プロローグ
「お目覚めかね、お嬢様」
無骨な男の声が、少女の耳朶を打った。
少女は、わずかに痛む頭を揺すりながら、声の主へと視線を向けると、一人の男が椅子へと腰かけ、地面へと剣を突き立てている様が目に入った。
大木のように太い腕、つぶれた右目、何よりも、男の纏う血の匂いが、眼前の男が歴戦の勇士たる証左といえた。
──この男が私を襲ったのか。
脳裏に浮かんだ思考を半ば打ち捨てながら、少女は周囲に目を向けた。黒ずんだタイルの床に穴だらけの壁面、ほこりが積もり古びた祭壇、天蓋を覆うステンドグラスから自身の監禁されている場所がどこかの廃教会であると推察された。
「厳重な警備体制の中、私を攫って見せたその手腕、ほめて差し上げますわ」
努めて平静を保ちながら、男へと投げかけた。
「ですが、私がエストランデ家の者であると知りながらこのような蛮行に及んだのならば、おおま──」
「間違いなんかじゃないさ」
男は少女を嘲笑うかのように悠々と語りだした。
「あんたは上流階級に名を連ねるエストランデ家の淑女、メリー・エストランデ。そんな尊いお方を攫うリスクは重々承知している」
「…目的は?」
「我々の目的は、デルドラ・フィンゲルトの釈放だ」
我々?メリーの、男の言葉に対する疑問は瞬く間に氷解した。男が指を鳴らすと、十数人の覆面を被った者たちが教会へと入ってきたためだ。
「我々は君に危害を加えるつもりはない。また、エストランデ家に恨みはない。君を攫ったのはほとんど偶然のようなものだ。運が悪かったと思って諦めてくれ」
男のあんまりな物言いに思わず立ち上がろうとしたメリーだったが、自身が後ろ手で縛られていたことをようやく自覚したため、わずかに体を揺するにとどまった。
「こんな真似をして、ただで済むとお思いで?」
男は、メリーの勇ましい物言いに目を丸くしながら、思わず噴き出した。
「こんな状況で啖呵を切るとは。あんたは間違いなくいい女になるだろうよ」
もっとも、この場を生き延びればの話だがな、そう付け加えながら、男は数人の覆面たちを引き連れ、教会の外へと向かった。
残されたのはメリーと、その見張りに残された数人の覆面のみ。
男が自身の眼前から消えたせいか、あるいは自身の陥った状況を理解したためか、メリーの脳裏に次々と嫌な考えが浮かび上がった。
もし、男の目的が果たされなかったら。また、目的が果たされたとしても自身が無事に返される保証はない。
自身の悲惨な未来が次々に浮かび上がり、思わず涙がこぼれ落ちそうになったものの、自分が見張られていることを改めて自覚し、涙をこらえた。
折れそうになる心を奮い立たせ、何とか脱出できないものかと神経を研ぎ澄まし、見張りたちの隙を伺った。
そうして如何ほど時が過ぎたのだろうか。
ステンドグラスから差し込んでいた陽光は消え失せ、すっかり夜の帳は降り、どこからともなく吹き込む隙間風がメリーの体温を奪うようになったころ、異変が起きた。
外の連中がやけに騒々しい。
この覆面連中の要求がのまれ、デルドラ・フィンゲルトなる人物が釈放されたのか。はたまた要求が拒否され、自身に利用価値がなくなり処分されるのか。
「何が起こって──」
自分が処分されるという最悪な未来を想像してしまい、不安に駆られるようにしてメリーが口を開いた瞬間。
木刀を右手に携え、黒いローブを身に纏った少年が、満月を背負いながら天蓋のステンドガラスをぶち破り、教会へと飛び込んだ。
「ご無事ですか、メリー嬢様?」
鉄火場に飛び込んでなお、口元に微笑みさえ浮かべ、穏やかにメリーに語り掛けるその少年の姿は。
メリーの目には、神のようにも悪魔のようにも感じられた。