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始まり

【主な登場人物】


・N子(主人公であり、著者)

四十七歳の主婦 結婚十五年目

実家が営む日本料理店で、パートタイマーとして働く。

背が高く、ツンとすましているように見られがちだが、おしゃべりでおっちょこちょい。

二十年近くパニック障害を患っているが、理解ある夫と可愛い息子に囲まれ、念願の一軒家にも住み、悪くない人生を送っていると思っている。


・K男

N子の夫 N子より三歳年下の四十四歳

父親と共に塗装業を営む 離婚歴があり、前妻との間に娘がいる。

背が低く、ぽっちゃり型 細いタレ目でいつもメガネをかけている。街づくりに積極的に参加し、器用で知恵や行動力もあり、人に頼られると張り切る性格。


・A子

N子のママ友。 五年前に夫を心不全で亡くす。

中肉中背 美人ではないが、女子力が高く、色気があるタイプ

夫を亡くして他の保育園に移った後も、N子を含むママ友たちと交流が続く。

二年前に五十キロほど離れた自分の地元に引っ越す。


・S子

N子のママ友であると同時に、N子の息子が通った幼稚園の副園長

小柄で細身だが、丸顔で、笑うと両頬に出るえくぼが可愛い

N子とは、小学校でも息子同士が同じクラスで、関係が深く、仲が良い。


・S子の夫

婿養子 寺の副住職

背が高く体重もあり、体格が良い

K男に家のリフォームを頼むなど、N子やK男と家族ぐるみで仲が良い。




挿絵(By みてみん)




1.アヒルの鳴き声




 二〇一九年六月のある朝、突然にそれは始まった。


 私は朝六時のスマホの目覚ましの音で目が覚めた。

 隣で八歳の息子がまだすやすやと眠っている。


「もう起きる時間だよ。下に降りよう。」


 そう息子に声をかけたが、一向に起きる気配は無い。


  私は強い尿意を感じ、階下のトイレに向かうべく、トントンと階段を駆け下り始めた。

 すると、階下から妙な音が聞こえてきた。


「グワーッ! グワーッ!」


—— えっ⁉︎


 アヒルの鳴き声のようなその音は、とんでもない大音量だった。

 ただならぬ気配を感じた私は、階段を駆け下り、夫が寝ている和室に入った。


  私は仰天した。


  夫が布団の上で仰向けに倒れていた。

 なぜか全裸で、ハンバーグのドミグラスソースのような茶色いものが顔一面に張り付いていた。


 アヒルの鳴き声のような音は、夫が発しているいびきのようなものだった。


—— これは一体なんなのだろう……


 心臓がドキドキしてきた。


—— とにかく救急車を呼ばなければ。


 震える声でスマホから一一九番に電話をした。すぐに救急車が来てくれることになった。

 そのあとは意外と冷静だった。


—— 救急車が来るということは、子供を置いて家を出なければならない。誰かに家に来てもらわなければ。


 姉に電話をして来てもらう事になった。母にも電話をした。二人とも仰天していた。


 それから、救急車に自分も救急車に乗るのだろうと考え、それに備えて、まずはトイレに行き、パジャマからジーパンとTシャツに着替え、薄手のカーディガンも羽織った。


 その時、一一九番からスマホに電話がかかって来た。


「救急車が向かっていますが、それまでの間にやってもらいたい事があります! ご主人の顔を横向きにして、心臓の辺りを強く繰り返し押してもらえますか⁉︎ 心臓マッサージです!」


「えっ! 体を横にして心臓マッサージをするんですか⁉︎」


「いえ、顔だけを横にしてください!」


  電話の相手は慌てた様子だった。


—— そんな事までしなければならないほど、切迫した状況なのか……


 さらに心臓がドキドキし始めた。

 そして、夫の顔を横に向けようとしたが、びくともしない。


「顔が全然横に向きません! どうしたらいいですか⁉︎」


  私は泣きながら言った。


「そのままで良いから、心臓マッサージを続けてください!」


 自分が正しいやり方をしているのかどうか確信が持てなかったが、とにかく夢中で心臓の辺りを押し続けた。


 その時、救急車のサイレンの音が聞こえた。

 家が分かりにくいのではないかと思い、家の前に出て救急車に向かって手を振った。

 救急隊員数名が家に駆け込み、すばやく夫を毛布で包み、担架に乗せ、救急車に運び込んだ。


「奥さんもご主人の保険証を持って車に乗ってください。」


 そう言われて、家を出ようとしたら、姉が到着した。


—— そうだった……


 姉が来ないうちは、息子を残して救急車に乗り込むことは出来ないのだということを、すっかり忘れていた。

 その時、息子が階段を降りてきた。


—— 良かった!


 父親の変わり果てた姿を息子見せなくて済んだ。一分でも起きてくるのが早ければ目にしていただろう。


 救急車に乗り込むと、救急隊員が受け入れ先の病院を探して電話をかけていた。そして、四十分位で受け入れ先の大学病院に到着すると聞かされた。


その頃には気分が少し落ち着いた。


—— 夫はまだ四十四歳なのだ。医療はどんどん進歩しているのだし、まだ息をしているうちに救急車に乗せられたのだから助かるに違いない。


—— 『奇跡的に助かった』などとテレビでよく言っているではないか。まさかこのまま亡くなる筈はないだろう。


—— 夫はこのまましばらく入院することになるだろうから、私は当分の間、仕事を休んでずっと夫の面倒を見て、思い切り大事にしてやろう。


 救急車に乗ってからは、そんな事を考えていた。それから、母と姉に大学病院に向かっていることをメールで伝えた。


 車の中では、救急隊員達が夫に酸素ボンベを着けてずっと何かの処置をしていた。なんと大変な仕事なのだろうと思って見つめていた。終始一生懸命で、時折、私に優しい言葉をかけてくれる彼らが神様のように思えた。


 助手席にいる隊員の声が聞こえた。


「救急車が通ります! 道を開けて下さい!」


 朝のラッシュが始まりかけている時間帯で、救急車がスムーズに通行できない時もあった。


—— 一分一秒を争う事態かも知れないのに! 夫が助からなかったら、すぐにどかなかった車の運転手を一生恨んでやる!


 そんなふうに思いながら、祈るような気持ちだった。

 救急車が病院に到着すると、夫はすぐに集中治療室に運ばれていった。


 しばらく集中治療室の外で待っていると、スマホに着信が入った。


—— あっ! そうだった!


  毎朝、息子は小学校に登校する際、友人と待ち合わせをしていた。

息子は下校したら私の実家であり、私の職場である飲食店に帰るために、自宅から少し離れた学区外の小学校に通っていた。

 そして、夫が毎朝、通勤がてら、その待ち合わせ場所まで車で送っていた。

 ところが、その朝は夫と息子がまだ姿を見せないので、その友人の母親が私に電話をして来たのだ。


「まだ来ないのですが、遅れるので先に行ってもいいですか?」


 彼女は単なる息子の友人の母親ではなかった。

 私と彼女とは、息子同士が幼稚園の同級生の時からの付き合いがあった。

 しかも、その幼稚園は彼女の実家であるお寺が経営をしており、彼女は副園長でもあった。

 まさに彼女は、私の最も親しい友人のうちの一人と言っても良い存在だった。

 彼女からの電話で思わず涙が溢れ、夫が救急車で運ばれたことを告げた。


「そんな! でも、きっと大丈夫ですよ! ずっと祈ってます!」


 彼女は泣きながら言った。


 それから、どれくらいの時間が経ったのだろうか。よく覚えていない。

 ぼーっとしていると、医師が待つ個室に通された。


 その医師はまず、神妙な面持ちで言った。


「お子さんはいらっしゃいますか? おいくつですか?」


「息子が一人、八歳です」


「そう、ですか……」


 その医師は、心の底から残念そうな顔をした。


—— えっ! まさか……


 心臓が高鳴った。


—— 深刻な後遺症が残るのだろうか…… まさか命までは取られまい。


 そして、夫の頭部のレントゲン写真を見せられた。


「脳内の血管が切れて出血していて、その血液が脳幹を圧迫しています。これだけ脳内に血液が溜まっていると手術は出来ません。今は心臓が動いていて、自発的に呼吸もしていますが、しだいにそれも無くなるでしょう。あとは人工呼吸器をつけて、いつまでもつか……」


 訳がわからない状態で、ふらふらとその個室を出た。


—— まさか…… これは現実なのか……


  再び集中治療室の外で待っていると、母と夫の両親の三人が到着した。

 ちなみに、私の父は十年以上前に他界している。

 義父が慌てて運転を誤るといけないので、三人でタクシーで来たそうだ。


 私は医師に言われたことを皆に告げた。


 母も義母も絶句していたが、義父は受け入れられないようだった。


「今は手術が出来ないというだけで、脳の血が引けば手術できるんだろ?」


 そう言った義父に、『そんな訳はない』とは、とても言えなかった。


「奥さん、ご主人にお会いになりますか?」


 そう看護師に言われたので、私一人で集中治療室に入った。

 夫はたくさんの管に繋がれて、ベッドの上で横になっていた。

 私は体が震え、嗚咽した。もう、いつ呼吸が止まってもおかしくない状況なのだろうと思った。


 しばらくすると、夫の弟夫婦が到着した。

 それから、全員が個室に呼ばれ、医師から詳しい状況説明があった。


 夫はまもなく脳死状態か植物状態になるということだった。

 原因を探ろうと色々な検査をしたが、結局、原因となる物は見つからなかったそうだ。

 おそらく、たまたま血圧が高い状態にあって、肉体的、あるいは精神的に強いストレスがかかり、たまたま脳の血管が破裂してしまったとしか言いようがない、ということだった。

 ようやくその場にいた全員が、夫がもう助からないということを理解したようだった。


「仕方がない。寿命だったんだろう……」

 義父が弱々しい声で言った。だが、義父は自分の息子の死をすぐには受け入れられずにいるに違いなかった。


 その後、夫は救急病棟に移されることになった。

 これからも色々な検査が行われるということだった。


 その晩は私が一人で病院に泊まることになり、あとの皆は家に帰った。

  私は意外と落ち着いていた。というより、何も考えられなかった。


 とりあえず、病院の売店に行き、洗面用具や食べ物を買った。

 夫の病室に戻り、買った物を食べようとしたが、ほとんど喉を通らなかった。

 やはり平気なようでも、体は正直だった。

 おにぎりを一口かじったが、なかなかゴックンと飲み込めなかった。仕方なく、ゼリー状の栄養食を買ってきて、なんとか口に含んだ。


 夫が病院に着いた時に電話をくれたママ友にラインメールをした。

 夫がどうなったのか、さぞかし心配しているのではないかと思ったのだ。彼女に夫が脳死状態か植物状態になることを伝えた。

 すると、面会に行っても良いのか、自分に何か出来ることはないのか、他のママ友やパパ友達に知らせても良いのか、という返事がすぐに返ってきた。

 だが、私はママ友やパパ友たちに知らせる事を少しためらった。


 実はその前日、夫と息子は、息子の幼稚園時代からの友人家族達と、ある自然公園に出掛け、丸一日一緒に過ごしていた。

 その公園で遊んだ後は、皆で近くにあるかき氷屋さんでかき氷を食べたり、商店街を見て回ったそうだ。

 ちなみに、私は実家の飲食店での勤務の為、日曜日のその集まりには参加出来なかった。


 前日に、丸一日一緒に過ごしていた彼等に夫の事を告げたら、とてつもないショックを受けるに違いなかった。

 それに、その瞬間にも彼等の間で、前日の様子を撮った画像や、思い出を語るラインメールが飛び交っていた。

 だが、いつまでも黙っている訳にはいかないので、彼女からママ友やパパ友たちに告げてもらうことにした。


 夕方になるとママ友やパパ友たちが面会に来た。

 もう夫が助からない為なのか、誰がいつ面会に来ても、病院のスタッフは夫に会わせてくれた。

 皆、夫の変わり果てた姿を見て言葉を失っていた。


「大丈夫! きっと奇跡が起きるから!」と口々に言ってくれた。

 でも、私はもう諦めていた。


 その夜は、夫の隣に簡易ベッドを用意してもらって横になった。

 だが、やはり寝られなかった。


 夜中じゅう、夫に装着された人工呼吸器の警告音が鳴り、看護師が様子を見に出入りした。


 私は精力的に活動をしていた夫の、変わり果てた姿を眺めた。

 たくさんの管に繋がれ、口は半開き、目も少し開いて白目を剥いていた。

 最期に皆にそんな姿を晒して、なんと哀れなのだろうと思った。

 夫の頬を撫で、もう嗅げなくなるであろう、脂臭い夫の頭を何度も嗅いだ。


—— そもそも、夫と寝室を別にしていたのが間違いだったのだろうか……


 我が家を建てる時、寝室は和室にして、畳に布団を敷いて寝たらどうかと、夫は言っていた。夫にとって、ベッドは下に落ちる可能性があるから、布団の方が落ち着いて寝られるそうだ。だが、布団の上げ下げや、将来、足腰が悪くなったり、介護をしたりする事を考えて、やはりベッドにすることにしたのある。


 最初の数年は息子と三人でクィーンサイズのベッドに寝ていた。

 だが、夫は狭そうで、寝心地が悪そうにしている様子だった。

 そして、夫がある日、風邪を引き、私達に移さないようにと一階の和室で寝た事をきっかけに、その後、夫だけずっとそこで寝ることになってしまったのだ。


—— それがいけなかったのだろうか。


 それから、前日の夜の事を思い出した。

 夫と息子が帰ってくると、二人共その日一日を満喫したらしく、とても楽しそうな様子だった。 特に夫はご機嫌で、自然公園で息子と二人用の自転車に乗った話や、帰りに寄ったかき氷屋さんのかき氷が美味しかった事や、近くの商店街が面白かった事などを話してくれた。


「私も行きたかったな」


「もうすぐその商店街で大きなお祭りがあるそうだから、その時は三人で行こうよ」


そんな話をした。


その後、息子が寝てしまうと、私は録画していた連続ドラマを見始めた。


「俺、疲れたからもう寝るわ」


「そう。おやすみ」


 そして、夫は寝室に向かった。私はすでにドラマに没頭していて、よく顔も見なかった。

それが最後だった。


結婚当初、私は夫をいつも賞賛して、頼りにして、夫の言うようにしていた。

だが、そのうちに子供が生まれ、時が経つうちに、子供にばかりかまっていたり、夫に相談せずに色々な事を自分で決めたり、自分一人の時間を大事にするようになっていた。

でも、私が世界中で最も信頼し、心の拠り所にしているのは夫であり、何があっても夫さえいれば大丈夫だと信じていた。


 息子はいつか私の元を去る事は分かっていた。

 だが、夫は間違いなくずっと私と一緒にいて、一緒に歳をとってくれるものだとばかり思って、それを疑う事はなかった。

 万が一にでも、夫が私の元から去る、あるいは死ぬという事があったら、私は死ぬしかないと本気で思っていた。


—— 神様は私から一番大事な物を奪ったんだ。私は何かバチが当たるような事をしたのだろうか……


そう思いながら、ひたすらベッドで横になった。




2.臓器提供


 あくる日になった。

 夫の容態はいつ急変するか分からない状態だと言われていたが、意外と落ち着いていた。

 そこで、着替えなどを取りに一旦自宅に帰ることにした。


 義弟の妻に車で送ってもらうことになり、自宅への帰り道の途中で大きなショッピングモールの横を通り過ぎた。

 そこはこの辺りでは一番大きなショッピングモールで、大きなフードコートなどもあり、地元では休日に家族で出かける定番中の定番の場所であり、私達家族もよくそこに買い物に来ていた。

 そのショッピングモールを眺めながら、もうこの場所に三人で来ることはないのかと思うと、改めて絶望感に襲われ、涙が出た。


 自宅に到着すると、母と姉が家に居て、掃除をしてくれたり、洗濯物を洗って干してくれたりしていた。

 私は母達に促されるままに風呂に入り、ベッドで休ませてもらった。

 私が寝ている間も、母と姉と義弟の妻の三人で片付けや掃除をしてくれた。


 その間にも、病院から電話がかかってきた。

 夫の友人達が面会に来ているが会わせても良いか、という問い合わせだった。

 もし会わせたくない人がいたら教えて欲しいとも言われたが、特に無かった。


 そして、夫の両親に夫の容態が落ち着いているので、自宅に戻っていると連絡すると、病院に戻る時に一緒に連れて行って欲しいと言われた。

 義母は元々車の運転をしないし、義父はその前の年に軽い脳梗塞をして入院して以来、長距離の運転を避けていた。


 昼過ぎになり、夫の両親を迎えに行ってから、皆で病院に向かった。

 車の中は意外なほど穏やかな雰囲気だった。

 夫が仕掛かっている仕事をどうするかや、棺を運ぶ和室にエアコンを取り付けたほうが良いかなどの話をした。

 こんな状況なのに、穏やかな雰囲気であるのがなんだか不思議な気がした。

 皆、まだ実感が湧いていなかったのかも知れない。


 病院に戻ると医師からまた説明があった。

 夫の容態は落ち着いていて、しばらくの間、心臓が止まる事はないが、いわゆる脳死に極めて近い状態であるらしかった。

 それから、いつまで人工呼吸器を付けているのか決めなければならないということや、臓器提供という選択肢があると言われた。


 その頃には皆、完全に夫の回復は諦めていた。奇跡は起こらなかったし、これからも起こらないのだろうということも皆が分かっていた。


 その後、皆で夫の病室に行き、夫を囲んでいる時、私は臓器提供についてどう思うか訊いた。

 私は、どのみち夫は助からないのだし、他の人を救えるのなら臓器提供をしても良いのではないかと言った。

 夫の両親は驚いたようだった。特に義母は簡単には受け入れられないようだった。


 私はハッとして、自分の意見を言う前に、もっと夫の両親の気持ちを考えるべきだったし、もっと慎重に言葉を選ぶべきだったと後悔した。

 夫の両親は夫を産み、育て、私の何倍も夫と時間を共にしてきたのだ。

 もし自分の息子が将来、若くして急に死んで、嫁が臓器提供しても良いと言ったら、どんな気がするだろうと思い、申し訳ない気持ちになった。


 それでも、私は臓器提供のことを前向きに考えていた。

 こんなに夫を失くすのが辛いのだから、他の人だって死にたくない、あるいは家族を失いたくないと思っているに違いない。臓器提供で救えるならいいじゃないかと思った。


 それに、夫が救急車で運ばれた時から今まで、どれだけ多くの人が夫を救おうと全力を尽くしてくれたことか。それをこれまで目の当たりにしてきたのだ。

 それが彼らの仕事なのだと言われれば、そうなのかも知れない。

 だが、恐らく夫の脳はとっくに死んでいるのに、ここまで無事に心臓が動き続けているのには、何か意味があるのではないかと思った。


 それに、臓器提供をすれば、その時点で死亡した事になる。

 だが、そうでなければ、人工呼吸器をいつ外すかを決めたり、人工呼吸器を外した後、弱っていく夫を側で見ていなければならないはずだった。


 夫の両親が迷っていたら、義弟が言った。


「俺は良いと思うよ。実は、俺は健康保険証の裏の臓器提供の意思を表示する欄に、全て提供するように丸を付けてある」


「今の若い人達はこういう事に抵抗ないのかしらね?」


 義母がつぶやくように言った。


 そして、夫の両親は最終的には妻である私が決断しても良いと言ってくれた。

 いざと言う時はこんなふうに言ってくれるのが夫の両親だった。

 但し、義母が顔だけは手を付けないで欲しいと言うので、眼球の提供だけはしない事にした。

 私が義母の立場なら同じ事を言っただろう。


 その日の夕方、医師に臓器提供をしたいという意思を告げると、急に動きが慌ただしくなった。

 まずは、夫の臓器が提供できる状態なのかを詳しく検査されることになり、夫はその検査の為に度々、病室から連れて行かれた。


 そして、夜遅くなってから医師より説明があり、夫の体は大変良好で、どの臓器も問題なく提供できる状態だと聞かされた。


 前日の夜は全く眠れなかったが、その日の夜は疲れて、夫の病室でぐっすりと眠った。




 翌朝、あるママ友が病院を訪ねてきた。


  彼女とは、子供同士が幼稚園の同じクラスで仲良くしていた。

 そして、彼女も五年ほど前に夫を心不全で急に亡くしていた。

 その後、彼女の子供達は別の保育園に移ったが、ママ友として交流はずっと続いていた。


 彼女は、夫が病院に運ばれた日の夜、他のママ友たちと一緒に病院に来てくれたり、その後も私に励ましのメールをくれていた。

 そして、彼女の勤めている職場がその病院に近いから、いつでも来られるということだった。


「私に手伝えることがあったら、何でも言ってね」と彼女は言った。

 彼女なら、今の私の気持ちを理解してくれているのではないかと思い、心強かった。


 午後になると、日本臓器移植ネットワークという組織の女性二人が会いに来た。

 いかにもそういった組織に相応しい、丁寧で腰の低い人達だった。


 私は心配していた事を二人に訊いた。

 まず、臓器を取り出してしまうと、夫がどのような見た目になるかということだった。

 葬儀までの間に、息子や訪ねて来てくれた人達が、夫の姿を目にするからだ。

 夫の両親もそれをとても気にしていた。


 二人の説明によると、臓器を取り出しても臓器の上にはそもそも肋骨があるので、お腹の辺りが不自然に凹んで見えたり等の変化は、ほとんど無いということだった。

 そして、臓器を取り出すために体をなるべく良い状態で保とうとするので、むしろ通常より綺麗な状態で家に帰されるそうだ。


 それから、一度、臓器を提供する意思を示しても、臓器を取り出す直前まで、いつ気が変わって臓器提供を取りやめても構わないし、提供される相手もその事は承知しているという事だった。

 私はそれらの説明を聞いて安心した。


 だが、一方で、私は少しずつ体調を崩し始めていた。


 私は二十年近く前からパニック障害を患っていた。

 そのため、強い不安や責任のある立場に立たされると、めまいや吐き気などがして、その場にじっとしていられなくなるのだ。


 臓器提供の説明の途中で気分が悪くなり、話を中断してもらって、しばらく待合室のような場所のソファーで横になった。

 そして、数時間後にまた続きの説明を聞き、なんとか最後まで聞き終えると、臓器提供に承諾をするサインをした。


 その後も親戚や友人などが度々訪れていたが、私は具合が悪くて応対が出来ず、病院のスタッフが来客に対応してくれた。そのスタッフ達の勧めもあり、その夜、私は病院には泊まらず、近くのビジネスホテルに部屋を取った。


 ホテルの部屋に入ってからも、臓器移植ネットワークから電話が入ったり、母や義母に状況を伝えるために電話をしたりと忙しく、夜十時過ぎまで夕食をとる時間も無かった。

 全く食欲が無かったが、近くのコンビニに行き、カレーを買ってきて食べた。

 こういう時はカレーがするすると喉を通りやすいことが分かった。



 翌朝、チェックアウトして病院に戻ろうとしたが、強い吐き気やめまいに襲われた。


—— まずい。とうとう始まってしまった……


 怒涛のようなパニック発作がついに始まってしまったのだ。


 こうなってしまうと、もうどうにも体が言うことをきかなかった。

 病院に戻らなければと焦れば焦るほど、体が震え、目の前が霞んできた。

 こうなってしまったら自宅に戻るしかなかった。


 泣きながら姉に電話をして、迎えに来てもらうことにした。

 病院にも電話をすると、夫の容態は安定しているし、その日は病状の説明などの予定は無いから、病院に戻らなくても良いと言ってくれた。


 家に帰ると、居間のウォークインクローゼットの隅に、夫のパジャマが転がっていた。

 その夫の匂いが染み付いたパジャマの匂いを嗅いで、抱きしめ、涙を流しながら、ソファーでしばらく横になった。


 しばらくして、姉に送られて息子が家に戻ってきた。

 息子は夫が倒れた日からずっと姉夫婦の家に泊まっていたが、私が家に帰って来ていることを知って、家に帰りたいと言ったそうだ。


 その夜は久しぶりに息子と一緒に寝た。

 息子は『やっぱりママと寝るのが良いよ』と言ってしがみついてきた。

 私は久しぶりに息子の匂いを嗅いで、気分が落ち着いた。

 やはり、臓器提供をして、少しでも早く家に戻り、息子と一緒に居なければと思った。


 翌朝、夫の両親と共に病院に行った。

 その日は一回目の脳死判定が行われる日だった。

 脳死判定とは、臓器提供に先立ち、脳波等を検査して脳が回復不能だと判断されることである。

 二度の脳死判定をして、完全に脳が死んでいると判断されてから、臓器摘出手術が行われる。


 それと同時に、臓器移植ネットワークのほうで、臓器を受け入れる患者とのマッチングも進んでいた。

提供する相手についての詳しいことはもちろん知らされないが、何十代の男性か女性かだけは最終的に知る事ができた。


 臓器提供が決まった途端、動きが随分と早いように思えるが、いつ夫の容態が急変するか分からないので、早い方が良いに決まっていた。


 臓器提供をする事が決まってしまえば、私も早く無事に済んで欲しかったし、私と居たがっている息子をこれ以上待たせたくなかったので、着々と事を進めてくれて構わないと関係者達に言ってあった。


 最終的に、心臓、肺、左右の肝臓、膵臓、腎臓が移植されることになった。

 事前に手渡された資料によると、それぞれの臓器は病院からタクシーで駅に向かい、新幹線で運ばれるか、空港から定期便で運ばれる。

 だが、心臓だけは救急車で空港まで行き、チャーター機で運ばれる予定だった。

 それだけ心臓の場合は急を要するのだろう。


 ネットで検索してみたら、臓器摘出から移植を完了するのに許される時間は、心臓が四時間、肺が八時間、肝臓が十二時間、膵臓や腎臓が二十四時間だそうだ。

 そして、他の臓器は心停止していても臓器提供が可能だが、心臓だけはいわゆる脳死状態でないと提供が出来ないという。

 ちなみに、飛行場で心臓が飛び立つところを見送るサービスもあると言われたが、希望しなかった。


 二回目の脳死判定は翌日の朝に行われ、完全な脳死状態だと判断されれば、その日のうちに臓器摘出手術が行われる予定になっていた。


 その頃になると、私のパニック障害の症状はどんどん悪くなっていた。

 臓器提供の前の最後の夜を、病室で夫と一緒に過ごすべきだったのかも知れないが、それも出来なかった。


 翌日も具合が悪くて、私は病院に行くことが出来なかった。

 臓器摘出手術に立ち会う事や、多くの人に囲まれる夫の通夜や葬儀の事を考えるだけで、激しいめまいや吐き気がした。

 それは、パニック障害の症状の一つの『予期不安』というもので、これから予定している事に不安を感じるだけでパニック発作が現れるというものだった。


 結局、臓器摘出手術には夫の両親と私の母、それから義弟夫婦が立ち会ってくれた。




  私のパニック障害は、三十歳頃に始まった。 私は当時、ハローワークの職業訓練を利用してCADキャドを学んでいた。

 CADとは、コンピューターで建築物等の設計図を書くことである。

 私は手に職をつけて就職するために、新しく開講されたばかりのその職業訓練に興味を持ち、学校で学んでいた。


 ある日、その授業中に突然、とてつもない寒気がした。

 そして、目の前が真っ白になり、一瞬、意識を失ってその場に倒れ、胃の中の物を大量に吐いてしまった。

 私はすぐにその学校の中にある救護室のベッドに運ばれたが、その後も激しい目眩や吐き気に襲われ、何時間も起き上がることが出来なかった。


 翌日、近くのクリニックを受診したが、これといって問題は見つからなかった。

 医師には『たまたま体調を崩したのでしょう』と言われ、点滴をされただけだった。


 その学校を一週間ほど休み、また授業を受け始めた。

 だが、『また具合が悪くなって、大勢の前で吐いて迷惑をかけたらどうしよう』と思ったら、本当にまた具合が悪くなり、すぐに帰宅した。

 だが、帰宅するとすぐに具合が良くなった。いや、帰宅しようとするだけで具合が良くなった。

 それ以来、学校に行くとあっと言う間に具合が悪くなり、帰宅するということを繰り返し、その職業訓練は辞めざるを得なかった。


 最初は外に出ると具合が悪くなり、自宅に戻ると具合が良くなったので、精神的なものだけが影響しているのだと思っていたが、次第に家にいても具合が悪くなるようになってきた。


 ある時は、夕食を食べようとした途端に具合が悪くなり、激しい吐き気に襲われた。

 またある時は、ベッドに入り寝ようとした時、全身を虫が這うような激しい寒気が襲い、起き上がった途端、目の前が真っ白になって一瞬気を失った。

 一度具合が悪くなると、何時間も激しい吐き気やめまいに襲われた。


 それ以来、不安でほとんど家から出る事が出来なくなった。

 実際に外出すると、ほぼ毎回具合が悪くなり、すぐに家に戻るということが続いた。


 そんな中で、なんとか這うようにして、いくつかの大きな病院に行って診てもらい、MRIやCTなどを撮って多額のお金を支払ったが、原因は分からなかった。

 当時、パニック障害は今ほど知られていなかったせいか、自立神経失調症の類ではないかと言われた。


 地獄のような日々が続いたが、数ヶ月経つうち、具合が悪くなる頻度が徐々に少なくなり、少しずつ日常を取り戻していった。

 だが、完全にパニック発作が出なくなるわけではなかった。

 最初のうちはまだ楽観的に考えていた。

 一時的なもので、しばらくすればいつの間にか治ってしまうのではないかと考えていた。

 だが、二十年以上経った今も完治していない。


 今まで色々な事を諦めてきたし、限られた生活をしてきた。

 だが、自分はそれほど不幸だとは思っていなかった。

 実家の飲食店で働き、地元をウロウロしている限り、大きな支障は無く生活することが出来た。

 そして何よりも、夫に出会い、幸せな結婚をして、子供にも恵まれたと思っていた。




3.葬儀


その翌日、つまり救急搬送されてから五日後に、夫は私が待つ自宅に帰ってきた。


 夫の顔はとても穏やかだった。

 顔色が少し黄色味がかっていたが、人工呼吸器を付けていた時の哀れな顔と比べれば、ずっと良い顔をしていた。

 病院のスタッフがなるべく生前の夫に近づくよう、時間をかけて顔をマッサージしてくれたそうだ。


 通夜と葬式の日取りも決まり、慌ただしく準備が進められていった。

 その間にも自宅に次々と訪問客が現れ、夫の顔を見ては泣いて帰って行った。

 だが、彼等が泣いている姿を見ても、私は涙一つ出なかった。

 人が亡くなっても、家族は忙しくて悲しんでいる暇もないと聞いていたが、こういう事を言うのだろうと思った。


 夫の家は分家で、まだどこのお寺の檀家でもなかった。

 だが、夫が急に亡くなったことで急にお寺を決めなければいけなくなり、夫の両親は、息子が通っていた幼稚園を経営しているお寺にお願いした。


 そこは、夫が救急車で運ばれた時に、『待ち合わせの場所に来ない』と電話をくれたママ友の実家のお寺だ。

 そのママ友の一家と家族ぐるみで仲良くしていたこともあるが、義父の会社がその縁で、そのママ友の家をリフォームさせてもらった事が大きな理由のはずだった。


 その日のうちに、そのお寺の僧侶である、そのママ友の夫が葬儀の打ち合わせに来た。

 そして、そのママ友と三人の子供達も一緒に来た。

 その夫婦には、息子と同級生の男の子の他に、上と下に女の子が一人ずついた。


「お世話になったご主人にお会いしたくて…… それから、子供達も一緒に行きたいというので、夫について来てしまいました」


 彼女はそう言い、子供達と一緒に夫の顔を見て涙を流した。




 通夜の日になった。


 その日の昼間、納棺式が行われた。

 納棺式とは、故人を棺に納める為の儀式である。

 家に来た納棺師達は、いかにもそれに相応しい、物腰が柔らかく控えめな男女二名だった。

 親族全員で立ち会い、一時間程かけてその納棺式は行われた。


 まず、白くて大きな布を一枚、夫の体にかけ、直接見えない状態で、夫が着ていた服が全て脱がされ、体全体が清拭され、そして白装束が着せられた。

 夫の体が死後硬直をしているにもかかわらず、白い布の下で、丁寧に、かつ手際良く行われるその様は感心するほどだった。

 夫の顔の黄ばみも、メイクで自然な顔色に修正された。

 そして、最後に親族からも清拭するように促された。


 まず、私が夫の顔を拭くために近づいて前屈みになった。

 そして、夫の頬に自分の左手を添えて、濡れたガーゼタオルで夫の顔をそっと拭き始めた。

 メイクで黄ばみがとれた夫の顔は、まるで息を吹き返したかのように生き生きとして見えた。

 私は手が震え、涙が溢れ、思わず夫に頬ずりをして大声で泣いた。


 夫が亡くなってから初めて大声で泣いた。

 そして、その場にいる皆もそれを見て泣いた。



 その日の夕方、通夜が始まる時間が近づくと、私は緊張し始めた。


 参列者は皆、若くして急に夫を亡くした私に注目するだろうと思った。

 それから、喪主の挨拶もしなければいけなかった。

 パニック障害を患っている私にとって、人々に注目されるのは最も苦手な状況であった。

 調子が良い時は何でも出来るのだが、一旦具合が悪くなり始めると、ちょっとした事にも反応して体調が悪くなってしまうのだった。

 だからといって喪主をしない訳にはいかなかった。

 不安な気持ちを抱えたまま葬儀場に出向いた。


 葬儀場の入り口に立って参列者を迎えたが、皆がさぞかし心配してくれているだろうと思い、なるべく明るく話しかけた。


 お経が始まると、焼香をしに来てくれた人達を見つめた。

 夫は交友関係が広かったせいか、会場に入りきらない程の人々が参列に来てくれた。


 葬儀が進むにつれ、私は少しずつ階段を下りるように、具合がどんどん悪くなっていった。


 お経が終わると、僧侶が神妙な面持ちで言った。


「私にとっても、故人は親しい友人の一人であり、このような形でお経を読ませていただくのは本当に辛い気持ちです……」


 その時、私に限界が来た。パニック発作が頂点に達したのだ。

 私は母に目配せをした。

 すると母は驚いた表情をし、もう少し我慢しなさいと言うように何度も首を振った。だが、私も『もう駄目だ』というように何度も首を横に振った。

 そして、とうとう私は母に抱きかかえられるようにして、大勢の参列者の脇をすり抜けるようにして会場を出た。


—— ついにやってしまった、恐れていた事を…… 皆がどんなに驚いている事だろう。


 私は葬儀場の控え室に連れて行ってもらうと、恥ずかしいやら、申し訳ないやら、情けないやらで涙が溢れた。


 喪主の挨拶は、私があらかじめ紙に書いて用意しておいた文章を義弟に代読してもらった。

 そして、会場へは戻らずに母とタクシーで自宅に帰った。

 結局、翌日の葬式にも出ることが出来なかったし、火葬場にも行くことも出来なかった。

 葬式の日は自宅で一日中横になって泣いていた。




 私と夫の出会いは、私が地元の青年会議所に入ったことがきっかけだった。

 実家が日本料理店を営んでいることから、ある時、毎年新年会などをしてくれるその青年会議所に誰かが入会しておいた方が良いということになり、当時、独身で時間のある私が入会することになった。


 その会員達は男性ばかりで、ほとんどが既婚者だった。

 私は女性とはすぐに打ち解ける方だが、男性だと何を話したら良いか分からないタイプだったので少しためらいもあった。

 でも、入会すれば何とかなるだろうと気軽な気持ちで入会した。


 だが、いざ男性達の中に入ってみるとどうして良いか分からず、私だけ皆から浮いている気がした。

 そんな中で私に積極的に話しかけてきてくれて、親切にしてくれたのが、のちに夫となるK男だった。


 K男は私が配属された委員会の委員長であり、既婚者で、二歳の子供がいた。

 当然、お付き合いするような相手としては見ていなかったが、話しやすくて、面白くて、頭が切れるK男に、他の会員達とは違う興味と親近感を抱いていた。


 青年会議所に入会してから三ヶ月ほど経った頃、あるイベントにその委員会が協力することになり、その説明会に私とK男の二人で参加した。

 そして、その帰りに二人でお茶を飲みながら、そのイベントについて話をしていた。


 すると突然、「良かったら、またこんなふうに二人で会いたい。付き合って欲しい」とK男が言った。

 私は驚き、眉をひそめた。


—— 既婚者のくせに、この男はいったい何を言ってるんだろう。私に愛人になれと言っているのか。こんな人だとは思わなかった。そもそも青年会議所というのはそういう人達の集まりなのか……


 私は訳が分からず、眉をひそめたまま、しばらく黙り込んでいた。

 すると、K男は焦った顔をして言った。


「ああ、ごめんなさい。突然変なことを言って…… 実は、誰にも言ってなかったんだけど、俺は離婚してバツイチなんですよ。それを先に言わなきゃいけませんでした。あなたみたいなに人に二度と出会わないんじゃないかと思って、思わず言っちゃいました」


 それで納得した。

 それまでにも『ひょっとして私に気があるのかも』と思うK男のそぶりが何度かあったのだが、そういう事だったのかと思った。


 そして、お付き合いが始まった。もちろん、周囲には黙っていた。

 後にK男から聞いたが、私と二人きりになるために私をそのイベントの担当にして、二人でその会議に出席したそうだ。


 付き合い始めて三ヶ月後には、K男に結婚しようと言われた。


 正直、嬉しいとは思わなかった。むしろ困惑した。

 まだ付き合い始めたばかりだったし、K男は離婚したばかりのはずだった。

 それに、もっと様子を見る時間が欲しかった。

 だが、K男は私が二つ返事で承諾するものだと思っていたのか、返事を訊きもしなかった。

『責任をとってちゃんと結婚するからね』という口調だった。


 私は数日間、困惑していたが、しだいに思い直した。

 K男はバツイチだったが、魅力的で、会っていると毎日楽しかった。

 三十四歳の私に、これ以上の贅沢があるだろうかと思った。

 それに、そもそも、結婚なんてものは勢いが必要であって、考え過ぎると永遠に出来ないものなのではないか。

『まだ早いからもう少し待ってくれ』などと言っていたら、お互いの気持ちがいつすれ違うか分からない。

 相手がその気になってくれているのであれば、思い切って結婚したほうが良いのではないか。そんなふうに考えた。


 それに、今までお付き合いはしたことがあっても、結婚まで話が進んだことが無かったので、積極的で強引なK男の気持ちが嬉しかった。


 前妻との離婚原因については、性格の不一致や、前妻が口うるさい事や、K男の両親と仲良くしてくれなかった事などを挙げていたが、私は深く追及しなかった。

 K男はあまりその事に触れて欲しくない様子だった。


 それに、私はプロポーズをされて、ただただ浮かれていた。

 私達は出会ってから約一年後にスピード結婚をした。


 周りはK男が離婚していたことすら知らなかった人が多く、驚いていたようだった。

 私の両親や姉は、K男がバツイチである事が気にならないわけではなかったようだ。だが、三十代半ばの娘なのだから、贅沢は言ってられないし、もう自分の責任で結婚すれば良い、と思ってくれたようだった。




 結婚生活は幸せだったと思う。


 最初は六畳二間の古いアパートに住んでいた。

 夫は前妻との間の子供の養育費を払っていたが、二人で働いていればお金には困らなかった。

 私達の間に子供はなかなか出来なかったが、その代わりに自由で楽しい時間がたくさんあった。


 その頃の夫との楽しい思い出を挙げたらキリがない。

 結婚当初はほとんどテレビを点ける必要がないほど、二人であれこれ語り合った。

 夫と会話をするのが毎日、楽しくて仕方がなかった。


 夫は美味しいものや雑貨が好きで、週末になるとよく二人で買い物に出かけた。

 夫は特に食べる事が大好きで、太り気味でもあったのだが、お気に入りの韓国料理店やタイ料理店に行き、二人でお酒を飲み、近くのビジネスホテルに泊まったりすることもあった。

 夫は東京に行くのも大好きで、半年に一度は二人で東京に遊びにも出掛け、美味しいものを食べたり、買い物を楽しんだ。

 美味しい物を食べた時の、『うーん』と言って目をつぶる夫は、本当に幸せそうだった。


 お互いに全く不満が無いわけではなかったと思う。時々、喧嘩もした。

 だが、喧嘩を長く続けることもなく、必ずその日のうちに仲直りをしていた。

 周囲からは『いつまでも新婚みたいに仲が良いね』と言われていた。


 夫は全くイケメンではないし、背が低くて、ポッチャリしていた。

 だが、頭が切れて、頼り甲斐があって、器用で、知識も豊富で、アイデアがあって、行動力があって、そして面白い夫は私の自慢だった。


 夫は青年会議所の活動を驚くほど精力的にこなしていた。

 テレビのスーパー戦隊風の地元ヒーローを企画し、ヒーローが身に付けるマスクなどを手作りしたり、ショーのシナリオを作ったり、音楽や音声を編集したりした。


 その他にも、灯りをテーマにしたイベントを企画運営した。

 そのイベントは年々盛り上がりを見せ、各団体や、地元の商工会議所とも連携して、地元の一大イベントとなっていた。


 私達は不妊治療を五年ほど続けたのち、やっと男の子を授かった。

 夫は『子供は無理に要らないよ。二人で仲良く暮らしていければそれで良い』と言ってくれていたが、やれる事を全てやった上で、諦めようと思っていた私を理解してくれ、色々と協力してくれた。


 子供が産まれると、一軒家を建て、移り住んだ。

 息子が幼稚園に入ると、同じクラスのママ達と仲良くなった。

 晩婚で、しかも何年も子供に恵まれなかった私は、他のママ達よりもずいぶん年上だったが、それでも、ママ達が仲良くしてくれてとても嬉しかった。

 私はママ友達やその子供達を我が家にしょっちゅう招いた。

 次第にパパ達も仲良くなり、皆でバーベキューをしたり、集まって飲んだりした。

 とてもとても幸せな幼稚園生活だった。


 しだいに夫とは、最初の頃のような恋愛感情は薄れ、なんでも夫を頼って、夫に相談してばかりの時期は終わり、私は私自信が興味のある事に時間を使うことが増えていた。

 でも、長年夫婦をやっていればそういう時期が来るのは当然の事で、お互いの趣味や時間を尊重できれば良いと思っていたし、夫のことは相変わらず人間として、パートナーとして大好きだった。

 息子が大きくなって家を出て、二人きりになれば、また関係が変化したり、恋愛感情を超えた人間同士の、あるいは夫婦の絆のようなものが築かれるものだと思っていた。

 よく見る老夫婦のように、寄り添って歩いたり、一緒に旅行などに行くのを楽しみにしていた。


 その夫が急死するなど、まるで悪い夢を見ているようだった。


—— やはり、私は何かバチが当たるような事をしたのだろうか……


 だが、バチが当たるような事をしていたのは夫のほうだった。


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