19/灯台元暗
この世には、明かしきれない闇がある。明かしてはならない闇がある。
世界に光が必要であるように、世界に闇は必要だ。
闇がなければ光は成らず、光がなければ闇は成らない。
灯台の元が暗いのは、灯台がその闇を引き受けてくれているからだと、私は思う。
海をどこまでも照らす、光の道しるべ。光を世に放ち、闇を飼い慣らす。
そんな存在が、《私達》だ。
この世に必要な悪を引き受ける。誰かがやらなければならないことなのだ。
必要悪という、闇を。引き受ける役目。
それは、決して日の目を見ない所業だろう。人知れない所業だろう。ある日誰かが、「お、頑張ってるな」なんて誉めてくれなんかしない、けれどそれは……そんなことを求めてするようなことではないのかもしれない。
私達は、それでいい。
私は、闇というものを見誤っていた。分かったつもりになっていた。
それの本当の恐ろしさと、それから強さを。私は、誤解していた。
知識だけを身に付けて、知ったつもりでいた。
実際に触れてみて思う。ああ、これが闇か。
暗く、深い。そして引き込まれそうになる。
そして美しい。それは本当に美しい。
私は心のどこかで、《彼等》を知ったつもりになっていたのだろう。一から百まで、徹頭徹尾、分かったつもりになっていたのだろう。
その恐怖を肌身で感じて初めて、《彼等》は完結するというのに。完成するというのに。
本当に、愚かしい。
結局、私は……知りたかっただけなのかもしれない。分からないものに、手を入れてみるような、子供のような気分で……間違いを犯したのかもしれない。
そうしたら、火傷した。余りに熱くて、手を引っ込めた。
馬鹿みたいだ。怪我しなきゃわからないのは、痛い目をみなければ気付けないなんてのは、私が未熟だったからだろう。
間違えたのなら、それを忘れて進むしかないと、彼は言った。
こんな私に、言ってくれた。
それは本当にそうだと思う。彼の言うとおりだと思う。
取り返せない失敗は、次のステージで取り返すしかない。
挽回できないミスは、忘れて次に進むしかない。
後悔という行動に、少したりとも意味が皆無のように……。既に過ぎ去った過去を悔やむのは、本当に無意味だ。
けれど、だけど。
間違いから何かを学ぶことが、間違っているとは、私は思わない。
後悔するのではなく、反省することに、意味はある。
今回の件で、私は間違った。どうしようもなく間違った。取り返しようもなく、誤った。
だとしても、だ。私は後悔していない。間違ったとは思っていても、道を間違えたとは思っていない。
彼に出会えた。彼を知れた。彼と交えた。彼に、救われた。
私は本当は、誰かに救ってほしかったのかもしれない。無意識の内に、そう願っていたのかもしれない。
彼のような存在を、待っていたのかもしれない。
図々しい話だ。万に一つも救えない。余すことなく滑稽だ。浅ましく醜悪だ。
有りもしない救いの手を、存在しない助けを求めて……私の手は空を切るばかり。
虚しく空を切るばかり。
だったはずなのに、彼は現れた。有り得ないはずの、存在しないはずの救いだった。
彼をずっと、待っていた。
私は、彼を待っていた。
こつこつと、こつこつと。硬い地面に、ハイヒールが当たるような音。
断続的にそれは繰り返され、もう一つ……それにはもう一つの足音が追従している。
こちらは革靴のような無機質な音。それにはまるで、主の後ろに付き従うかのような、主従関係の窺える感覚での二人分の足音だった。
一人の後ろに、もう一人。譲るような間を空けて、もう一人。
「……ふう、自分の父親に会うだけで、どうしてこんなに気を使うんだろ」
「それも仕方のないことでしょう。旦那様は、天童の頂点でありますから。財閥の頂点でありますから」
「サクラさんまで、そんな定形句を言うの? あの人だって、一応は人間なんだよ。人間で、人の子なんだから。そして人の親なんだから」
「……お嬢様は、考え過ぎなのでは」
かつかつと、音は続く。続き続ける。二人分の音。
「考え過ぎにもなるよ。考えも無しに付き合えないってば。あの人は、頭の中で思考を絶やすべきではないって、いつも言うでしょ。聞き飽きたけどさ。考えない人間は信用できないって思ってるみたいだから」
こっちの思考なんて、お見通しだよ多分。
彼女は、全て分かっているというような……その人間について知らないことは、知っていることを下回るなんていうような風に、言った。
「……自分にも他人にも、厳しい方ですから」
「厳しいというより、あれはストイックっていうか……殆ど病気に近いよ。まあそれ程に外れていなければ、狂っていなければ……務まるような立場ではないけれど」
常人には、とても耐えられない。常人には、とても務まらない。
そして私も、人のことを言えるような身ではないのだ。
「ねえサクラさん。私ってやっぱり、普通じゃないかな」
そんな、否定が前提の……質問。
「……普通がいいのですか。お嬢様は、普通をお望みなのですか?」
「…………」
エプロンドレスを身にまとう、彼女の大切な存在は言う。
「普通という二文字は、言うほどに楽ではありませんよ。言うほどに楽しいだけではありませんよ。お嬢様は、そう悲観することはないと思います。それに……」
これは言いたくなかったというような、あまり乗り気ではない表情を浮かべながら。
「お嬢様が普通のどこにでもいる一人の少女だったのなら、《彼》には出逢えなかったでしょう?」
「…………うん、そうだね。そう、だね」
胸に手を当て、目をつぶる彼女。今はいない誰かを、思い出す彼女。大切にしまってある大切な人の記憶を、出して眺めるような。
普通ではないかもしれないが、彼女は女性として……女性らしい女性である。
大切な感情を、宝石のように大事にする。
世界中に今を生きる彼女達と、何一つ変わらない。
普通であるかないかなど、今はもう気にしない。気にならない。
もういいのだ。そんな小さなことは、些細なことはもう忘れた。
私は《天童》で、《天童アカリ》だ。
私はここにいる。
彼も、どこかにいる。
きっと、また人知れず何かと戦っているのだろう。この世の釣り合いをとる為に。
見えない敵と、相対しているのだろう。
……また別の女の子に変なことされてないといいけど。
私のこと、忘れないでよね。
絶対追いついてやるから。
一つの大層な、両開きの扉の前についた。開けることも躊躇われるそれに、彼女は視線を向ける。
「……あ~あ。やっぱりやめようかな。怒られるとか、説教されるとかっていう、次元の話じゃないよ。勘当されるか、謹慎処分か……まあそれも楽でいいかもしれないけど」
「覚悟はあるのでしょう。どんな罰を受けようとも」
「まあ、ね。前に進まなきゃ、だからね」
彼女は諦めたように、それとも決断したかのように……その手を両扉にかけた。
私はこれから、この中にいる魔王と闘わなければならない。そして勝たなければならない。
それは世界と戦う次に大変なことだけれど、私はもう決めたのだ。
前に進むと。彼の待つところへ、追いつくのだと。
その為ならば、どんな苦労も厭わない。
強く扉を開いた。ガチャリという無味乾燥な音。私はその中へと、最初の一歩を踏み出す。
……end