第4話 洗って返してあげましょう。
昨夜はリサが寝てから、もう一度標的を殺しに行こうかと迷ったが、不思議とやる気が削がれてしまい、結局朝を迎えた。
超一流暗殺者“王都の影”に目をつけられたことを知ったんだ。おそらくもう標的は雲隠れしちまっている頃だろう。暗殺は失敗。まあ、依頼人に前金を返せば済む話だが。
目覚めと同時に中央教会の方を向いて祈りを捧げ、顔を洗おうとキッチンに向かうと、何やら凄まじい音が聞こえた。
慌てて駆けつけると、足下に転がった大鍋と、飛び散った根菜や水を見下ろし、呆然としている小娘がいた。
「……」
どうなってんだ、ありゃ。完全に動きを止めちまっている。
リサはダボダボの俺のシャツを着ていた。袖も裾も余りまくっていて、下は素足だ。
なかなかどうして、くる格好だ。本人には口が裂けても言えんが。
飛び散った水は、彼女の足にまでかかっていた。
ああ。理解した。どうやら鍋の柄が、余った袖に引っかかっちまったらしい。
「……」
しかし動かん。彫像か。想定外の出来事に、脳が静止したらしい。
やっぱぽんこつだな、こいつ。
俺は仕方なく、丁寧に刻まれたあげく無残にぶちまけられた哀れな野菜たちに手を伸ばした。
「火にかける前か。火傷しなくてよかったな」
「わたしの心配より朝食の心配でしょ!」
いや、あれ? 俺がおかしいの? 普通逆じゃない?
「気にすんな、ぽんこつ。このくらい洗えば食えるし、水ならいっぱいある」
「う、うん、ごめん。調味料入れる前でよかった。あと呼び方はリサで」
はっと気づいたように、リサもしゃがみ込んで野菜を拾い始めた。意図せず彼女の頭部が近づき、俺はこっそりと顔を覗き見る。
やはり、やたらと整っている。同じ生物だとは思えん。
「朝食を作ってたのか」
「タダで居候は悪いもん。これでも一応生活魔法程度なら使えるから、炎晶石代くらいは節約できるしね」
うちのキッチンのコンロは炎晶石仕様だ。月に一度くらい、魔術師による晶石への魔力の充填が必要になる。むろん有料だ。
うらやましいね、魔術師は。ちょいと魔力を一般人に与えるだけで金になるんだから。こっちゃ危険な橋を渡りまくってるってのに。
だが、どうやらリサにもそれができてしまうらしい。素晴らしい節約だ。魔術師なんて滅多にいない希少な存在だというのに。
「どやあ! 役に立つでしょ?」
「おお~」
しかし、やたらと量が多いと思ったら俺の分もか。朝は食わない主義なんだが、口に出すのは少々無粋か。子供にゃ甘いんだ、俺は。
いや待て。それ以前に気になる言葉があったな。……居候?
「ところで、リサはいつまでここにいるつもりなんだ?」
「いやあ、えっへっへ。帰ろうにも、こちとら無敵の記憶喪失でして」
そういう設定だったか。くそ。
無敵ってなんだよ。設定なんだからおまえ次第だろ、それ。
「見回り騎士の詰め所まで送ってやる。似顔絵でも描いてもらえば、すぐに見つかるだろ」
「ちょ、ちょっと待って! それは……ヤダ……」
意外な反応だった。
かなり焦っているように見える。まるで後ろめたいことがあるかのようだ。昨夜の俺のようにな。ちなみに仮面を外した俺は善良な市民だから、騎士どもに顔を見られたところで痛くも痒くもない。
ああ、だが。
リサを見回り騎士の元に送ったとして、彼女にそこで「仮面の男の家で一晩過ごしました」と言われてしまうと、騎士団に“王都の影”と平民ヴァン・クロフトをつなげられてしまう恐れがある。それは困る。
リサがハッと顔を上げた。
「わたし、言っちゃうかも。ヴァンの仮面のこと」
「……」
弱みを顔に出したつもりはない。だが、リサは正確に俺の心を読んだようなことを言った。
さて、どう見るか。
リサの記憶喪失が嘘だとして、彼女が俺を“影”であると疑っているとしたら、この揺さぶりは極めて有効だ。事実、俺は彼女を見回り騎士に引き渡すことができなくなってしまった。
だが同時に、それはリサにとって大きなリスクでもある。俺が暗殺者“影”であると知りながらその脅迫をすることは、自身の命を賭け台に乗せたようなもんだ。ずいぶんと割に合わない賭けだ。
とはいえ、この賭けはリサの勝ちだ。
組織時代には善人も悪人も殺してきたクソみたいな人生だったが、子供だけは殺せなかった。命令に背くことになってもだ。昔も今も、それは変わらない。その一線を破ったとき、俺は神に祈る資格さえ失うだろう。
とりあえず、仮面については流すことにした。
「やましいことでもあるのか?」
「そういうわけじゃ、ないけど……」
リサが目を伏せる。視線から逃れるように。
何にせよ、見回り騎士は俺にとっても後々の面倒になりそうだ。
「教会の児童施設ならどうだ?」
「だめだめ。わたし、もうそんな子供じゃないから。十五歳じゃ、どっちみちすぐに追い出されちゃう。もうすぐ誕生日だもん」
他の国は知らんが、このグラント王国では十六歳で成人扱いとなる。
児童施設には頼れそうもない。それ以前に。
「名前は忘れたのに、生年月日と年齢は覚えてるんだな」
「……ぅ!?」
リサが頭を抱えて天を仰いだ。
か~っ! しまったぁ! という声が聞こえてきそうな表情をしている。なかなかどうして、味のある顔だ。
「たぶん、たぶんだから! ほら、記憶喪失でも無意識下で正しいこと言っちゃうことってあるじゃない! そっか~、わたしの誕生日ってもうすぐだったんだぁ! あはっ、あはははっ!」
眼球がすごい勢いで揺れている。怖い。嘘をつくのが下手だな。
「そうか。おめでとう」
「うわぁ~ん」
しかしやはり記憶喪失は嘘だったか。
昨夜、俺を殺す機会をわざと与えてみたが、リサは何もしなかった。いや、謎の誘惑はされたが、少なくとも俺が過去に遂行してきた暗殺の復讐だとか、そういった類のものではないらしい。
こちらの命に危険はない。世間様から変態扱いされる危険性はあるが。いまんとこ、まだギリで子供だからな。
個人的には、あと三年経ってりゃあなあ。惜しいなあ。とは思う。
「お願い、ヴァン。なんでもするから追い出さないで」
なんでも、ね。
ようやく野菜を拾い終えたリサが、鍋を抱えてテーブルに置いた。俺は床を拭きながら吐き捨てる。
「わかったから、子供がそんなことを言うな。聞くだけで気分が悪くなる」
「いいの?」
「ただし、一緒に住んでいることは誰にも秘密だ。守れるか?」
社会的な死んじまうような状況だけは、なんとしても免れたい。
俺にとっては、何なら実際の死よりもつらい。めっちゃつらい。夜は仮面の暗殺者、昼は少女好きの変態仮面とか、もはや目も当てられん。一日の大半が異常者じゃないか。
「もちろん! 守る守る! 置いてくれる?」
「仕方なくだからな」
「やった!」
王都が孕む危険は“影”だけじゃない。
非合法組織である暗殺者ギルドや、表向きはまともに見せてリーリクードの花を初めとした薬物も取り扱っている商会連合もある。
それでなくとも治安が悪いのだ。夜を歩くだけで魍魎が手招きするくらいにな。
現王ガディ・イスパルの目には、王都中央に位置する貴族街以外は見えていないらしい。おかげで貧富の格差は広がる一方で、平民以下は日々の暮らしで手一杯だ。職にあぶれりゃゴロつきも増える。だから夜は特に危険だ。
そんな街に行き場のない子供を追い出すってのは、さすがに気が重い。ましてや「なんでもするから」なんてバカなことを口走ってしまうアホタレだ。
「ただし、仕事は探せ。それが軌道に乗って順調に回るようになったら、今度は一緒に貸部屋を探してやる」
「うん。え? それって、以降も一緒に住むってこと!? もう夫婦じゃん!」
目を輝かせて何を抜かしているのか、こいつは。
「アホか。なんで家持ってる俺がそっち移る前提なんだよ。寂しければ自分で所帯を持つか、若い恋人でも作りゃいいだろ。おまえさんならすぐだ」
「すぐ! すぐって言った! それってさ、ヴァンから見てもわたしは美人ってことだよね? ね?」
美人だとは思っていない。かわいらしいとは思っているが。
それにしても思考がポジティブだ。うらやましくなるね。
「ねえ、ヴァン。今日はお仕事お休み?」
一瞬、口ごもった。
「……ああ。まあ、そんなとこだ。しばらくは休暇だな」
「あーっ、もしかして失業中だったり? 無職中年? 犯罪の温床?」
おまえのせいだよっ!? 犯罪の温床は合ってるけどな……。
しかしまた生活を切り詰めねばならんとは。おまけに食費は二人分だ。泣けるね。
ま、組織にいた頃のように仕事を選びさえしなければ、いくらでも収入は増やせるんだが。それでももう、善人を殺すのはごめんだ。神さんに言い訳できなくなっちまう。
「個人業だよ。シーズンオフでな」
「そうなんだあ」
知ってんじゃねえのかよ? 俺が暗殺者ってことには、本当にまだ気づいてないのか?
聞きたいが、当然聞けない。相変わらず本心が不明だ。
「じゃあ今日、お買い物付き合って?」
「買い物?」
「ほら、服とか色々、ね。しばらくここを拠点にするなら必要でしょ」
そういや、ダボダボの俺のシャツを着せていたか。
太ももあたりまでは隠せているが、そこから下は素足だ。
んん? んんんん?
俺は額に片手をあてた。
「……念のために尋ねるが、リサ。おまえ、まさかその下……」
「あ、下着? ヤダなあ、もちろんつけてるよ」
「だよな。安心した」
「何想像してんの! もー、ヴァンのすけべ!」
ペシンと、リサが俺の肩を叩く。
「悪い。年頃の娘に変なこと聞いちまった。まったく、俺ってやつは」
「あはっ、気にしないでっ。ちゃんとヴァンの下着借りたからっ」
「そうか。それならいい。……おいっ!?」
俺の!? 俺のパンツ穿いてんの!?
「クローゼットのものは使っていいんでしょ? ちょっと緩いから落ちないように腰のあたりを紐で縛ってるんだ」
「いや、俺は別にかまわんが、おまえ……」
「仕方なかったの。ごめんね、洗って返すから。――あ!」
唐突に言葉を止めたリサが、伏し目がちに俺に尋ねてきた。
「もしかして、ヴァンは洗わないで返した方が嬉しいタイプ?」
こ、このガキ……。
俺は蚊の鳴くような声を絞り出した。顔面を引きつらせながらな。
「そ……んな……タイプでは……ない……」
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