幕間 もっと早くに推理をしていれば。
トゥニカとスカプラリオ、そして出会った日に履いていた靴。それ以外にうちから消えたものはない。ただ、朝食の用意だけはされていた。
テーブルにはベーコンエッグとパン。昨夜の残りの野菜スープ。
ひとり分だ。俺の分だけ。
意味するところは、リサは誰かに連れ去られたわけではなく、自らの意思で出て行ったということだ。
「……」
俺はリサが作った最後の朝食を、のろのろと口に運ぶ。
味は可もなく不可もなく、いつも通り。そう、いつも通り、たとえ冷えた朝食でも、不思議とぬくもりが感じられる気がしていた。
紅茶に砂糖を入れる。
甘い紅茶を啜ると、呆然としていた頭が少し回り始めた。
パンに挟んだベーコンエッグを囓る。
なんでだ。なんでだ。なんでだ。なぜ、なぜ、なぜ。
なぜ自ら去った。帰りたくないと言っていたのに。そこには理由があったはずだ。たとえばただの平民であるヴァン・クロフトを、何らかの危険に巻き込みたくはなかった。留守を荒らされたのだから、それは理解できる。
だが。
もしも俺が暗殺者“王都の影”であることを明かしていたら、彼女に頼ってもらえたのだろうか。
誕生日がリサにとって嫌な日で、俺にとってはいい日になるとは、あのときすでに彼女が去ることを決意していたからだったのだろうか。
違うぞ。俺にとっても最悪の日になった。わかってんのか、リサ。最悪だ。
四十年、冷たく孤独な人生を歩んできた。それでいいと思っていた。そうするべきだと考えていた。それはいまでも変わらない。
そんな俺に、おまえはぬくもりを教えたんだ。教えてしまった。知らなければ幸も不幸も考えることなく、俺はひとりで生きられたんだ。
でも、もう無理だ……。
おまえが俺を取り返しのつかないところにまで追い込んだ。おまえの責任だ。おまえが俺にとってあたりまえだった孤独の日々を、耐えがたいほどの苦痛へと変えたんだ。
なのに、いまさら逃げるなよ。
出逢った日、おまえが俺を追いかけたように、今度は俺がおまえを追いかけ回してやる。周りからどう見られようが、もう知ったことか。
覚悟しとけ。どうせ俺は元々重犯罪者だからな。
目を閉じて考える。
思い出せ。思い出せ。どこかにヒントがあるはずだ。
リサは言った。
――早く大人になりたかった。
違和感。あの発言は過去形だった。まるで自分は大人にはなれないかのようだ。誕生日を恐れていた理由も納得できる。
カケイはなにを知っていたんだ。
なぜわざわざ、他人のはずのリサの危機を俺に知らせにきた。
俺がかつての仲間だからか? あいつがそんな恩義を感じるようなやつか?
――子供の殺しを引き請けたら、王都で一番怖ぁ~い暗殺者にマーキングされちゃうじゃ~ん。ましてや、あの子は特にね。
違和感。この言葉を吐いた後、カケイは一瞬だけ怪訝な表情を見せた。
俺の反応が意外だったからか? なぜ?
カケイはリサを狙うやつについて、ヒントを残した。
――“神さま”っていうヤバいやつ、かもね。
どういう意味だ? リサは教会にいくことを恐れていた。教会が関係しているのか?
リサは、カケイについて俺が尋ねたとき、こう応えた。
――有名な暗殺者さんだよね。暗殺者ギルドのマスターになったっていう。知ってるよ。怖いよねえ。彼の前のマスターって、悪いことばかりしてて殺されちゃったんでしょ。そんな危ない地位に自分からつくなんて、ちょっと心配。何か理由でもあったのかな。
カケイに対する知識としては、タイムスに載っている程度のものだし、王都に住む一般人の大半はカケイの名と立場を知っている。不自然ではない。
だが。リサの感想は別だ。
違和感。ちょっと心配? リサが、縁もゆかりもない悪党のカケイを? まったく見知らぬただの暗殺者を、いくらなんでも心配とまで言うだろうか?
パンの残りを口に詰め込んで、酸味の利いた野菜スープで流し込む。
力が湧いてきた。気力が湧いてきた。
考えろ。もっと考えろ。思い出せ。
カケイとリサは、どこかで繋がっていたのかもしれない。
それなら、カケイがわざわざ俺に危機を忠告しにきた理由にも合点がいく。カケイはリサの本名を知っているとも言っていた。だとするなら、カケイもまたリサのことを気に掛けていたのかもしれない。
もっとだ。もっと深く、思考の渦に潜れ。思い出せ。
紅茶にさらに砂糖を入れて、喉に流し込む。すでに吐き気のする甘さだ。
リサに関する依頼を暗殺者ギルドで請けたのかと問うたとき、カケイは依頼内容についてこう言った。
――期限内に誘拐、もしくは期限切れの場合には殺害だ。
おそらく十六歳を迎える誕生日が関係している。つまりは今日。誕生日にリサは殺されることが決まっている。
暗殺者ギルドじゃなく、依頼者の手によってだ。いまのところ教会が濃厚。
砂糖でザラつく紅茶を飲み終えて立ち上がる。
クローゼットから長衣を取り出し、ナイフを装着した。仮面は懐に忍ばせる。
だが、俺はどこへ向かうべきか。
教会なら立ち入り禁止地区にあたる貴族街だ。けれど予想を外した場合、リサも俺もおそらく身の破滅は免れない。予想を確定させるには、スラムの暗殺者ギルドを訪れるしかない。
だがそんな時間がまだ残されているかどうか。
「……」
違う。違うぞ。
最初に誕生日のことを口走った当初、リサは今日ではなく明日だと言っていた。昨日になって、一日嘘をついていたと突然妙なことを言い出したんだ。
そこに何の意味がある。
いや、俺はわかってるはずだ。いまさらあいつの気持ちに気づかんふりをするほど年老いてはいないし、ましてやガキでもない。
誕生日に殺されることがわかっているから、いなくなる前日に身体を重ねようとした。強引にでも思い出だけを持って、最初から死にに行くつもりだったんだ。
仕事探しをしていなかったのは、職を見つけてもすぐに立ち去らなければならないから。
うちを荒らした賊との接点は、おそらく郵便屋を通じてのことだったのだろう。郵便屋横の雑貨店にでも手紙を託したか。いずれにせよ、俺は尾行をしていたのに店内にまで追わなかったことで、それを見逃してしまった。
推測が多分に含まれているが、これならすべてが繋がる。
「アホタレが」
額に手を当て、頭を振る。
「……いや、俺もか。こうして考える時間やヒントはいくらでもあったってのに」
とにかくリサの本当の誕生日は明日だ。今日一日はまだ猶予がある。
とにかく敵の情報が欲しい。カケイは依頼を請ける際に敵の正体を知ったはずだ。なら俺が先に向かうべきは暗殺者ギルドだ。
俺はスラムへと向けて家を出た。
朝日のまぶしさには、ずいぶんと慣れた。これはリサのおかげだな。
俺は自宅に鍵を掛け、歩き出す。
気は急くが、走らない。散歩をするように、ゆっくりとだ。
今日明日は長い二日間になるだろう。体力は可能な限り温存しておかなければ。パンも、卵も、カリカリに焼いたベーコンも、野菜スープも、すべてゆっくりと燃やすんだ。
見てろよ、リサ。おまえの残してくれた朝食が、おまえを救うことになるかもしれんぞ。
「あらぁ、おはよう、クロフトさん」
老婦人の声に振り返る。
隣家のリドネー夫人だ。今日も箒で家の前を掃いている。
「ああ、リドネーさん。おはようございます」
「リサさんはお元気?」
言葉には詰まらない。俺はにこやかに、流暢に嘘をつく。
「ええ。元気過ぎて、朝から忙しないもんです。起きたらもういないんだから。あとで迎えに行ってやろうと思いましてね。今晩は留守にするかもしれません」
「うふふ、それはいいわね。クロフトさんの年齢で若い子のお相手は大変でしょうけど、頑張ってね」
「ええ。彼女からは色々ともらいましたからね。多少の苦労には目をつむりますよ」
リドネー夫人が目を細めた。
「そうね。それがいいと思うわ」
「では、いってきます」
「いってらっしゃい」
会釈をして歩き出す。
王都をぐるりと囲む吹き溜まり、陽光の当たらずいつも饐えた臭いの漂う外縁の地、スラムにある暗殺者ギルドへと向けてだ。
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