潜入捜査
合宿から帰ってきて1週間が経った。
悠の隠し事がバレてからというもの、表面上では大きな変化はなかったが、浅葱の中では今までとは何かが違うようになった。
端的にいうと、接し方が分からなくなったのである。
一例を挙げると、この間の水曜日、通常毎日20時から始まる班内での個別指導中に一度だけ悠の姿勢が大きくぐらついた瞬間があった。
気が抜けていたらしく基本の体勢を誤ったのが原因であり、それを矯正しようと浅葱は悠の体に手を伸ばした。しかし、その手は途中で止まった。前に、同じようなことをした時に悠の顔が赤くなっていたのを思い出したからである。
行き場を失った手が宙を彷徨う。
しばらく不自然な動きをしていると、遂に悠が察してしまったらしく、
「遠慮しないでください!『女だから』って態度変えないでって言ったじゃん!」
と怒り始めた。
「わ、悪い」
後ろめたさに、いつものように「敬語を使え!」と注意することさえ忘れていた。
その後は、悠の指摘通り態度を変えないように努力をした。が、正直浅葱は、こんなことになるくらいなら知らない方がよかったかもしれん、などと思ってしまった。
そんなこんなで、変に悠を意識してしまっている中、葦葉が週に一回行われる班長会議から帰ってきたところで現在に至る。
「ただいまぁー。今日は珍しくお知らせがあるんだよね」
靴を脱ぎながら、四つに折られた白の用紙を浅葱へ投げてよこした。
開くと、何かが書かれているのが見えた。
「えぇと、何だ?この頃は冷え込む季節になってきましたが、郵便局員の皆様に置かれましては、変わらず鍛錬に…」
「そこは別にどうでもいいって。浅葱は律儀すぎんだよ。律翔なだけに笑」
「お前、そんなに人の名前で遊んで楽しいか?良いから黙って読ませろ。……ってこれサラっとすごいこと書いてるな!こんなの大問題だろ」
浅葱の声を受けて、背後にいた悠が「なになに⁉︎俺にも見せて〜!」と身を乗り出すが、浅葱は、
「うるさい!餓鬼は引っ込んどけ」
と相手にしない。
むくれた悠は葦葉にねだった。
こちらも実は律儀な葦葉が、手紙の内容を分かりやすく要約して教えてくれる。
「まぁ、要するに、鳩羽郵便局が捕まえ損ねた不法入門者がこの島のどこかに潜入してるから、どうにかして捕まえろっていう内容。加えては、このことは絶対に住民に知られないように、とのことだって」
「捕まえ損ねたこと、住民に知られたら鳩羽郵便局の評判に関わるからですか?」
「そそ。よく分かってんじゃん。そういえば、こう見えて山吹は頭良いんだったよね。何しろ入社試験は歴代で2位らしいし」
「こう見えてってどう見えてるんですかっ!」
「まあまあ」
葦葉の発言はどうも引っ掛かる。もう!とソファに勢いよくもたれかかったが、よくよく考えるとそれ以前に今の言葉でもう一つ気になるものがあった。
それは入社試験のことだ。
自分で言うのもあまりよろしくないが、悠は己の能力に関して自信があり、おそらくあの点数は歴代の中でも1番のものであるだろうと自負していた。
まさかその上がいたなんて、と少しショックを受ける。
悠の成績を把握している葦葉なら、それが誰であるのか知っているのだろうか。
知れるものなら知っておきたい。
いつかそいつを超えるためにも。
「ね、リーダー。入社試験で一番だった人って誰だか知ってますか?」
すると、なぜか葦葉は、未だ手紙を凝視している浅葱の方に目をやり、それから視線を悠へと戻した。
「ん。知ってる。でも本人が言いたくなさそうだから、俺の口からは言えねぇなぁ。気になるなら探してごらんよ」
別に悪いことじゃないんだから知ってるなら教えてくれたら良いのに、と悠は思ったが、これ以上問い詰めても葦葉は口を割りそうにないので、代わりに、
「なーんだ。てっきりリーダーが一番なのかと思ってました」
などとお世辞を言ってみると、
「いや、それはないな。俺、めっちゃ頭悪いし」
と、これまた意外な情報が得られた。
それもそれで気になる、と悠は更なる興味を持ち始めたが、
「…と、まぁ、この話はここまでとして。取り敢えず、例の手紙の件で少し作戦を練ろうか」
と葦葉に打ち切られてしまった。
「そういうわけで、なんか良い案ある人ー」
4人全員が揃ったテーブルで、葦葉が進行役を務めた。
しばらくは誰も何も発言しなかったが、不意に浅葱が口を開いた。
「今回の件に関わっているのは何班なんだ」
確かにそれによって、今後の動きも変わってくるのだろう。
葦葉が詳細資料を広げて応答する。
「東西南北それぞれ二班ずつだってよ。北はうちの班と、後、新橋がリーダーやってる班のところ」
「全部で八班か。その人数いるなら、調査だとかなんとか言って全住民集めて、1人ずつ住民票と照合するのが一番手っ取り早いんじゃないか?5000人分の作業なら単純計算3日でほとんど終わるだろ」
総人数約5000人のこの島でなら、確かにその方法もある。しかし、
「はい、山吹さん」
ビシっと音がしそうなほどの勢いで手を挙げた悠を、先生気取りで葦葉が当てた。当たった悠が話し出す。
「確かに主任のやり方が一番時短ではありますが、それだと抜け目がありすぎます。まず、不法入門者がその場に来るという保証がありません。というか多分来ない。島のどこかに隠れてその調査が終わるのを待つでしょう。後、そんな大人数を収容できる会場の手配なんてすぐにはできません。…そう思いませんか、リーダー」
浅葱に突っかかれないよう、葦葉を味方につけたいという悠の思惑に葦葉は、
「そうだね。一理ある」
賛同してくれた。しかし、
「でも、それなら山吹も何か提案ある?否定だけしてると浅葱が怒り出すよ」
と抜かりない。
先ほどから、浅葱が眼光鋭く人を射すくめる視線でこちらを見ていることを指しているのだろう。
慌てて悠はその先を続ける。
「も、もちろんありますよ!…要するに、相手がこの島に潜入しているのなら、こちらも潜入すれば良い」
ほう、と葦葉が唸る。
「つまり、潜入捜査ということ?」
「そう!それなら相手にも住民にも気づかれないし、一石二鳥じゃないですか」
「え、でもそれ範囲広すぎない?」
口を挟んだのは、それまで黙っていた翠だ。
浅葱も、同感だと言わんばかりに頷いている。
しかし、何故か悠は、我が意を得たりという表情をした。
「いやいや、翠さん。この天才な山吹悠様がそんな当たり前のことを考えてない訳ないじゃないですか。抜かりないよぉ」
「俺を苛立たせるのが天才ということか。悪かったな、俺の案は抜け目だらけで」
「いやいやそういうことじゃないです!怒んないでくださいよ!」
殺気を含んだ浅葱のオーラを感じ取り、悠は焦って取り繕う。
「まぁいい。…それで?」
気を取り直して再び。
「それで、鳩羽郵便局がその人を取り逃したのって、話を聞く限りそこそこ前のことですよね。それが今になってもう一度取り沙汰されたのはおそらく目撃証言があったからじゃないですか」
悠に聞かれて、資料に目を通した葦葉は数秒後に目を見開くこととなった。
「お、よく分かったな。山吹の言う通り、胡桃町のあるカフェで店員をやっている人からの通報で問題になったらしい。しかも犯人を見たのは3回目。」
「ほらね。きっと犯人はそこのカフェの常連なんですよ。だから俺たちがその周辺に潜入すれば、捕まえられる確率はうんと上がります。どうですかこの方法」
「とてつもなく安易な考えな気もするけど、一度試してみる価値はあるかもね」
なんだか棘がちらつくが一応賛同と捉えても許されそうな葦葉の発言に、最後の最後まで渋っていた浅葱も
「…わかった」
と折れた。
「そうと決まれば、早速明日もう一つの班との顔合わせがあるから、その時までにこの山吹の案のこと話しておくわ。多分新橋は同意してくれそうだけど」
そこで、潜入捜査なんて初めてだなぁなどと考えていた悠が我に返って口を挟む。
「これでもし捕まえられたら俺の手柄ですね!」
「確かに。じゃあ発案者俺ってことにしとこっかな」
「え、ちょっと待ってくださいよ」
「ん、何か問題?リーダーの命令は絶対ですけど?」
2人の雲行きが怪しくなり、別の話し合いが始まりそうになったタイミングで浅葱が
「うるさい、黙れ!」
と一括して、場は収まった。
そしてその後、実行日や集合場所などの詳細を話し合い、この件については終了した。
私室へ戻る途中、悠はふと立ち止まった。
その顔からは先ほどの明るい表情は拭われていた。
口に出さなかったが、実はこの話し合い中、ずっと心に引っかかっていたことがある。
その正体は分からない。
だが、その感覚を忘れてはいけない気がする。
忘れたらきっと、後悔する。
……あの時だって、そうだった。
何かが始まる予感を胸に押し込め、悠は足早にその場を去った。
老人はおもむろに書物を開く。
そこには、見慣れた直筆の文章。
─────「人は皆、声を揃えてそれを英雄だと言う。しかし、既に悲劇は起こった。英雄が英雄を殺す時、果たしてその歓喜は変わらずにそこにあるのだろうか─────?」
涙が一滴、頬を伝う。