる柔らかな光が差し込み、希望の気配が踊る。
夏。眩しく、騒がしく、活気に満ちていて……でも、それらはすべて幻想。彼が疎ましくも羨んでいた、“普通”の高校生のありふれた日常の体現。笑い、群れ、恋し、悩み、また恋して。誰もが当然のように手にしている世界。
そして秋が訪れ、彼は静かに悟った。自分は『普通』とは違うのだと。そしてそれは努力や願いでどうにかできるものではなく、逃れられない宿命なのだと。そちら側の世界とは決して交わることはできない。肌を重ね、その温度を知ることもない。けれど……感情だけは別だ。そっと手招きし、自分が見ている世界をほんの少しだけ体感させてあげる――それは、彼の哀れみ。いいえ、密かな思いを込めたラブレター。気づかなくていい。それでいい。私たちは共犯者。
彼は舞い、舞台と客席の境界をひらりと跳び越えた。
その証として、万雷の拍手が彼を包み込む。熱狂し、涙し、彼を称えた。けれど――この中の何人が、彼のダンスに込められた本当の想いを読み取れたのだろうか。
少なくとも、前列でペン先を舐めている評論家のおじさんには到底無理だ。
たぶん、私だけ……。だから、彼は私だけを招いたんだ。たった一人の共犯者に、すべてを見届けさせるために。
私は、舞台上で深く一礼する彼を見つめながら、そっと口元に人差し指を添え、「しぃー」と呟いた。小さく、誰にも聞こえないように。
――えっ。
そのときだった。強烈な光が私を呑み込んだ。反射的に顔の前に手をかざす。これは……スポットライト?
「さあ、こっちへ来て! 皆さん、彼女は高校時代の同級生で――」
信じられない。彼が、私を舞台へと招いたのだ。
ああ、ダメよ、ダメ。どうしてこんな真似をするの? 私たちは秘密の共犯者。決して表立って手を結ぶことは許されないはずなのに……。
それとも……私をそっちの世界へ引き込みたいの? あなたが立ってきた、眩しくも寂しい世界へ、強引に……。
「さあ、ほら!」
私は舞台へ上がった。彼がにっこりと微笑み、客席がざわめき、空気が揺れた。
戸惑い、好奇――客たちの感情が、容易に感じ取れた。これが舞台の上……。でも、私だって戸惑っている……いいえ、私は違うみたい。あなたたちとは違う。世界がね。
私は小さく息を吐き、胸の高鳴りを抑えながら、ゆっくりと手を伸ばした。きっと彼も鏡のように手を伸ばすはず。そして、そして二人は……えっ、なにその顔。
「えー……教室で君が僕の悪口を言っていたときのこと、今でも鮮明に覚えています。『えー、彼? ないない! ありえなーい!』って、あ、あの笑い声が、み、耳から離れなくてえ! こ、こっちだってお断りだからああ! こ、このあほ! うんちぃ!」
何かが音を立てて崩れ落ちた。




