第14話 その切実さは笑っちゃだめ。
嫌になるねえ。
「あ~あ、帰ってきちまったかあ~……」
平民街をぐるりと取り囲むように張り巡らされた深めの用水路は、王都外を流れる天然の川から水を引いて造られた境界線だ。
無造作に置かれただけの板の橋を渡れば、そこはもうスラムになっている。
「はぁ……」
いつ来ても、饐えた臭いが漂っている。
小便と、人の垢と、少しばかりの血。それらが腐り、こびりつき、そして混ざり合っているんだ。
これでも衛生は少しマシになった。
なんせ中央教会がスラム全土に下水を通すまでは、得体の知れん疫病が流行っていたくらいだ。死体も結構転がってた。
ちなみにその教会だって、スラムの民を思って慈善事業で施したわけではない。税収のための平民街への、引いては自分たちの住む貴族街への疫病の流入を恐れただけだ。
建前はなんであれ、それでスラムが多少救われたことは確かだ。
王都を取り囲む高い防壁と平民街の建造物に阻まれて、一日の大半が陽の当たらない影の地には、建造物とは到底呼べないバラック小屋が、平民街との隔たりに流れる用水路沿いに集中して建てられている。
「……」
それらからは視線を感じる。いくつもの視線だ。物乞いのものもあれば、敵意を感じるものまである。平民街とスラムの境界線には、こういった視線が特に多い。
まあ、慣れたもんさ。こんなでも故郷だから。
俺は胸いっぱいに饐えた空気を吸い込み、ため息交じりに吐き出した。血管に腐った酸素が行き渡れば、自然と気も引き締まる。ここは安全じゃあない。
バラック小屋の前の通りを歩いていく。石畳なんて上等なもんはない。砂利道だ。それも泥濘んでいる。靴が汚れる。
「おめぐみください……」
小さな女の子が俺の長衣を引っ張った。リサの半分も生きてないだろう。痩せ細り、ボロ布のような服を着ている。彼女の物乞いを合図にしたように、そこかしこから子供たちが出てきた。
「うへえ~……」
あっという間に四方八方を取り囲まれた。
「なにかください」
「へいみんさま、どうか、どうか」
「おなかすいたよぅ」
「ちょうだい」
「こっちをみて」
「きれいな石とこうかんして」
「おさないこどもは、すきですか?」
腰のナイフはあらかじめ、胸用の鞘へと移しておいた。抜きづらいから好きじゃあないんだがね。
でも、ここじゃ強引に振り払いでもしない限り、ガキどもに持ってかれちまう。そんなことができるわけないんだよなあ。こいつら、親に売り飛ばされる前の、昔の自分だもん。
俺は苦笑いを浮かべて両手を挙げ、口を開く。
「わかった。わかったから。ちょっと離れてくれ。石はいらない。カラダもだ。――フ、いい女に成長するまで、その貞操は大事に取っとけ」
格好をつけてみたのに、こいつら他人の話は一切聞かない。
どいつもこいつも離れやしないし、口々に好き勝手抜かしやがる。あげく長衣のポケットに勝手に手を入れ始めた。
「ちょうだい、ちょうだい」
「ちょ、おい、やめろ――あひっ、誰ぇぇっ!? いま俺の股間をまさぐったやつ! ぶっ飛ばすぞてめえ!」
「……ひん、ごめんなさい……」
ぼさぼさ頭の女の子が泣きそうな顔をした。
「あ、怒ったわけじゃないからね? ごめんね? でもカラダはいらないって言ったでしょ――って言ってる側から誰だ!? 尻ならいいってわけじゃねえんだよ!? って、おめえ男じゃねえか!」
「あ、ボクはどっちもいけますので」
「やかましいわ!」
仕方ねえ。身を切る思いで懐に手を入れ、小銭を取り出す。
これだけは使いたくなかったんだが。
「よ~し、これを見ろガキども!」
一瞬で子供たちの目の色が変わった。ちなみに全部、グラント王城と“50”の数字が刻まれた銅の硬貨だ。あらかじめ紙幣を崩し、用意してきた。
額が違えばガキどもは奪い合うために殺し合うかもしれない。数が足りなければ争いが発生するだろう。“1”や“10”の硬貨をもらっても、何も買えねえ。そんなことを考えながら用意したものだ。
目算で、いま俺を取り囲んでいるガキどもに行き渡る枚数は超えていそうだ。
「ちょうだい! ちょうだい!」
「ほしい! はやく!」
「やかましい! 欲しければ並べ! 全員分はある! なんせ俺の三日分の食費だからな! いいか、ひとり二枚ずつまでだからな! 焼きたてのパンでも買いやがれガキども!」
俺は努めて明るく言い放った。笑いながら。だって泣いちゃいそうだもの。懐ぴゅうぴゅう。
わあああ、と明るい歓声が上がった。
仄暗く沈んでいたガキどもの表情が、一斉に花開く。
「並べ! 並ばんやつにはやらねえからな! おい、そこ! ひとり一回までだ! 後ろに並び直してもバレてるからな! もらったら即散れ! しっし! 俺だって仕事を小娘に邪魔ばっかされてて、毎日金に困ってんだからな! 余分に集るんじゃない! 言ってて哀しくなってきたわ、ハハハハハハハ! 平民にだって貧乏人は結構いるんだぞ! なんで金配ってんの、俺!? もう笑うしかねえわ! ハーッハハハハハハ!」
「あはははは」
「きゃははは、おもしろ~いっ」
「カオまっか、なみだ目だあ」
イラァ……。
俺は必死の形相で怒鳴ってやった。
「笑うなぁぁぁ!?」
しばらくして、ようやく全員がはけた。なんかちょっと楽しかった。気が晴れた。
ガキは好きだ。
金を配った後も、なんだかんだとついてこようとするもんだから、困っちまったよ。ろくな教育を受けてきていないあいつらは、簡単に懐くからな。野良の子犬みたいなもんだ。
だからこそ彼らを狙って商会連合が誘拐し、変態貴族どもに売られてしまう。昔は商会連合ではなく、旧暗殺者ギルドがガキをさらって売っていた。
売られたガキの運がよければまともな使用人になれるだろうが、運が悪けりゃ使い捨ての性奴隷だ。俺のように暗殺者になるケースは、ほぼほぼ実例がない。
最初の殺しは覚えていない。けれども、おそらく。
そのときだった気がする。
そうだ。その現場を目撃した暗殺者ギルドの先代マスターが、俺を使えるガキと踏んで変態貴族に売り飛ばすことをやめ、こうして暗殺者として育てた。
「……」
これまでは誰も傷つけることのない奴隷の方がマシだと思っていたが、リサを救うための力を与えられたと考えれば、こんな人生にも多少意味があるってもんだ。だから彼女を助けるまでは、殺した数と救う数の命の引き算は、しばらく忘れていよう。
さて、と。
平民街との境目さえ越えりゃあ、もう物乞いはいない。そらそうだ。スラムの奥深くで物を乞うたところで、誰が誰に何を与えられるんだって話で。
あとは危険にだけ気をつけりゃいい。
俺は胸の鞘を取り外し、腰に巻き直す。やはりこっちの方が抜きやすい。
しばらく歩き、ようやく目的地にたどり着いた俺は、十年ぶりにスラム端にある廃墟を見上げた。
城というには薄汚いが、暗殺者業界にとっては城であり聖域でもある。これが暗殺者ギルドだ。ちなみに内部は外観通りではない。廃墟とは呼んだが、まったく廃れてなどいない。
本拠地があるのは、廃墟の地下だからだ。
もちろん騎士団もそれは知っている。それでも行政はギルド解体には動かない。それで得られる利益に対し、危険が高すぎることを知っているからだ。
暗殺者ギルドってのは、何も王都だけに存在しているわけじゃあないんだ。
非合法でありながらグラント王国の地方都市はもちろんのこと、グラントという国家さえ越えて、周辺諸国にも存在している。
その組織力を総合すれば、一国にも相当すると言われているんだ。つまりグラント王国は、暗殺者ギルドの報復を恐れている。
そりゃあさ、そんなことを一切知らずに、旧マスターをさっくり暗殺しちまった俺の賞金額もバカ上がるよね~って話だ。若気の至りってほどはすでに若くはなかったが、我ながら恐ろしいことをしちまったもんだよ。
もうちょっとで、個人で一国並みの勢力を相手にしなきゃいけなくなるところだった。
王都本部を“影”が解体したことによって一時は各国のギルドが腰を上げかけたが、カケイがその席に収まることによって、振り上げられた拳は下げられたらしい。
カケイはギルドを手に入れて、俺は命を保つことができた。
偶然の結果論ではあるが、貸し借りナシだ。
でだ。
当然、廃墟に近づく輩には。
崩れた壁の向こう側から、あからさまに怪しい格好の男と女が現れた。足音も気配もなかったのに。
最初に、物々しい金属製の手甲を両手にはめた妙齢の女が、唇をひん曲げてつぶやく。
「はぁ~、めんどくさ。これだからよそ者はさぁ……。あんた、平民だろ?」
リサと違って、長身で素晴らしいプロポーションをしている。パッツンパッツンのはち切れんばかりだ。いいね。とてもいい。
もうひとり、細く反った剣を抜き身で持つ青年が、女の台詞を続けた。
「……そこで止まれ。それ以上近づくな。スラムのルールを知らなかったのなら今回だけ見逃してやる。でも、覚えておくことだ。スラムでは、ここから先は立ち入り禁止だよ、オッサン」
どっからどう見てもまあ、あからさまなほどの暗殺者だ。
門番かな?
楽しんでいただけましたなら、ブクマや評価、ご意見、ご感想などをいただけると幸いです。
今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。