第26話 やっぱり一緒に行きたい。
背筋に悪寒が走った。呼吸さえ忘れるような震え上がりそうになるほどの恐怖など、いったいいつ以来だろうか。
本能が告げている。勝てない。逃げろと。
額から滲んだ汗が目に入る。だが瞬きさえできない。した瞬間に死ぬ。
ダニエルもだ。俺と同じく、ただ険しい顔でガディ・イスパルを睨んでいるだけで、魔術はおろか軽口さえ叩けていない。動けば死ぬ。少なくともこのときの俺たちは、そう思い込んでいた。
ガディ・イスパルが枯れ木のような、それでいてとてつもない長さの右腕をゆっくりと持ち上げる。あの大きさの掌ならば、人間をわしづかみにするくらい簡単だろう。
――頭を垂れよ。
頭蓋の中で大音量の声が反響する。魔術だろうか。耳を通さず直接脳へと叩き込まれているかのような痛みと不快さだ。
脳の痛みが眼球にまで影響を及ぼすのか、やつが声を発するたびに視界が微震で歪む。
俺に魔術は理解できない。才能がなかったからだ。だが、持ち上げられた掌から、異様なまでの魔力の高まりだけは感じられた。
必死に己に言い聞かせる。
避けろ、避けろ、避けろ! 何をしている!
竦みそうな足を拳で叩く。早く。早く。
俺もダニエルも動けぬ中、たった一つだけ動いた影があった。そいつは俺たちとガディ・イスパルの間に立って、両手を広げて立っていた。
リサだ。
いつものあの声で、しかし毅然とした口調で、彼女は王を見上げて告げる。
「我が王。この者らがあなたを害するほどの存在であるとは到底思えません。おそらく誤認のすえにわたしを連れ戻しに参ったのでしょう。わたしは贄となり、喜んであなたに命を捧げましょう。ですが、それまでしばしの猶予をお与えください」
重苦しい緊張感が、場を支配していた。
ガディ・イスパルの腕がゆっくりと下がる。それでも感情のない落ち窪んだ目は、油断なく俺たちへと向けられたままだ。
「リサ! おまえ何を――」
「何を言っている! クラリッサ!」
俺じゃあない。俺がリサの言葉を遮る前に、ダニエルが絶叫していた。
先ほどまでのニヤけ面とはまるで別人の形相でだ。
こんなときなのに俺は思った。
そもそもこいつら、どういう関係なんだ?
ダニエルはリサの正体を知っていた。最初から。
リサがキッと俺たちを睨みつけてきた。
「ヴァン! お父さま! こんなところまで何をしにきたの!?」
「ふざけんな! 何しにきたっておまえそんなもん決まっ――ん? ……おと……ッ!?」
俺はダニエルとリサへと交互に視線を向ける。
はわ、はわわわわ……。
ダニエルが汗だらけになった顔面を俺へと向けた。
「クラリッサの父のダニエル・ファン・ヘルデン公爵だ。娘が世話になったそうだね。十年前のことも知っている」
「…………あどーも……」
ダニエルが両手を広げて肩をすくめる。
「な? こういう雰囲気になるだろ? だから言わなかったんだよ。ヴァン・クロフトくん」
「いや、言えよ! そこは一番大事なことだろ!?」
なるほど。なるほど。
これは背中から刺されても不思議じゃなかった。王に媚びるためにも、娘の父としてもだ。俺が思っていた以上に裏切りの可能性は高かったようだ。もうなさそうだけどな。
ダニエルが歯を剥く。
「言って娘を救うための刃が鈍ったらどうするんだい!?」
「だからそりゃどういう意味だよ! おめえの子でも助けるに決まってんだろーが!」
ダニエルが泣きそうな顔で叫んだ。
「色々すっ飛ばしてキミがすでに娘と関係を持っていたとしよう! そこでキミは将来的に私を父と呼べるかね? ほとんど同い年のオッサンだぞ?」
先ほどとは別の理由で寒気がした。
「死んでも嫌だねェ!!」
「な?」
「納得した。だがだからといって見捨てるわけねえだろ、アホ公爵が」
「そういうところ、嫌いじゃないよ。我が息子よ」
パチンと公爵がウィンクをした。
ぞわぁ……。
「誰が息子だぶっ殺すぞテメェ!」
「それ言うの普通は私の方なんだけど。あと、うちの娘は昨日まで未成年だったんだけど」
「ふたりともいい加減にして!」
リサに叱られた。
確かに。何やってんだ、俺たちは。
だが、いくらか緊張がほぐれたように思える。ダニエルもニヤけ面が戻ってきた。他人をからかうことで復活する精神力の、なんと浅ましいことか。
「ヴァンもお父さまも、帰って。わたしは自ら望んでここにいるんだから」
「なんで?」
俺とダニエルの声が重なった。動じに顔をしかめる。
リサの表情だけが鉄仮面のように変わらない。
「イスパル王は永遠の命と大いなる力を手にした後、グラント王国のみならず、すべての世を平和に導くことを約束してくださったの」
「それで?」
「……私の命は無数の他人の命の上に成り立ってる。私という贄をたったひとり作るためだけに、どれだけ多くの犠牲が出してきてしまったことか」
ダニエルが叫んだ。
「クラリッサ、それはおまえのせいじゃない! 私が王をお止めするべきだったのだ! それができなかったから、こんなところにまできてしまった! おまえのせいじゃない! それに見ろ! 私は自由の身となった! 私のために犠牲になろうとしているならそれこそ無駄死にだ!」
なるほど。
ダニエルにはリサを人質に、リサにはダニエルを人質にして、両者ともに動けなくしていたのか。おそらくリサの母でダニエルの妻にあたる女性の安全もだ。
だが、リサの視線はダニエルにはなかった。
俺だ。リサは俺を見ていた。
「私の言っていること、ヴァンならわかるでしょう? 暗殺者“王都の影”として、何百、何千もの命を奪って生きてきたあなたなら……」
胸の奥が痛んだ。
俺は……。
俺は何も言い返せなかった……。
リサが自身の胸に手を当てた。
「それを王に浄化してもらうの。罪も穢れも全部食べてもらって、この汚れた命を使って、たくさんの綺麗な命を育める世の中を産むんだよ。そしてイスパル王は永遠の神になるの。こんな神さまもいないような世の中は、今日で終わる」
重苦しい沈黙の中で、リサの声だけが静かに通っている。
「わたしね、しばらくヴァンを見ていてわかったんだ。罪からは逃れられないんだって。だってヴァンは幸せになろうとはしなかった。自分で自分に罰を与えるような生き方をしてた。十年前にわたしを助けてくれた暗殺者は、誰からも、自分からさえ、救われていなかった。あなたやわたしを救ってくれる神さまは、いなかったんだよ、ヴァン」
ああ、そうか。
この事態を招いたのは、俺か。
俺がリサのすべてを受け容れていれば、リサも自分の幸せを求めて歩み出せていたかもしれなかった。なのに俺は己を罰することばかりを考え、幸せを求めようとはしなかった。今日この場にいるリサは、俺自身の鏡だ。
彼女と再会したあの夜、リサは俺の正体を知った上で俺自身がどうやって生きているかを見にきていたんだ。そして彼女はいま、己を罰しようとしている。俺と同じように。あの生活で、俺がそう見せてしまったからだ。
俺とは違って、本当の意味での罪などひとつも犯してはいないのに。
ダニエルが囁く。
「どう答えればいいか、正解は明白だ。この場限りの嘘でもいい。恨みはしない。頼む、ヴァン・クロフト。娘の命はいま、キミの言葉にかかっている」
わかってる。たとえ俺とダニエルがガディ・イスパルを倒して彼女を取り戻しても、リサは以降の人生でもうきっと自らの幸せを求めはしないだろう。俺と同じようにひとりで生き、どこかで誰にも看取られずにひっそりと死んでいく。
血で錆びた真っ赤な鎖が、俺の前身には巻き付いている。殺してきた亡者どもの鎖だ。重く、重い。俺はそいつを引きずりながら歩いてきた。
同じものがリサにも絡みついている。俺よりずっとずっと多くだ。リサ自身の姿が見えなくなるほど何重にも。
さぞや苦しんだことだろう。己の身など省みれぬくらいに。
我知らず、うつむいていた顔を上げる。
俺はもう間違わない。だから言う。
まっすぐにリサを見つめて。
「ど~~~~~~でもいいや。帰って飯にしようぜ」
「……」
リサが眉をゆがめたあと、苛立ったような半眼になった。
まあそうだろうな。だが、うやむやにしたり誤魔化したりするつもりはない。
だから俺は頭を掻いて、視線を背けた。
「んでまあ、唐突にアレなんだが……駆け落ちの話でもしようや。俺やっぱこいつを父親呼ばわりしたくねえし」
瞬間、リサの目が大きく見開かれる。
言っちまったよ。これでもう後戻りはできそうにない。
「とある村の青年から誘われてんだ。疲れてんなら畑でも耕さないかってな。そこに限らずだが、まあ、その……おまえも一緒にくるか、リサ?」
リサの顔が大きく歪んだ。
くしゃくしゃに歪み、目を閉じて、瞼の隙間から大粒の涙をこぼす。そうして喉から絞り出すかのような切ない声で、彼女はこう言った。
「………………行きたい……ヴァンと生きたい……っ……ほんとは……死にたく……ないよ……」
その言葉をリサが発した直後、それまで大樹のように黙って突っ立っていたガディ・イスパルが動いた。
王城ごと揺るがすような咆吼を上げ、全身から膨大な魔力を立ち上らせ、巨大な掌を叩きつけるようにリサへと振り下ろす。
「リ――ッ」
俺もダニエルも出遅れていた。まさか目の前の俺たちを無視してまで、リサを喰らうことを優先するだなどと、考えもしなかったからだ。
だが、巨大な掌がリサを叩き潰す直前、長い枯れ木のような腕は不自然に静止してした。
「こっちだ、クラリッサ」
若い男の声が響く。
そいつは玉座の背後から突然飛び出してきた。
頭が混乱する。いつものように黒ずくめに覆面はしているが、出ている特徴的な細い目だけでわかる。
「それともリサちんの方がいいかな?」
「カケイ!?」
どこから侵入したのか突然カケイが現れ、王の眼前に立っていたリサを疾風のようにかっ攫って俺たちの位置に着地した。
「お、おまえ……!?」
「質問は後だよ、オッサンズ。その前にこいつを仕留めるのが先だ」
リサを俺たちの背後に押し込み、カケイが二本のクナイを抜く。
ガディ・イスパルは腕を振り下ろしかけた体勢のままだ。まるで何かに絡まっているかのように肉体を動かそうとしては引き戻されていた。
「鉄糸で腕と玉座を繋いだ。玉座はフロアに固定されている。よほど鋭い刃じゃなきゃ切れないし、簡単には動けないはずだ。いまのうちに一気にたたみ掛け――」
だが次の瞬間、ガディ・イスパルは大地を揺るがす咆吼を上げると、強引に腕を振り切った。
わかるか? 振り切ったんだ。
鉄糸によって肉や骨の切断される音が響き渡り、ガディ・イスパルの血液が雨のように降り注いで、その足下に血だまりを作り出す。
腕が。千切れた腕だけが、鉄糸に絡まって宙にぶら下がっていた。
ダニエルが絞り出すような声でつぶやく。
「……絡繰りのある手品の類だと思いたいね……」
ガディ・イスパルは肘から先を失いながらも怒りの咆哮を上げ、遙かなる高見から俺たちを睥睨する。
次の瞬間、千切れた腕が肉の盛り上がりによって再生し始めた。傷口はあっという間に塞がり、ガディ・イスパルの右腕は再生する。
「……まるで悪夢だねえ……」
最後にガディ・イスパルは宙にぶら下がったままだった自らの腕をつかみ取り、口内へと放り込んだ。ぐちゃり、ぐちゃり、音を立てて咀嚼する。やつの唇の端から、肉片や血液が飛散した。
カケイがいなければ、あの腕の代わりにリサが喰われていたと考えると、空恐ろしい。
ダニエルだけじゃない。腕を奪った本人であるカケイもまた、呆然とつぶやく。
「……さすがは魔王ってとこか……」
俺はカケイに尋ねた。
「魔王? やつは魔族ってわけじゃないだろ?」
魔王とは魔族の王のことだ。間違っても人間は魔王にはなれない。
カケイがうなずく。
「正真正銘、人間だよ。妄執がガディ・イスパルを魔王へと進化させるんだ。俺はそれを阻止するために異世界から召喚された転移者だ。リサちんを喰らえば、やつは名実ともに魔王になってしまう。正しくは同等の力を持ってしまう。そうなったらもう手遅れだ。誰もやつを倒せない」
「アホ抜かせ。喰らった生物の力を得られるなら、人間はとっくの昔に無敵の生物になってたはずだ」
俺とカケイの会話に、ダニエルが割り込む。
「それを可能にするのがリーリクードというわけかね?」
「そゆこと。永遠の命は得られないけど、力の方は限定的にでも手に入ってしまう。もうガディ・イスパルをただの人間だとは思わない方がいいよ。グラント王国王宮魔術師ダニエル・ファン・ヘルデン公爵殿」
王宮魔術師!?
カケイがそう呼ぶと、ダニエルが苦々しい表情を見せた。
「おやおや。暗殺者ギルドのマスター殿は、ずいぶんと事情通のようだ」
「おっと……」
「やかましいぞ。おまえら、立場上の諍いなら後にしてくれ」
俺はナイフを構える。
リサの涙と言葉のおかげだろうか。
心に炎が宿った。
恐怖など消し飛んだ。
体内から力が湧いてくる。
負ける気がしねえ。
こいつを殺す。
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