第13話 別れるときは静かに消えて。
リサの残した衝撃発言以降、俺の買い物時の記憶はぶっ飛んだ。いや、買い物どころか晩飯に何を食ったのかさえよく思い出せん。当然、どんな話をしたのかもだ。
そしていま、俺は久々に自分の寝室にいる。阿呆のように腕組みをして突っ立って。
リサが来て以降はリビングのソファで眠っていたからな。その彼女はといえば、ベッドに腰を下ろし、水浴びを終えたばかりの湿った髪に手櫛を入れている。
緊張した面持ちで。
俺は眉をひそめた。
「……」
「……」
額面通り受け取れば、つまりはそういうことなのだろう。
だがしかし待ってくれ。その時点ではどう足掻いたって犯罪行為なんだ。少なくとも明日の誕生日を迎えるまでは、リサは未成年だ。
日が変わればそれで問題はないのだろうが、あいにくそんな正確に時を刻む魔導機械式時計は王族貴族でもなけりゃ持っていない。俺はもっぱら、広場にある日時計だ。
落ち着け。そもそもそういう問題ではないだろう、ヴァン・クロフトよ。
まずは彼女の真意を確かめねばならん。確かめてどうする。どうにもならんぞ。どうするんだこれ。誰か助けて。犯罪者になりたくない。別件でもうなってたわ。
とりあえず。とりあえずだ。真意を確かめてみよう。
「俺はボディガードのために部屋に呼ばれた」
「え? ……違うけど……」
即座に否定された。
あいかわらずリサは緊張した面持ちだ。これはもう確定か。いや、まだだ。
可能性をすべて潰す。
「一緒に過ごしたいとは、夜通しおしゃべりをしていたいという意味だ」
「……眠くなっちゃう……」
よく知らんが、女子同士ではたまにあるらしい。
リサが俺の心の乙女と会話をしたいという可能性に賭けてみたが、これも違ったようだ。
ならば次だ。
「俺はソファを運んできた方がいい」
「……必要ない……と思う……」
変な汗が出てきた。
「俺は床で寝させられる」
「ベッドで……」
「リサを床に寝かせることは、俺の中の紳士が許さない」
「ヴァン、優しい……。てかどうしたの、そのしゃべり方……」
何をのんきなことをと、少し腹が立った。
俺はリサの鼻先に人差し指を近づける。
「どうもこうもあるか! おまえ、意味わかって誘ってんだろうな!?」
リサが頬どころか耳まで赤く染めて、小さくうなずく。
「それなりに……。あ、でもそれは、ヴァンが我慢できなくなったらってことで……」
「明日ならともかく、今日手ぇ出したら俺は犯罪者の仲間入りだ! 明日でも法的にセーフなだけであって、大概まともな人間じゃあないからなっ!」
「言わないよ。誰にも。……言わない」
「ああああっ」
俺は頭をかきむしる。
おお、神よ。あなたはなぜ私にこのような試練をお与えになるのか。ふざけんなよ、実体あったら喉掻き切ンぞ、テメェ。
俺はただ、表の顔だけでもまともな人間でいたいだけなのに。それがどれだけ虫のいい話なのかってのはわかってる。それでもだ。
「あ、あのね、ヴァン」
「なんだよっ!」
「……怒らないで。ヴァンが嫌なら何もしなくたっていいの。手を、手を繋ぐだけでいいから。今晩だけ、お願い……」
「~~ッ」
リサがしょんぼりとうつむく。
「約束した……。プレゼントくれるって……」
「わかった。わかったよ。約束は約束だ」
何でそこまでヴァン・クロフトにこだわるんだ。“影”が目的じゃないのかよ。そもそも誕生日ってのはリサにとって何なんだ。わけがわからないことだらけだ。
「でも、いきなり襲いかかってきたりすんなよ?」
「しないしない! まだしたことないもん! できないよ! その……やり方もわかんないし……」
リサが真っ赤な顔で、バサバサと長い髪を振った。
俺は恐る恐る、リサの座るベッドに近づく。いや、元々は自分のベッドなんだが。しばらく寝室を使っていなかっただけでヤニと加齢臭はすっかり駆逐され、甘い果実のような小娘臭で満たされている。
頭がおかしくなりそうだ。
「ほんとに? ほんとにしない?」
「しないってば。てかそれ、台詞がふつう逆じゃない?」
「あー……そう、だな……」
恥ずかしい。女々しすぎた。
同時に破顔する。たぶん、赤面しながら。俺もだ。
俺がベッドに座ると、少し逃げるようしてリサは寝転んだ。
「ヴァンも」
「おう」
隣に寝転がる。微妙に距離を空けて。見慣れた天井が遠く感じる。
呼吸。耳元で感じて。そこに甘い声が重なった。
「手、繋いでもいい?」
「ああ」
リサの右手が、俺の左手と繋がる。
いつもの温かい手だ。
大丈夫。俺はまだ冷静だ。これくらいなら。
リサが首をこちらに向けた。視線がこそばゆい。
「ヴァン」
「ん?」
「我慢できなくなったら、遠慮なく」
よし、天井の染みでも数えようか。
でっけえヤニ汚れが一つだ。くそったれ。拭いとけ、俺。
「あんまそういうことを言うな」
「うん。ごめんなさい。まだ子供だもんね、わたし」
しゅんとした声だ。
表情は見ていなくてもわかる。
少し迷って、俺は本心をぶちまけてやった。
「……こっちもこっちで結構必死なんだよ。あまり誘惑しないでくれ」
「へ? あ……。それって、自惚れてもいいってこと……?」
「そうかもな」
「うそ、嬉しい」
しばらく無言でいる。
眠れそうにないし、寝息も聞こえてはこない。ランプの明かりは消えて、もう窓から差し込む月の光だけだ。
そっと顔を左隣に向けると、闇の中で視線が合った。近い距離で。それこそ、額がぶつかりそうなくらい。
「……寝ろよ」
「もったいないから、もうちょっと見てる」
「俺の顔面なんてつまんねえもん、これから先いつでも見れるだろ」
「……」
咳払いを一つして、俺は口を開く。
「例えばおまえが仕事を見つけてこの家を出ていったとしても、遊びにくるのはいつだってかまわない。だから鍵は返さなくていい。何かに困ったら手助けくらいはしてやるし、必要があれば呼んでくれてもいい。俺なんかにできることは限られるが、できる限りのことはする。いつでもだ」
「……嬉しい。すごく」
鼻にかかった声だった。
「泣かんでくれよ。ばつが悪い」
「うん、うん……」
ああ。だが。
涙を見たおかげで、幾分冷静になれた気がした。大丈夫だ。まだ俺はリサにとって、いい大人でいられる。
だから寝返りを打って、彼女の頭部を右腕で抱き寄せ、胸の中に抱え込んだ。掌では触れない。俺の手は血まみれだから。
「誕生日、怖くても一緒なら平気だろ」
「……うん……」
「ならもう寝ろ」
俺はベッドの足下に寄せていたキルトを足で引き寄せ、リサと自分を覆うように掛ける。
「大丈夫だ、リサ。明日はきっといい日になる。一緒に祝おう」
「……」
キルト越しに、右手で彼女の背を軽く叩く。何度も何度も。人を殺してきた手で、赤ん坊を寝かしつけるように。
「……大丈夫だ……」
「……うん……うん……」
やがてリサの嗚咽は消えて、代わりに寝息が聞こえ始めた。彼女にどんな事情があるのかまでは、今以てわからない。
だが、どうせ汚れた手だ。何にでも使ってやる。ともに生きられなくとも、リサが幸せになれるならそれでいい。
そんなことを考えながら、俺も眠りに落ちていった。
深く、深く、闇に沈むように。温かく心地よい暗黒の中で、俺は。
――ごめんね、ヴァン。
そんな囁き声が聞こえた気がして、目を開けた。
窓からはすでに朝日が差し込んでいた。隣にリサはいない。
「リサ……?」
朝食でも作っているのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。これまで俺がリサに買い与えた女物の服が綺麗に折りたたまれ、棚の上に置かれている。
クローゼットを開くと、トゥニカとスカプラリオだけがなくなっていた。靴もだ。俺が買い与えたものではなく、出逢った当初に履いていたものだけがなくなっている。
ポーチも置いたままだ。中には預けた財布が入っていた。メッセージはない。
胸騒ぎがした。俺は寝室を飛び出して家中を捜した。
キッチンにも洗濯小屋にも、リサの姿はなかった。
――この日リサは、俺の前から忽然とその姿を消してしまったんだ。
ここまでお読みいただき、本当にありがとうございます。
この物語も残り数話となりました。
最後まで見届けてやっていただければ幸いです。
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今後、作品を作っていく上での糧や参考にしたいと思っております。