第2話 やるなと言われたらやりたくなる。
隠れ家はいくつか持っている。
その中でも居住に耐えるのは二カ所だけ。暗殺者としての俺の道具などを隠している外縁のボロ屋と、一般人のヴァン・クロフトとして王都中層の平民街に正規で購入した、何の変哲もない家だ。
むろん、正体を隠したい俺はヴァン・クロフト邸に彼女を案内する他なかった。というか、振り切れなかった。
腰を曲げて壁に手をついた状態で、俺は息も絶え絶えに尋ねた。
「……ぜぇ……は……、……ぜぇ……、おま……なんでそんな……ッ……足速いの……」
ショックだ。まさかプロの暗殺者である俺が、こんな小娘に追いつかれてしまうとは。
「覚えてないよ。記憶ないもん。でもオジサンもすっごく足速いんだね。途中振り切られるかと思ったよ。体力はあまりないみたいだから、頑張ったら追いつけちゃったけど。ふふ、だって失速するんだもん。呼吸の音、変になってるし」
俺は少女を見て思った。
まだまだ元気そうだ。たばこ、やめよかな。
「ふー……。こっちゃ年食ってんだよぉ!?」
いけねえ。声がうわずってしまった。俺のダンディなイメージが崩れてしまう。
もう走れない俺は観念した。振り切る自信がない。
仕方なく、連れ帰ることにした。こんなとき公的存在に頼れないのが、裏稼業のつらいとこだ。
騎士どもの見回りルートをさりげなく避けて、夜の平民街を歩く。ようやくたどり着いた我が家のドアを開くと、テコテコと少女が歩いて先に入った。
俺は唇をねじ曲げて皮肉を言い放つ。
「……危機感死んでんなァ。のこのことまあ、無防備なこった」
「なんか言った?」
「聞こえるように言ったつもりだが。無防備すぎるって言ったんだ。年頃なら警戒はした方がいい」
「あれ? もしかして警戒が必要な人だった? いい人のクロフトさんは、若い娘がお好き?」
名前。表札を見たようだ。
案外、抜け目がない。冷や汗かいちゃうね。まったく。
「いやそれ、本人に聞くなよ。どう応えろってんだ」
「だったら本人に言わないでよ。襲われちゃうのかな~って思ったじゃん。あ。もしかしてわたしのこと意識してる?」
ひゃあ~と謎の感嘆を上げて、少女が頬を両手で挟み込む。
俺は皮肉に満ちた表情のまま、また吐き捨ててやった。
「無意味な質問だと思いますがねえ。嬢ちゃんは昨日今日会ったばかりの他人の言葉を、そのまま鵜呑みにできるのかい?」
「わあっ、クール」
暗殺者だからな。いちいち頭を沸騰させてたら、命がいくつあっても足りん。なんてことを言えるわけもなく。
後から入って、テーブルのランプに火を灯す。
ぼんやりと広がった灯りを頼りに、壁のランプにも火を灯していく。最新式の魔導灯なんてシャレたもんはない。ただの油ランプだ。
天井は煤けるが、これはこれでよい匂いが漂うから好きなんだ。花の油なんかがおすすめだ。こんなオッサンが言ったところで気持ち悪いだけな上に、魔導灯なんて高級品を買うだけの金がない男の負け惜しみなんだが。
「おお~。いい匂~い。ご家族は?」
「見ての通り、しがない独り身だ」
「わあっ、やっぱりわたし、襲われちゃう?」
「楽しそうな顔で言うなよ。だぁ~から警戒しろっつったんだ。嫌ならどうぞご自由に出てっていいんだぜ。――何ならおまえを家族にしてやろうかッ! うへへへへぇ!」
怖がらせるつもりで言ったんだが、少女は親指を立てた。
「あ、それいいね」
「いーんだ……」
「ここに住んでもいいってことだよね?」
「いや違う。断固違う。さっきのはナシだ」
暗殺者が嫁もらって子供こさえてどうすんだっつー話だ。そんなことはまともな人生を歩めたやつがすればいいこと。
俺はため息をついて話題を変えることにした。
「ランプの匂いに反応するってことは、おまえ、貴族街の出身だろ。普段から魔導灯を使えるやつらなんて貴族さまぐらいのもんだ。そうだろ?」
「だから覚えてないんだってばっ。記憶喪失。たぶんだけど」
記憶喪失ね。まじで言ってんのか、こいつ。信じるかよ。年頃の娘ってのは面倒だって感想しか出てこねえ。ただの家出だろ、どうせ。
「クロフトさんこそ貴族かと思った」
「ヴァンでいい。なんで俺が貴族だと思ったんだ?」
少女が俺の顔を指さす。
「仮面つけてんじゃん? 舞踏会の帰りなのかなって。でも平民街だから平民さんだ」
「はっはっは! そりゃあ、当てが外れたな。いまから哀しいことを言うが、よく聞けよ。盗まれたり集られたりするほどの金は、この家をひっくり返したって出てこねえぞ。ざまぁみろだ」
自虐が過ぎた。言ってて情けねえ。後悔した。
少女が首を傾げた。
「……泣いてる?」
「泣いてねえわ! とにかく金ならねえから! 嫌ならいつでも出てってどうぞ?」
「別に貴族だからついてきたとかじゃないもん。わたし、ヴァンのこと結構好きだよ。正直そうだから」
正直どころか、やっばい感じの嘘ついてんだが。平民どころか、死罪が数十回は適用されるくらいの手配犯だからな。
長衣を椅子の背もたれに投げかけ、仮面に手を伸ばして外すのを躊躇った。いま現在、名乗っている本名はバレてしまった。同時に“影”としての俺の姿もだ。
表と裏、両方の情報を握られている。
彼女の言動は、まるで俺を“王都の影”と疑っていないと、見せかけているかのようにも取れる。それに少女が一般人なら、“影”と知って自宅に転がり込むようなことはないはずだ。
俺は何気なく彼女を見つめた。
「……やだ、照れるぅ……」
頬を染めて、もじもじしている。かわいいな。
「やかましいわ。勝手に照れんな」
「だってヴァンの視線が熱いんだもん」
まさかその姿、その若さで騎士団の回し者とも思えないが。警戒するに越したことはないだろう。
無邪気な笑顔が不意に曇る。
「あ。もしかしてその仮面、火傷や傷跡隠しだった?」
「そういうわけじゃない」
隠しているものは犯罪だ。もっとヤバいもんだから。
「そっかっ。よかった~っ。無神経なこと言っちゃったかと思った」
よくないぞ。そしておまえは間違いなく無神経だ。あっても図太い神経が背中に一本ズドンと通っているだけだ。きっとそうだ。
まあ、俺を“王都の影”と疑っているとしたら、のこのことこのヴァン・クロフト邸に上がり込んでくることはないだろう。ただのぽんこつ娘だ。
そう結論づけた俺は仮面を取って、テーブル上に投げた。
今度は少女の方が俺をしげしげと見つめてくる。濁り一つない無垢な視線でだ。
視線が、視線が、若い娘の視線がこそばゆい。
「ほ~。へ~。ふ~ん。うふふ」
「……よ、よせやい、照れるだろぅ……」
「わあっ、照れ方キモカワ~」
バカにしとんなァ。ちょいちょいバカにしてきよんなァ、小娘ェ。
「ところで嬢ちゃんの名前は?」
「名前!」
何を思ったのか、少女が自身の姿を確かめるように腕を上げて脇を覗き込む。次に修道服の首許を両手でつかみ、胸を覗く。
俺は尋ねた。
「何してんの?」
「うん、どっかに書いてないかな~って。可能性があるとしたら残りは一カ所だけど、殿方の前じゃ恥ずかしくって確かめらんない。――ごめん、ちょっとの間だけあっち向いてて」
前屈して修道服の裾を両手でつかんだところで、俺は慌てて彼女を制した。
「おい、やめろ。殿方の前だけじゃなく、後ろでもそれはダメだ」
「でも横だと見えちゃう」
とんでもねえ小娘だ。ノーガードが過ぎる。俺に変な性癖があったら、もう完全に襲われてるぞ。
「下着に名前を書いてもいいのは三歳までだと、このグラント王国の法律ではそう決まっている。グラント王ガディ・イスパルの名において、三年前に施行された法律だ」
「決まってたんだぁ。へえ。名前書いてたら逮捕されちゃうのかな」
もちろん嘘だ。信じるとは思わなかった。
「とりあえず、俺はおまえをなんて呼べばいいんだって話だ。わからんなら、別に本名でなくてもいい」
「そう?」
そもそも俺の本名ヴァン・クロフトも、適当に自分でつけたもんだからな。そういう意味じゃ本名ってのは正しくないか。要するに、王城の行政に登録している名前、だ。
「そうだとも。とにかくいますぐにスカートから手を放せ。こんなところをご近所さんに見られでもしたら、俺は明日からお天道様の下を歩けなくなる。それは社会的に死んだも同然だ。もはやリビングデッドだ」
「はあ……」
ピンときてなさそうな顔をしている。ぽんこつめ。
「いいか、おまえが俺を社会的に抹殺するつもりでどこかの組織から送り込まれてきた暗殺者じゃあないなら、いますぐスカートの裾をつかんでいるその手を放せ。絶対にめくり上げるんじゃあないぞ」
「でも、でも……。……やるなと言われたらやりたくなる……」
こいつ……。
「そうかわかった。じゃあ、好きにしろ」
「うん」
「やっぱやめろッ!?」
超一流の暗殺者が変態の罪で社会的に殺されるなどと、冗談にもならん。
ようやく納得したらしく――いや、最初から彼女なりのジョークだったのかもしれんが、少女はスカートから手を放した。
人差し指を頬にあてて、挑発するように笑う。
「呼び方かあ。じゃあ~、“姫”とかどうかなっ。わたしにぴったりっ」
満面の笑みで貴族を飛び越えやがったな。
「わかった。勝手についてきたから~、“野良犬”だ」
「はあ~~ん、やだぁ~」
少女が嘆いた。
「じゃ~あ、えっとぉ、リサって呼んで?」
「上等な名前だが、どこから引っ張り出してきた?」
俺の質問に、自称リサが視線を斜め上に向けた。
「……なんかそんなふうに呼ばれてた気がする……?」
「そうか。記憶を思い出したわけではないんだな」
「うん。ごめんね」
俺は懐から紙たばこを取り出して、揺れるランプの火を移す。紫煙を燻らせてから、今夜は一人ではないことを思い出し、窓際まで歩いて開けた。窓枠に両腕をついて、ゆっくりと吐き出す。
ぼんやりと濁った煙が、夜空に広がって消えた。
不思議と夜風が心地いい。仕事をした日の夜はいつも、紙たばこの臭いで満たした部屋で眠る。こびりつく血の臭いは、流水でも、ランプ油の匂いでも消せないからだ。
……この夜はリサのおかげか。
「記憶喪失が嘘じゃないなら、いちいち謝る必要はない」
「わあ、渋~い。ヴァンってば、いちいち言うことが格好いいね」
ニヤニヤニヤニヤ。半笑いでバカにしとんなァ。これ絶対バカにしとんなァ。俺のこと。
でも格好を褒められて悪い気がしないのが、中年男の哀しい性だ。くっ。
得意げに言ってしまう。努めて低く渋い声で。
「くっくっく。そうだろう?」
「あははっ。本心だよ。家に上げてくれてありがとね」
今夜は星が綺麗だ。
俺は彼女の記憶喪失というバカげた言葉を鵜呑みにしてやることにした。
次話は明日の夕方あたりに更新予定です。
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