第六話 粛清皇帝
舞踏会8日目。
その日は昼間からずっと、貴族たちは何やら異様な空気を感じていた。
理由は分からないが、一部の貴族が何やら浮足立っている。それに釣られるようにして、何も知らない者もまた落ち着かない気持ちになる。やがて貴族たち全体が、何やら正体のわからない高揚感に包まれていたのである。
そしていよいよ舞踏会が始まるという場面になって、一人の貴族令嬢が皆の前に出てきた。
「皆さま、ごきげんよう。ボウケイノ公爵が娘、ヒルデですわ。今日はこの場をお借りして、どうしても皆さまにお伝えすべきことがありますの」
するとそこへ、不機嫌そうな顔をした皇帝が姿を現す。
「ヒルデ。流石に目に余るぞ。控えよ」
「いえ陛下。これは皇后候補の選定に関わる、非常に重要な案件です。皆さまのいるこの場で、ぜひとも事実を明らかにせねば。帝国の行く末に関わります」
無慈悲な粛清皇帝を前に、一歩も引かないヒルデ。その姿に、集まった人々は冷や汗をかきながら事態を見守っていた。
「……お前がそこまで言うのであれば、本当に重大な案件なんだろうな。いいだろう、話せ」
「ありがとうございます。ではさっそく、陛下に許可をいただきましたので……アレを持って参れ!」
ヒルデがそう告げると、ほどなくして三名の使用人が、それぞれ豪華な木箱を抱えて現れる。一体何を持ってきたんだ。人々が固唾をのんで見守っていると。
「陛下。まずは一つ目の木箱を開いてください」
ヒルデに言われるがまま、皇帝は使用人の持っている木箱の蓋をそっと持ち上げて、中に入っているものを確認した。
一体何が入っているんだ。ざわざわと話す貴族たちが、身を乗り出して自分も自分もと覗き込もうとする中で。
皇帝は、静かに呟く。
「……パンツだ」
その一言が、まるで凪いだ水面に広がる波紋のように、貴族たちの脳へと浸透していく。
パンツ。皇帝はパンツと言ったのか。
今、この場で正常な思考を出来ている者は非常に少なかった。なにせ眉間にしわを寄せ、深刻な表情を浮かべた皇帝の口から出た言葉が「パンツ」なのだ。これを一体どう受け止めれば良いのか。即座に答えを出せる者はほぼいなかった。
「陛下。ぜひそのパンツをお手にとって」
「あ、あぁ……これは。白いフリフリの、可愛らしいパンツだな。なかなか凝った作りをしている。このようなパンツを穿く者は、普段は強く立ちふるまうが、内面には柔らかい心を抱えた純真な乙女であろう。なんともいじらしい。高評価だ」
「評価しろとは言っておりませんわ」
ガタリ。
人々が音のした方に目を向けると、そこでは侯爵令嬢ハンナリセが真っ青な顔をして、倒れそうになりながらガタガタと震えていた。
「さぁ、陛下。そのパンツは誰のものですの?」
「カーネモーチ侯爵家の家紋が刺繍されている。名前については……ハンナリセ、と縫い付けてあるな」
「あら。おかしいわね。それはわたくしの配下の騎士が、一晩の逢瀬を楽しんだ令嬢から受け取った“両思いの証”のはず……ハンナリセさんの貞操観念は、一体どうなっているのかしら。ほら、前にいらして」
名前を呼ばれたハンナリセは、フラフラと前に進み出る。そして、ヒルデをキッと睨みつけた。
「……貴女がパンツを盗んだのね」
「往生際が悪い。もうネタは光っているのよ」
「ネタ……っ! 光っ、じゃなくて」
「あらあら、まともに反論もできないようね。いつものよく回る毒舌はどうしたのかしら? 貴女の尻軽が露呈するのは想定外だったのかしら。ふふふ、おかしいわねぇ、青くなったり赤くなったり」
ハンナリセはプルプルと震えながら、目に涙を溜めている。
それを見ている貴族たちには、彼女の気持ちが手に取るように良く分かった。自分よりも爵位が上である貴族が「ネタは光っているのよ」なんてドヤ顔をしていたら、笑えもしないし指摘もできない。
「さぁ、陛下。二つ目の木箱を開いてください」
ヒルデに言われるがまま、皇帝は次の木箱の蓋を持ち上げて、中に入っているものを確認した。
何だ何だ、一体何が入っているんだ。自分の爵位すら忘れたように、貴族たちは周囲の者と話しながら、身を乗り出してなんとか箱の中身を見ようとする。そんな中で。
皇帝は、静かに呟く。
「……いちごパンツだ」
その一言が、まるで乾いた大地に降り注ぐ雨のように、貴族たちの脳へと吸収されていく。
いちごパンツ。いちごパンツと言ったのか。
今、この場で事態をまともに受け止められる者などほとんどいなかった。なにせ残虐なことで知られる粛清皇帝が、真面目な顔でこぼした言葉が「いちごパンツ」なのだ。笑えばいいのか怒ればいいのか、どんな反応をするべきなのかを貴族たちは決めかねていた。
「陛下。ぜひそのパンツをお手にとって」
「あ、あぁ……これは。いちごの柄がたくさん入った可愛らしいパンツだな。安っぽくはない。むしろ、いちごへの愛を強く感じる。このようなパンツを穿く者は、人の評価よりも自分の“可愛い”を追求したい天真爛漫な乙女だ。いっそ清々しい。高評価だ」
「評価しろとは言っておりませんわ」
ガタガタ。
音のした方へ人々の視線が集まる。
「あーそれ、ワタシのデス!」
精霊神殿の高位神官であるニャッキは、ずんずんと前に出て、皇帝とヒルデの前に堂々と立つ。
「ふむ……たしかに精霊神殿の紋章と、ニャッキという名前が縫い付けてあるな」
「あら。おかしいわね。それはわたくしの配下の騎士が、一晩の逢瀬を楽しんだ令嬢から受け取った“両思いの証”のはず……ニャッキさんの貞操観念は、一体どうなっているのかしら」
ヒルデがそう言っても、ニャッキはニコニコと笑顔を浮かべるばかりだ。
「ヒルデさん。貴女は、神に誓って自分が正しいと宣言できるデスか。胸を張れるデスか。貴女の残りの人生を、罪悪感に苛まれることなく、自分自身の行いを誇って生きていくことができるデスか」
「…………当然じゃない」
「そうデスか」
ニャッキはひとつ頷くと、すぐ横にいるハンナリセ……震えている彼女の手を取って、その肩を抱く。その姿は人々の目に、まるでおとぎ話の聖女のように尊いもののように映った。
「さぁ、陛下。三つ目の木箱を開いてください」
ヒルデに言われるがまま、皇帝は最後の木箱の蓋を持ち上げて、中に入っているものを確認した。
今度は何だ、一体何が、どんなパンツが入っているんだ。貴族たちは派閥の垣根を乗り越えて、周囲の者とあれこれ話しながら、身を乗り出してなんとか箱の中身を覗き込もうとしている。そんな中で。
皇帝は、静かに呟く。
「……紐だ」
その一言が、まるで砂漠を彷徨ってたどり着いた小さなオアシスでようやく見つけた泉の水のように、貴族たちの脳へとダイレクトに叩き込まれた。
紐。紐パンツではなく、紐と言った。
今、この場で冷静に思考できている者などほとんど存在していなかった。なにせ貴族たちの腐敗を一切許さず、即位から三年、常に厳しく立ち振る舞っている我らが皇帝陛下が、険しい表情で漏らした言葉が「紐」なのだ。それはいったいどういうものなのか。そもそもパンツなのか。貴族たちはそのモノを脳裏に思い描けないでいた。
「陛下。ぜひそのパンツをお手にとって」
「あ、あぁ……これはパンツなのか。いや、紐ではあるが一応パンツの形状をしているのだな。大切な部分は守られている。これは、布面積を最大限に減らす工夫と考えて良いだろう。このようなパンツを穿く者は、何かを極限まで突き詰める求道者だ。人として尊敬できる人物だろう。高評価だ」
「評価しろとは言っておりませんわ」
ガタリ。
人々が音のした方に目を向けると、そこでは帝国軍元帥の娘である剛力令嬢アヤメが、茹でダコのように真っ赤になった顔を両手で隠しながら、何やら身悶えていた。
「さぁ、陛下。そのパンツは誰のものですの?」
「ふむ。この剣と槍の紋章は武家特有のものだな。名前は……アヤメ、と縫い付けてあるな。すごく細いところに小さく縫い付けてある」
「あら。おかしいわね。それはわたくしの配下の騎士が、一晩の逢瀬を楽しんだ令嬢から受け取った“両思いの証”のはず……アヤメさんの貞操観念は、一体どうなっているのかしら。ほら、前にいらして」
名前を呼ばれたアヤメは、顔を隠してモジモジしながらゆっくりと前に出てくる。
「アヤメさん。弁明はあって?」
「違う、違うんだ。普段はもっとちゃんとしたやつを穿いてるんだよ。でも母上が、父上を誘惑するのに有効だったって言うからぁ……万が一、陛下が夜這いに来たときのためにと思ってぇ……だって、こんな皆の前で大公開されるとは思わないからぁ……」
「そういう話ではなくてよ?」
顔を隠したままついに蹲ってしまったアヤメのもとに、ハンナリセとニャッキは慌てた様子で駆け寄ると、その背を優しく撫でる。
そんな姿を横目に見ながら、ヒルデは胸を張って堂々と宣言した。
「地方貴族派筆頭の侯爵令嬢ハンナリセ。神殿派の中心人物である高位神官ニャッキ。軍閥派イチオシの剛力令嬢アヤメ……彼女たちが揃いも揃って、貞操観念に問題ありというこの状況」
ヒルデの言葉に、貴族たちはハッとする。
「陛下。皇后候補の選定については、もう一度考え直した方がよろしいのではありませんか?」
そう、ヒルデはそれが言いたかったのだ。
貴族たちは考える。
そもそも、都合よく各派閥の三人の美姫のパンツが、同時に流出することなどありえるのだろうか。この状況で最も得をする人物……つまりはヒルデこそが、彼女たちのパンツを秘密裏に入手して、この状況を仕立て上げたのではないかと。
剣呑な空気が流れる会場。
そこで、口を開いたのは皇帝であった。
「確かに、これは問題だな」
「えぇ、そうです――」
「皇后候補の選定どころではない。これは帝国という仕組み、皇帝という権威への明確な反逆であると私は考えている。これは国家の根幹を揺るがす、非常に重い問題である。黙って見過ごすことはできん」
皇帝の言葉に、ヒルデの表情が固まる。
彼女が予想していた以上に、皇帝は冷たく荒々しい空気を身に纏っている。まるでこれから、貴族たちの虐殺でも始めてしまうのではないか……そう予感させるほど、皇帝の表情は危うく見えたのだ。
「大規模な粛清が、必要だな」
――粛清皇帝。
誰の口から漏れた言葉か。貴族たちは本能的に逃げ出しそうになる身体を理性で無理やり抑えながら、ガチガチと歯を鳴らし、全身に立つ鳥肌から必死に目をそらして状況を見守っていた。