ガルムの過去2
「……あなた!?」
妻の目には恐怖しかなかった。
「すまない、こんなことになって…だけど、俺は——」
「パパ……?」
「来ちゃダメ!!違う人よ」
そう言って玄関ドアを閉めて鍵をする。
「娘が怖がるから、どこかに行ってちょうだい!二度と近づかないで、私たちの前から消えて!!」
「……」
ガルムは玄関のドアに震える手を伸ばそうとしたが、コートを目深に被りなおし踵を返した。遠くでは、街の自警団が警戒を呼び掛ける声が響く。雨が降りしきるなか、その日を境にガルムは姿を消した。
——三ヶ月後。
服は破れ、髪は伸び放題。髭は顎を覆い、目は窪んでいた。洞窟の奥、焚き火の明かりを頼りに、彼は膝を抱え、ぼんやりと火を見つめていた。手元には、粗末に削った木の塊。娘の形に似せた、小さな人形だ。刃物で少しずつ削ってはいたが、どうしても顔がうまくできなかった。指先が震えて、刃が滑るたび、木片が欠ける。
「……似てねぇな」
掠れた声で呟いて、また削る。削りすぎて、頭が割れた。
「……やっぱり、ダメか」
人形をそっと地面に置き、両手で顔を覆った。肩が小刻みに震え始めた。
「俺は……くそっ」
鉱山で掘った鉄で、町を豊かに。ツルハシを振るった手で、家族を養ってきた。なのに、今は木一本、まともに削ることすらできない。
「……娘の靴も、買えなかった」
火の粉がぱちりと跳ねて、頬に当たる。痛みすら感じない。
「このクソみたいな力のせいで……何もかも、失っちまった」
ガルムはゆっくりと立ち上がり、洞窟の入り口に歩み寄った。外は深い夜。満天の星が、キラキラと冷たく見下ろしている。彼は拳を握り、岩壁に向かって静かに額をつけた。
「……すまない」
誰にも届かない謝罪を、夜の闇に溶かした。
山奥に古びた廃墟がある。ある日、盗んだ干し肉を運んでいると、瓦礫の陰に細い影が見えた。血と埃にまみれた少女が、虚ろな瞳で佇んでいる。ガルムは干し肉と水筒を肩に、足音を殺して近づいた。
少女は瓦礫の陰で縮こまっていた。目が合ったが、すぐに視線を地面に落とす。ガルムは無言で干し肉を半分にちぎり、地面に置いた。少女は視線を地面に落としたまま微動だにしない。そのまま、ガルムは背を向けて去った。置かれた肉が、山風に冷えていく。
次の日も、その次の日も、同じことを繰り返した。三日目。ガルムが近づくと、少女が廃墟の入り口に立っている。手には昨日置いた干し肉の包み。空っぽだった。
小さく頭を下げ、微かな声で「……ありがとう」と口が動いた。
ガルムは一瞬、足を止めた。胸の奥に、鉱山の崩落音が蘇る。
「逃げろ!」と叫んだ自分の声。瓦礫の下で埋もれ消えた同僚の悲鳴。
「怪物だ」と石を投げた町の人々。妻の最後のセリフ。
「……うるせぇ」
誰にも聞こえない程に低く呟き、踵を返す。背中を向けながら、握り潰した拳が震えていた。誰かに感謝されたのは、どれだけぶりだ?でも、俺は……。
少女は再び、廃墟に戻っていった。新しい干し肉を両手で抱えるようにして……。
満月の光が廃墟を青白く染めていた夜だった。地鳴りが響き、闇の奥から無数の赤い目が浮かび上がる。魔獣の群れが、廃墟へと迫っていた。
「ちっ、雑魚どもが……」
ガルムは低く唸り、素手で最初の一頭の顎を掴んだ。握り潰すように力を込めると、骨が砕ける音が静かに響いた。次の瞬間、体が熱を帯びた。
「くそ、またか……!」
異能が暴走する。背が伸び、筋肉が膨張し、巨体が大きな影を作り出した。
「制御……できねぇ……!」
右腕が勝手に振り上げられる。振り下ろされた拳は、目の前の魔獣を捉え、肉と骨ごと叩き潰した。死体は血しぶきを上げながら宙を舞い、廃墟の中心へとすっ飛んで行く。少女がいる場所だった。
「しまった……!」
ガルムの顔から血の気が引いた。まただ。また俺の力が。くそ、くそ、くそぉぉぉ!!だが、衝撃音は鳴らなかった。吹き飛んだ魔獣の胴体に、飛来した無数の瓦礫が突き刺さり、軌道を逸らされる。死体は廃墟のすぐ手前で地面に叩きつけられ、土煙を上げて横に跳ねた。廃墟の中から、細い人影が現れる。
「……来ないで」
弱々しかった声に、明確な意志が乗る。言葉は夜の外気を震わし、貫いた。残る魔獣が一斉に襲いかかる。巨人化したガルムは無言で少女の前に立ち、襲撃を全身で受け止めた。牙も爪も、鉄のような皮膚に弾かれる。その背後で、少女は右手をゆっくりと挙げる。
彼女の周囲に散らばった壁の破片や石ころが宙に浮き始める。次の瞬間、無数の弾丸となって四方八方に弾き出された。10秒、たった10秒で、月光の下に残ったのは、血と静寂だけとなった。巨人は膝をつく。肩で荒い息をつきながら、ゆっくり顔を上げて少女を見た。
「……お前、すごい力だな」
身体が震えていた。初めてだ。俺のこの化け物じみた力で、誰かを守れた。呪いだと思った力が、誰かを殺さなかった。少女は月光に照らされて立ち尽くし、小さく唇を動かした。
「……ありがとう。あなたも」
瞳に涙が溜まり、頬を伝って落ちる。初めてだった。自分の手が、誰かを傷つけずに済んだ。二人は、満月の下で、ほんの少しだけ笑った。まだ呪いは、呪いのままなんだろう。けれど、初めて、それが自分たちにとっての「武器」に見えたのだ。
焚火の火がぱちりと跳ねる。ガルムの話を聞いていた三人は、黙って闇の中で揺れ動く火を見つめていた。
「それが……団長?」
ログの問いにガルムは「…ああ」と短く答えた。
「俺らにとっちゃ、異能は黒い呪いみたいなもんだったが、それでも心の中に希望の火を灯すことができた。黒焔騎士団には、そういう意味が込めてある。ここに集まってる連中は、脛に傷を持ってるような奴ばかりだ。団長も俺も、他の奴らも例外じゃない。帝国の支配で苦しんでる奴らもたくさんいる。俺らはそんな奴らの寄せ集め。寄せ集めだった……」
ノルは、ガルムの言い方が少し変化したのが気になった。帝国の支配を終わらせる。頭の片隅にあった影も形もない計画が、輪郭を持とうと集まり始めているように感じた。
次の日、四人はヴェルド旧鉱山の入り口に立っていた。靄が立ち込める斜面に、崩れかけた木組みの坑道口がぽっかりと口を開けている。かつて真っ赤に塗られていたであろう「立入禁止」の看板は、風雨に晒されて色褪せ、文字は苔に半ば埋もれていた。
「禁」の一文字だけが、かすかに赤く残り、まるで血の跡のようだ。
「もう何年も、誰も近づいちゃいねぇって感じだな……」
ガルムが低く呟き、朽ちかけた支保工——坑道が崩れないよう内側から支える仮の骨組み——を手で押してみる。木は湿って柔らかく、指がめり込んだ。四人は無言で中へ踏み込んだ。坑道の空気は冷たく、湿り気を孕んでいる。




