『氷結の聖騎士』と呼ばれている冷酷騎士のプライドと情緒を思い出話でめちゃくちゃにしてくる幼馴染の話
「……しかし、アンタもう少し気取った戦い方ってできないもの?」
また性懲りもなく手傷を負った彼の怪我を治癒魔法で治していると、ぐぬ、と彼が呻き声を上げた。
まーた始まった……と言いたげなその視線にちょっと腹が立って、私はまだ血が止まりきっていない傷口を指でつついた。
「ぐっ――!?」
「全く、『氷結の聖騎士』とかなんとか噂されてる割には泥臭すぎるのよアンタは。もう二十三歳にもなってそれなりに出世もして前線なんかでなくてもいいんでしょ? しかも何よコレ? サラマンダー討伐でやけどじゃなくて切り傷を負うってどういうことなのよ?」
「う、うるさいな――名誉の負傷だ。傷の種類は関係ない」
スネたように、青年は顎を明後日の方向にそらした。
顔だけはいっぱしの青年になった青年に、私は次々とお小言をまけた。
「だいたい本当にアンタって奴は――今回の負傷の理由はなんだっけ? 部下をかばって手傷だっけ? 昔は私に庇われてた奴が立派になったものねぇ」
「ま、またその話か……。そんなものは昔の話だろう?」
「昔ってたったの十年ぐらい前よ。アレはいつの頃だったかしらね。アンタが村でスヴェンおじさんの芋畑に忍び込んで芋泥棒したのよね。しかもやっとこさ覚えたての火炎魔法で焚き火まで熾して、そこで芋焼いて食べてたところを見つかったからさぁ大変よ」
私がちょっと大きな声で言うと、そこここで治療されていた騎士団のメンバーたちがこっちを見た。
青年――ヴィンスことヴィンセント・ルーガンは顔をぐしゃっとひん曲げた。
「おじさんはもう怒る怒る。アンタの首根っこ捕まえてその場で尻を十三発どついた。アンタの尻はリンゴか桃みたいに真っ赤になってそれはもう――」
「あ、アロア――!」
「それで物凄い悲鳴が聞こえたから私が駆けつけてみたらお尻を真っ赤にして泣きわめいてるアンタがいたのよね。あんまり泣くもんだから私が間に入っておじさんへ一緒に謝った。忘れたとは言わせないわ」
「や、やめろ! みんな聞いているだろうが!」
「おじさんは許してくれたけど、大変だったのはその後よ。お尻が痛くて歩けないっていうから私がおんぶして家まで帰った。家に帰り着くのに一時間半かかったのよね?」
「アロア姐さん、その後は? その後隊長はどうなったんです?」
比較的軽症だったらしい兵士たちが四人ほど、松葉杖をついたり、包帯で腕をつったりした状態で、興味津々の顔で寄ってきた。
私は半笑いで続けた。
「その後家に帰っても、お尻が痛くて眠れないってうるさいのよコイツ。あんまり喚くもんだから、私が濡れタオルで一晩中冷やしてあげたの。私は完全に徹夜するまで頑張ったのに、本人は途中からスヤスヤ寝てたのよ?」
「うへぇ、大変だったんですねぇ」
「そうですか、隊長が芋泥棒ねぇ――」
「俺らの小さな隊律違反にも厳しいのに自分は芋泥棒ですか」
「や――やめろ! 貴様ら、聞くな! ちっ、治療に専念しないか!」
ヴィンスは慌てふためいて兵士たちに怒鳴ったが、兵士たちは苦笑したり、肩をすくめただけだった。
土台、幼馴染である私からこんな情けない話をされた直後である。いくら命令したところで威厳はゼロだろう。
『氷結の聖騎士』とかなんとか持て囃されている冷徹で美貌の騎士が、子供の頃芋泥棒をしでかした挙げ句、一晩尻をさらけ出して介護されたなんて話、貴族のご令嬢たちが聞いたらどんな反応をするだろうか。
まず間違いなくコイツのファンを自称している令嬢たちの視線は変化することになるだろう。
「腫れが治まったその後もお尻はすっかり真っ黒けになっちゃってねぇ。しばらくはトイレの度に悲鳴が聞こえてたのよ。便座に座るのが痛かったのねぇ」
「ぐ――! あ、アロア! 早く怪我を治せ! 口でなく手を動かせといつも言ってるだろうが!」
「随分偉そうねアンタ。この話にはまだ続きがあるのよ? その後の話する? あんまり叩かれたからお尻が割れちゃったって落ち込んだアンタが三日ぐらい部屋に引きこもった話」
「ぐ――! そ、その話は――!?」
ヴィンスの白い肌がさっと赤くなった。
反対に、今まで話を聞いていた若い兵士たちがどっと湧いた。
「ええ!? なんですアロア姐さん!」
「その話詳しく聞かせてくださいよ!」
「お尻が割れちゃった!? 隊長がですか!?」
「や、やかましいお前ら! 傷に障る! 散れ! 散らないか!」
「まぁま、この話はとっておきとして後で話したげるわ。――ほら、傷もふさがったし」
私がすっかり傷の癒えたヴィンスの肩をぺしぺしと叩くと、ヴィンスが素晴らしく苦い顔で私を一瞥した。
「相変わらずのおしゃべりだな、お前は――治療に来る度にこれか? 俺以外にも同じように治療に当たってるのか、このじゃじゃ馬め」
「そんなわけないじゃない。他の患者さんなら優しく手厚く介護するわ。相手がアンタだからの軽口よ。その方がアンタには効くでしょう?」
「あのな。いいか、アロア――」
ハァ、とヴィンスはため息を吐いて、人目を憚るように小声でぼそぼそと言った。
「俺は十歳のガキじゃない。今やエーデン騎士団の百騎隊長なんだ。その……あまり俺の情けない話をされると部下に示しがつかないんだよ。俺にだって威厳というものが――」
「威厳あるやつがお尻ぶっ叩かれたぐらいで泣くの? 百騎隊長さん」
私の呆れ声に、ヴィンスはむっと下唇を突き出した。
生意気に私より遥かに成長した背丈で見下ろしてくるその視線と表情には、面影はあるけれど、やっぱり大人のそれになっている。
私はその成長が何だか少し気に入らなくて、彼ら騎士団がこの救護院に来て治療を受ける度、ついつい昔の話をしてしまうのだ。
「とにかく、あんまりヤンチャしないことね。傷は治せるけど、その前に死んじゃったらいくら私でも治せないんだから。でないと――」
そこまで言いかけて、私はグッと言葉を飲み込んだ。
でないと、何だ? そう視線で訊いてくるヴィンスの顔に、私は首を振った。
「も、もういいから! なんでもないわよ! さ、治療が終わったら立った立った!」
私は会話を強引に打ち切り、ヴィンスを急かした。
ヴィンスはまだなにか不満そうな表情をしていたものの、私の言葉に逆らうこともなく立ち上がった。
大方、今回の討伐で負傷した兵士たち、騎士たちの治療は終わったようだ。
私はヴィンスの背中に言った。
「とにかく、もう私がついて歩くわけにもいかないんだから。私のお父様とお母様も心配してるってことを忘れないでね、ヴィンス」
私の言葉に、ヴィンスは背中を向けたまま「……わかってる」と渋い顔で頷いた。
「今回もすっかりと世話になったな。感謝する。じゃあなアロア」
それだけ言い、ヴィンスは大声を発して騎士団をまとめ、どやどやと救護院を出ていく。
すっかり声変わりしてしまったその声の低さと、どこにいても油断しきらない視線は、間違いなく今現在、『氷結の聖騎士』として話題になっている美貌の騎士隊長、ヴィンセント・ルーガンそのものの声だった。
ハァ、と、私は聞かれないようにため息をついた。
あんなにちっこかったのに。
あんなに細っこかったのに。
あんなに弱かったのに。
あんなに泣き虫だったくせに――。
今やその泣き虫は、泣く子も黙るエーデン騎士団の百騎隊長に。
団長に次ぐ権力と権威を持つ重責に、齢二十歳という若さで就任した、稀代の天才騎士に。
その巌のような威圧感と整った風貌で、街を歩けば誰もが振り返る美貌の青年に――彼は成長してしまった。
救護院を出ていこうとする、人一倍でかくなったその背中を見ると、私はなんだか、私と彼が別々に過ごした十年の質の違いを考えてしまう。
私は田舎で何の不満もなくのびのび育ち、彼は王都で、世間や戦場の荒波に揉まれて叩き上げられた。
すっかり置いていかれたような気分――成長した彼がこの救護院に来る度、私はそんなことを感じてしまう。
否――そんなことはどうでもいい。
私は去ってゆく彼の背中を見ながら、ズキッという胸の痛みを感じていた。
あれほどのいい男に育ち、今や騎士の位を授かってもいるなら、きっと社交界に出ればたちまち貴族令嬢たちに囲まれてしまうことだろう。
私に微笑みかけて、私に触れて、私だけを見て――そう言って、まるで花の周りをふわふわ漂う蝶がその令嬢たち。
それに比べたら、私はさしずめ、花畑から遠く離れた畑に突っ立つ、煤けたカカシのようなものだろう。
美しく春を謳歌する花の、その隣に立っただけでその美しさと雰囲気をくすませる、不細工なカブ頭のカカシが私だ。
もうあの頃のように、私は彼に気安く触れることも、言葉を交わすことも、もう許されないのに。
私は田舎の貧乏子爵の娘、救護院のいち癒やし手でしかなく、彼は出世街道をひた走る社交界の花なのだ。
釣り合うとか釣り合わないとか以前に、彼はもうヴィンスではない。
エーデン騎士団の百騎隊長、ヴィンセント・ルーガンなのだ。
「ばか――」
ひとりで勝手に大きくなりやがって。
私はますます痛くなる胸の痛みを、大きく息を吸うことでごまかした。
◆
私――弱小子爵令嬢アロア・キャンベルが、ヴィンスことヴィンセントと王都で再会して、はや三ヶ月が経過した。
私の実家であるキャンベル家は、東方の田舎を領有する弱小領主だ。
数ある貴族の位の中でも一番下の子爵、しかも東方の田舎というからには、名実ともに貴族とは名ばかりのなんちゃって貴族だ。
私の方も、貴族子女などとは名ばかり。
地元――というか、領地ではガキ大将だった私は、明け方から日の暮れ方まで、常に棒切れを持って子どもたちの先頭を歩いて遊び回っていた。
その子どもたちの中でも、一番弱くて、一番細くて、一番小さくて、一番泣き虫だったのが、今をときめく『氷結の聖騎士』、ヴィンスことヴィンセントだった。
彼は村の零細農家の一人っ子で、早くに両親と生き別れたため、それを哀れんだ私の両親が引き取り、一緒に暮らした。
彼の方が三つも年上だったけど、ガキ大将だった私にとって、泣き虫のいじめられっ子だった彼は弟も同然。
寝小便しては泣き、好き嫌いがあると言っては泣き、芋泥棒をしてげんこつを喰らえば泣く彼を、とにかく庇い守った。
そして私が十歳になったとき。
村に定期的にやってくる口入れ屋がちょうど彼ぐらいの年齢の使用人を探していたため、彼は私たち家族と別れ、王都で暮らすことになった。
泣き虫で幼いなりに、彼は彼で私のところでこれ以上厄介になり続けるわけにもいかないと考えていたのだろう。
自分から言い出したくせに、ヴィンスは出発の朝、口入れ屋のおじさんがほとほと困り果てるほどに泣き喚き、酸欠でふらつくほど嗚咽した挙げ句――私にあることを大声で叫んだ。
私は彼の姿が見えなくなるまで手を振って、私たちの十年間は一応の終わりを告げた。
その後の王都での彼のことは、私もよく知らない。
本人が語りたがらないのだ。
ただ――本人が幾多の討伐や戦乱で名を挙げ、死線を掻い潜ったことはわかる。
泣き虫だった彼は生死と隣合わせの日々の中で鍛えられ、根本から変化した。
いつしか彼は、誰一人として笑った顔、悲しんだ顔を見たことのない、冷徹で冷酷なる百騎隊長――『氷結の聖騎士』という異名を取るまでになったことは、風のうわさで聞いていた。
とにかく、その後村に残った私は、十三歳で治癒魔法の才能を見い出され、二十歳になるまで領地で癒し手になるための訓練を積んだ。
如何に貴族と言えど貧乏領主。一刻も早く手に職をつけ、自分の食い扶持は自分で稼げるようにならないといけないための訓練だった。
そして晴れて癒し手となり、王都の救護院に就職が決まった私は――そこでヴィンス、いや、『氷結の聖騎士』ことヴィンセントと再会した。
私の方は一発でヴィンスだとわかったのだけれど、ヴィンセントは最初、ぎょっと私を見つめて――それからなんと、ススス、と別の癒し手の方に移動しようとした。
私はその首根っこを掴み、治療する間、昔の恥ずかしい思い出セレクションを、大声で、詳細に、これでもかと語ってやった。
最初、鬼の隊長として恐れられ、畏怖されていたヴィンスの首根っこを掴んで無理やり引っ張った私に、騎士団の連中は震え上がった。
あの『氷結の聖騎士』ことヴィンセント隊長に何たる狼藉、素っ首叩き落されるぞ――と固唾を飲んで見守っていた兵士たちも、私の思い出セレクションを訊き終わった頃には、ものすごく珍妙な表情を浮かべたものだった。
一方、今までせっせせっせと積み上げていた鬼の隊長のイメージを根底からぶち壊され、たっぷり泥を塗られたヴィンスは、最初は慌てふためき、中盤はやめろやめろと躍起になって私の口を塞ごうとして――後半は無事な方の手で赤面した顔を覆うばかりになっていた。
こうして、私たちは再会した。
田舎娘と氷結の聖騎士として。
最初は私がヴィンスを引っ張り、あれやこれやとお小言を言う度、兵士の方はビクビクしていたのだけれど、お小言を頂戴するヴィンスの方が完全に鎮火しているのを見て、私たちが幼馴染であるということがわかってくれたらしい。
最近では兵士たちは私のことを「姐さん」と呼び、ああやって治療の度に『氷結の聖騎士』の恥ずかしい思い出話セレクションをせがむまでになっていた。
騎士団と打ち解けられたのはいいけれど――。
私は治療に使った包帯や薬などを片付けながら嘆息した。
ヴィンスの方は、まだ私と打ち解けてくれていない。
それは私にだってわかった。
お互い、もう進む道は別れていて、しかもその立場には雲泥の差がある。
彼は幾多の修羅場を乗り越え、死線を乗り越え、笑うことも悲しむことも上手くできなくなってしまったようだ。
人一倍繊細だった彼が騎士団という場所で自分を確立していくには、それぐらいしか方法がなかったのもわかる。
けれど――私はまたため息をついた。
彼は変わった。それもわかる。
それでも、他ならぬ私になら、笑いかけることはなくても、もっと自分のことを話してくれてもいいのに。
私の前でまで『氷結の聖騎士』である必要はない、あの頃のようにもっと軽口を叩いて、もっと甘えて、泣きわめいてくれさえしてくれたっていいのに。
私たちの関係ってそんなものだったのかなぁ――私は最近、ヴィンスに会う度に無力感を噛みしめる自分を発見してもいた。
◆
「あなた、ヴィンセント様に随分馴れ馴れしくされてらっしゃるようね」
妙なのが来た――怯えたように行く末を見守っている癒し手たちの視線を感じながら、私は内心顔を歪めた。
目の前に立っているのは「華やか」としか形容しがたい女性――この国の貴族の中でも特に有力な公爵家・ジルベール家の息女だと名乗った女性は、やけに白い部分の多い目で私をジロリと睨んだ。
「まさか、その自覚もないのかしら? 最近社交界ではとみに有名ですのよ。あの『氷結の聖騎士』ことヴィンセント様にやけに近い女がいるとね」
社交界で噂になろうが会議で審議されようが、私にはなんとも釈明のしようがない。
沈黙している私に向かって、令嬢はものすごく豪華な扇子を取り出し、ぱたぱたと扇いだ。
「驚いたわ……あのヴィンセント様の関心を引いたのがどこの令嬢なのかと思ったら、こんなに煤けた女だったなんて――」
ああやだやだ、というように、女は視線を外した。
それから、無言でいる私が面白くなかったのか、ぐっと私を睥睨してきた。
「さしずめ、この救護院に来るうちに話すきっかけがあったんでしょうが――あなた、まかり間違っても彼と自分が釣り合うなんて思ってはいないでしょうね?」
それは――私は目を伏せた。
私だってわかっている。あれほど美しく、強かに成長したヴィンスの隣に私が並び立つことは出来ない。
どう背伸びをしたところで、今の彼と私は月とスッポン、どう考えても不似合いだ。
私が目を伏せたのを同意であると見たのか、女は扇子の上から私を睨みつけた。
「お若くて美しいヴィンセント様はただでさえ引く手あまた――ですがその誰にも関心を向けることはない。故に『氷結の聖騎士』。多少馴れ馴れしく出来ているからと言って、それ以上などとは夢にも思わないことね」
そんなことはわかっている。
私と彼とはもうあの頃のどろんこの二人ではない。
彼は華やかで美しい世界――貴族の世界の住人で、私はそこに入れてもらえない地虫なのだ。
私から覇気が消えたのを察知して、女はハァ、とわざとらしくため息をついた。
「ただでさえヴィンセント様は国王陛下のご落胤――彼に釣り合う勢力と美しさを持った人間は数少ない。自身に釣り合う身分の女性を見つけるのは大変なのに、その上あなたみたいな煤けた女が纏わりついているようじゃ――」
王のご落胤――なんだそれは?
私が仰天していると、多少冷静さを取り戻したらしい女は勝ち誇ったように続けた。
「あら、知らなかったのね。ヴィンセント様は国王陛下がさる貴族の女性と関係を持った際に生まれた尊いお方なのよ。ご自身はそれを伏せていらっしゃるけど、ゆくゆくは公爵の位でも与えられて、名実ともに貴族に返り咲く存在――それがどうしてこんな田舎娘に――」
「えっ」
「えっ」
「国王のご落胤――ちっ、違いますよ! それは違いますッ!」
ついつい、私は大きく頭を振ってそれを否定していた。
「彼は東方の貧乏農家の倅です! 王様の子なんかじゃありませんよ! 貴族令嬢たちの間ではそんな話になってるんですか!?」
「な、何を――!?」
私の大声に、女が少し気圧されたように一歩下がった。
違う違うぜんぜん違う、と私は手を振った。
「それと、さっきからヴィンスが貴族令嬢に関心を向けないとか言ってますけど、それも誤解です! 彼は単にコミュニケーション能力がものすごく低いだけなんです!」
「な」
「昔からそうだった――彼は三人以上集まると黙っちゃうタイプなんですよ! 三人組作れば必ず二対一でイジメられるし、二人組作らせると必ず一人余るし、かけっこすればビリだし、芋泥棒して逃げれば必ず一人だけ捕まって絞られる――そういう星の下に生まれてるんです!」
「な、なな……!?」
「ダメですよ彼にそんな大人数で話しかけちゃ! 本人はきっとパニックになってますよ!」
私は必死になって説明した。
「ああ、やっぱりそんなことになってるんだ……! 私たちが七歳ぐらいの頃、過ぎ越し祭りで花とお菓子を配ることがあって、彼と私が一緒にいたら、酔っ払った大人に囲まれちゃったんです。ヴィンスは大人の男の人をすごく怖がる子で――アレコレ話しかけられたら彼、パニックになっちゃって――そのときの彼はトイレに行きたがってたんです。それでも酔っぱらいに囲まれたことでどうしても言い出せなくて――」
大丈夫かな? 私は真剣にヴィンスのことを心配した。
もし彼が「あのとき」と同じことをしてしまったら――。
「気がついたら私の足元に水たまりができてて。え? と思ってヴィンスを見たら、ヴィンスが泣いてるんです。びっくりしてズボンのところを見たら、彼、その場で漏らしちゃってて――」
周りで聞いていた癒やし手の数人が、ブフォ! と吹き出す音が聞こえた。
目の前の令嬢は呆気にとられた表情で私を凝視している。
「い、いや皆さん! 笑ってるけどその後大変だったんですよ! ズボンもパンツも替えなきゃだし、大人たちが困るし、ヴィンスは泣いてもう帰るって言い出すしで――ねぇご令嬢!」
「え、ええ――!?」
「彼、大丈夫でしたか? あなたたちがあんまり集団で言い寄るから漏らしたりしてませんでした!? ああもう、そんなことなったら社交界で死刑宣告受けるようなものよ! 大変なことに――!」
「な、なってないッ!」
と、その時――随分慌てたような大声が背後に発し、私はハッと振り返った。
そこには――騎士団を連れたヴィンスが立っていて、なおかつその顔はまっかっかになっていた。
プルプル小刻みに震え、うっすら涙目になって拳を握っているヴィンスの後ろで――何人かの若い兵士が死にそうな顔で笑いを堪えている。
「あら、ヴィンス――」
「あら、じゃないぞお前! そっ、そんな昔の話をどこの世界に公衆の面前で話すやつがある!」
ヴィンスは鬼のような顔で私を怒鳴りつけた。
「そっ、それになんて言った!? 今も俺が社交の場で漏らしてるかだと!? そっ、そんなわけないだろうが! ちゃんとその前にトイレぐらい行けるようになったわ! あ――」
ヴィンスが間抜けな声で言い、たまらず兵士たちが吹き出してゲラゲラ笑い出した。
それを物凄く憎々しげに睨みつけてから、ヴィンスは私に言った。
「とっ、とにかく! もう俺はあの頃の俺じゃないんだ! 見ればわかるだろうが! そんなシモの世話までお前に焼かれる筋合いはない! わかったか!」
「あっ、何よその言い方! アンタが頼りないから私が心配してやってんじゃない! ちょっと『氷結の聖騎士』とか呼ばれてるぐらいで調子に乗るな!」
「調子に乗ってるんじゃない! 全く、ああ言えばこう言う――!」
憤懣やる方なさそうなヴィンスは、それからこちらを凝視している令嬢に視線を移した。
「ジルベール公爵令嬢、これは一体どういうことですかな?」
不意に――ヴィンスの雰囲気が変わり、何だか不穏な空気がその背中から発し始めた。
「ここ救護院は怪我人や病人が救いを求めてやってくる施設だ。あなたもどこかがお悪いのかな。数日前の夜会ではとてもそんな風には見えなかったが」
あう、と、貴族令嬢が喘ぐように口を開いた。
「それは――!」と言いかけた言葉を、ヴィンスは手で制した。
「言い訳は結構。あなたがこの救護院にやってきたと聞いて様子を見てみれば――様子はだいたい聞かせていただいた。わかっていないようならもう一度ハッキリ申し上げましょう。私はあなたからの求婚を受けるつもりはない」
求婚――? 私はその言葉にヴィンスを見た。
ヴィンスは見たこともない凶相で令嬢を睨みつけている。
「ましてや救護院まで来て、恥知らずにもいち癒し手を一方的になじるような方を婚約者にしたいなどという希望は一切ありません。あなたの父君が私を西方の公爵領に近い地域に異動させろと圧力をかけた事実も掴んでいます。全く――油断も隙もない方だ」
公爵令嬢の顔が蒼白になり、小さく震え出した。
これぞ氷結、といえる、何の温かみも容赦もない言葉で、ヴィンスは公爵令嬢の希望を粉砕した。
「今一度ハッキリ言いましょう。私はあなたのような女性の伴侶など願い下げです。ましてやこの状況を見たら、あなたに対する印象は更に悪い方へ変化した。さぁ、貴方様の吐かれる毒気が他の患者に障ったら災難だ。お引取り願おう――もしこれ以上四の五の仰られるのであれば、エーデン騎士団が力ずくでも――」
最後まで聞かずに、血相を変えた公爵令嬢は唇を震わせ、足早にヴィンスの下を去った。
その姿を視線で見送ったヴィンスが、ふう、とため息をついた。
「すまないな、アロア」
ヴィンスのその一言に、私は「は?」と声を上げた。
「なんでアンタが謝るのよ」
「あの厄介な客は俺が連れてきたようなものだ。半年ほど前からしつこくてな。その度に躱していたんだが、まさかこんなところまで踏み込んでくるとは――」
「もういいわ。幸いもう帰ったし。それにアンタ、あんまり社交界で今みたいな口利いたらダメよ」
私が言うと、フッ、とヴィンスが苦笑した。
「相変わらず変わらないな、お前は――」
その苦笑顔は、なんだか少し寂しそうに見えた。
それに比べて自分は――そう言いたげな笑みに、私は腰に手を当て、ヴィンスの鼻先を指で弾いた。
「アンタこそね」
「えっ?」
「そういう風にまず自分から謝る癖」
私が言うと、ヴィンスが珍妙な表情で私を見た。
「いつもいつもアンタは、自分がやってないことでも真っ先に謝るのよね。ごめんなさいごめんなさいって。そうしてりゃ怒られないと思ってるんだかなんだか知らないけど、今は直したほうがいいんじゃないの?」
その言葉に、ヴィンスが少し、ほんの少しだけど、安堵したような表情になった。
それから私の顔を眺めたヴィンスが、急に自分を取り戻したような表情で「いや……」と首を振った。
「変わってないのは……お前だけだ。変わったよ、俺は――」
そう言ってヴィンスは、何故なのかとても寂しそうに微笑んだ。
◆
「本当にお前は変わらないな、アロア」
ある日――珍しく独りで、朝早く救護院を訊ねてきたヴィンスが、ぼんやりと前を見ながらつぶやいた。
救護員の中庭、公園の噴水に腰掛けたままつぶやかれた、まるで老人のようなその言葉に、私はちょっと不気味なものを感じて言った。
「なんか悪いもんでも食べたの?」
「――なんだその言いようは。そんなにおかしいかな」
「おかしいわよ。なんかおじいちゃんみたいなこと言うじゃない」
「おじいちゃん、か。そうかも知れないな」
ヴィンスは珍しく反駁することもなく、何故なのか満足そうに笑った。
その笑顔はなんだか寂しそうで、けれども反面、見惚れてしまいそうに美しくて、私はなんだかどきっとする気分を味わった。
「……何? ねぇヴィンス、本当に何かあったの?」
「なんでもないさ」
フウ、とため息をつき、ヴィンスは真っ直ぐ前を見た。
「あの後……お前と村で別れた後だ。口入れ屋に連れられて王都に来た後、いくつか場所を点々としてな。気がついたら俺は去る貴人の子飼いの見習い新兵になっていた。その時、国境の方で隣国の軍と小競り合いになってな。まだ子供だった俺もそこに出征することになった」
初めて聞く、私が知らない十年間の話――。
私がそれを黙って聞いていると、ヴィンスがぼんやりとした口調で続けた。
「小競り合いが思わぬ大戦に発展してな。死にものぐるいで剣を振るったよ。それまで人なんか殺した経験はなかった。だが死ぬのはもっと怖かった。だから血みどろになっても俺は剣を振り回し続けた」
ほう、とヴィンスはため息をついた。
「気がつけば俺の周りには幾つか死体が転がっていて、そのうちのひとつが敵将の一人だった。俺の功績ということになって、あれよあれよと話が大きくなってな――俺はエーデン騎士団に入ることを許可された。これでも異例の大出世だったらしいぞ」
「ふーん。ま、アンタは人一倍怖がりだったから。それがいい方向に出たのね」
私はあえて軽口でごまかした。
彼は怖がりで泣き虫だったけれど、人一倍優しかったから、人を殺めたことは決して忘れられない出来事に違いなかった。
どうあっても、彼は変わった。
おそらくその時に。
初めて人を殺め、その功績が認められた時に。
「それから、それなりに稽古もつけてもらって――騎士団の新兵なんていうものはどこでも鉄砲玉だ。俺は幾つかの討伐戦や戦争に駆り出され、常に前線に送られた。俺はそこでも死にもの狂いで剣を振るった。気がつけば俺の仲間はほとんど戦死していて――なんでかな、残ったのは俺だけになっていた」
ヴィンスは分厚く皮の張った掌を見つめた。
「五年、そこにいたよ。いつの間にかどんな戦場からも帰ってくる俺の話は騎士団の上の方でも有名になっていたらしい。ただ運がよかっただけ、俺はそう言ったが、周りは放っておいてくれなかった。ちょうどその時、百騎隊長の一人が引退することになって――俺は渡りに船で百騎隊長に抜擢された」
「なるほど、やっと謎が解けたわ。アンタが騎士団にいるのも、隊長なんかになってるのも不思議だったけど」
「それについては俺が一番不思議だよ――」
ヴィンスはそう言って太いため息をついた。
そこでしばらく、会話が途切れてしまい、私はつい口を開いた。
「この間の公爵令嬢様から聞いたわよ。アンタ、なんで貴族令嬢たちからの求婚を断ったりするの?」
その言葉に――ヴィンスが私を見た。
私は足元に視線を落としながら言った。
「アンタだってもういい歳でしょう。しかもアンタは社交界の出世頭、選ぼうにもよりどりみどりでしょうに。アンタ、噂になってるらしいわよ。王家のご落胤だから求婚を断り続けてるんだって」
「そ――そんな話になってるのか」
「なってるらしいわね」
私はつま先で地面をつついた。
「この間の公爵令嬢だって、性格はともかく、凄い美人だったじゃない。性格も顔もいい人だっているんでしょう? なんで身を固めないの」
私の問いに――ヴィンスは長く沈黙した。
それからヴィンスは顎をさすりながら言った。
「……俺は騎士だ。いつくたばるかわからん。そんな先をも知れぬ男の伴侶になってほしくない。それだけだ」
「嘘ね。アンタ、嘘つく時に顎を障る癖、まだ治ってないんだ」
「……ふん、目ざとい奴だな、お前も」
「カッコつけてないで本心を言え。他ならぬ私になら――」
「アロア」
ヴィンスの声が低くなり、私はヴィンスを見た。
しばらく、眉間に皺を寄せていたヴィンスは、それからゆっくりと、呻くように言った。
「変わったんだよ、俺も、お前も。昔みたいに何でもかんでも秘密を話すわけにはいかなくなった」
わかるだろ? というように、ヴィンスは頭を掻いた。
私はその所作と言葉が何故だか物凄く悲しくて、目頭が急に熱くなってきた。
私も、ヴィンスも、しばらく無言になってしまった。
ヴィンスはその沈黙から逃げるように立ち上がり、数歩歩いてから、こちらを振り返った。
「今回の遠征は少々派手な斬り合いになる予定だ。回復術士は同行するが、それでも消耗は激しいだろう。その時はまたここと、お前に世話になるかもしれない」
ヴィンスは事務的にそう告げた。
「アロア、忘れるな。俺は変わったんだ」
もう一度、ヴィンスは私を見て、氷結の聖騎士そのものの表情と声で言った。
「あのときの、何も知らないガキじゃない。お前の中ではまだそうなんだろう。けれど、少なくとも俺自身は、あの頃の自分と今の自分とは――違うと思っている。昔の俺のことは忘れろ。もうお互い――田舎の芋じゃない」
私は意地でも同意しなかった。
私は芋だ。煤と泥に汚れた芋のままだ。
アンタだけが一人勝手に芽を出して、美しく咲き誇る花になっただけだ。
でもその根っこには私と同じ、煤と泥に塗れた芋があるはずなのだ。
返事をしない私にほとほと困り果てたような表情を浮かべて、ヴィンスは無言で中庭を出ていこうとした。
「ヴィンス」
震えそうになる声を制しながら、私はその背中に言った。
ヴィンスは振り返ることもなく立ち止まった。
「風邪ひくなよ」
私の言葉に、フッ、とヴィンスが失笑したのが聞こえた。
そのまま、ヴィンスは中庭を出ていき――後には、溢れ出てくる涙を必死になってごまかそうとする私だけが残された。
それから半月後。
エーデン騎士団の一隊が敵軍の奇襲を受けて敗走し――『氷結の聖騎士』ことヴィンセント・ルーガンが重傷を負ったという報せが王都を震撼させた。
◆
「隊長の意識はまだ戻らないんですか? もう半月になるのに――」
松葉杖をついた新兵の一人が、縋るような顔で言ってきた。
私はなんとも答えようがなく、ベッドに寝かされ、寝息を立てているヴィンスを一度振り返った。
「――怪我は既に全部治しています。霊薬の類も使って傷は塞ぎました。けれど、いかんせん出血がひどすぎた。その時に無くした意識だけが戻らない。こればっかりは本人の回復力に期待するしかありません」
「そんな――! アロア姐さん、なんとかなりませんか!?」
肩から左腕を吊った新兵が私に詰め寄ってきた。
「隊長、あいつらの奇襲攻撃を受けた時、ほんの数人だけ残して俺たちを逃してくれたんです! なんとか増援を呼んで戻ったときには虫の息で……! 姐さん、隊長は俺たちの身代わりになってくれたんだ!」
そのことは何度も何度も聞いている。
他を逃して自分だけが被害を引き受ける――馬鹿野郎、まだお人好しが直っていなかったのか。
芋泥棒をしようが火遊びをしようが、大人から逃げる時は彼がいつも殿――捕まって絞られる役だった。
そのおかげで私たちはゲンコツを喰らうこともなく、尻を叩かれるわけでもなく、家に帰ってから痛い痛いと泣くのは彼の仕事だった。
だからって、自分の命がかかった戦場でまで同じことをする理由はないのに――。
「ねっ、姐さん! 俺たちの生命力を隊長に分けてやる魔法とかないんですか!? おっ、俺たち、何でもします! 隊長を助けてやってください!」
「残念だけど」
私は断固として首を振った。
「その類の魔法は救護院の規定で使えないの。それに、ヴィンスはそういう施しを一番嫌がる人間よ。あなたたちだってわかるでしょう?」
「けど――!」
「お願い、今はヴィンスを信じてあげて」
私は絶望を押し殺しながら、努めて気丈な声を発した。
「ヴィンスはね、もういつ目覚めてもおかしくはないの。それでも意識が戻らないのはきっかけがないからだと思う。そのきっかけはどこにあるかわからない。諦めずに言葉を掛け続けてあげて。それしかないわ」
私の言葉に、何人かの新兵が顔を伏せたり、目元を拭ったりし始めた。
『氷結の聖騎士』などと呼ばれてる割には、随分慕われているらしかった。
彼が十年で築き上げたものの大きさは、本人がモノ言わなくなった今こそ、よくわかった。
王や貴族からはひっきりなしに見舞いや容態を心配する手紙が相次ぎ、町人や農民でさえヴィンスの回復を願っている。
国の宗教的権威の象徴である教会すら、彼の意識回復を祈祷しているという噂まで聞こえてきているぐらいだ。
偉くなっちまいやがって。
私は嬉しいような寂しいような気持ちで新兵たちに言った。
「とにかく、しばらくの間は救護院が彼を全力で看ます。あなたたちも希望を捨てずに見舞いに来てちょうだい。頼んだわよ」
私の言葉に、新兵たちは各々に頷いた。
◆
「ヴィンス――」
私は静かに寝息を立てているヴィンスを、ベッドの横にある椅子に座りながら見つめていた。
昔、モヤシだった彼が風邪を引いて熱を出したときなどは、こうやって一晩中額の布を濡らし、交換してやったはずだった。
けれど、今の彼には熱はなく、呼吸は深く安定していて、容態は全く普通の健常者とかわらない。
ただ――意固地に意識だけを取り戻していないだけなのだ。
「アンタは本当に馬鹿。風邪引くなよって言ったじゃない」
これで何回目になるかわからない憎まれ口を叩いても、答える声はない。
それでも、私は聞こえていることだけを願って、声をかけ続けた。
「ま、私なんかが言っても、もうアンタには届かないかもしれないけど――」
私はヴィンスの無防備な寝顔を見つめた。
あの頃とは違う、愛らしさではなく、凛々しさを湛える顔を。
寝癖がひどい猫っ毛だったのに、今やすっかりと強くなった髪を。
私の知らない内についてしまった傷跡を。
私の知っている傷跡を――。
彼は変わった。そして私は変わっていない。
如何に地面の下にあるのが同じ芋でも、彼は美しく花を咲かせ、私は日陰で青くなってゆくだけ。
進む道が違ってしまったのに――私なんぞがまだ彼を心配しなければならない理由はあるのだろうか。
「ねぇヴィンス。覚えてる? 私たちが別れる最後の日――」
ぽつり、と、私の口からついつい昔話がこぼれ落ちた。
「あなたが十三歳のときだった。急にあなた、王都で生活したいって言い出して、お父様とお母様を困らせたのよね。領地で仕事を世話してやるって言っても、僕は王都に出て一旗揚げるんだって、広い世界を見たいんだって、すごく強情に言い張ってね――」
彼が私の父と母にそんな風に抵抗するのは初めてのことだった。
おかげで私と私の両親はヴィンスの強情に困るよりも驚いてしまったのだった。
まぁ――それが彼なりの決意だったことは、おそらく両親だって気づいていた。
このまま私の家の厄介になり続けるわけにはいかない、そう思っていたに違いない。
「それから二月ぐらい経って、村に王都からの口入れ屋が来てね。あなたは他の村の男たちに混じって、それについていくことになった。口入れ屋が心配してね。この子はやけに発育が悪いなぁって、肺でも病んでるんじゃないかって……」
あのときのヴィンスは正真正銘のモヤシ少年だった。
風邪を引けば長引くし、かけっこでも常にビリだった。
口入れ屋が心配するぐらい、当時の彼は弱くて、細くて、小さかった。
「もうひとつ困ったのがアンタよ。アンタ、王都に行く前日の夜からずっと泣き続けてね。なんで泣いてるんだって訊いても答えない。答えない癖にわんわん泣くのよ。私たちと別れるのが寂しかったんでしょう? それでも、アンタは頑としてそうは言わなかった。アンタ、昔からそういうところが偏屈よね。直しなさいよ」
私はジロリとヴィンスを睨んだ。
睨んでから――あのモヤシ少年の中に、モヤシなりに固まっていた将来への決意の形を、私は今のヴィンスの顔に見ていた。
「村の男たちに混じって王都に出発する時――急にアンタが泣かなくなった。ぐっと歯を食いしばって、握り拳を固めてね。元気でねって言ったお父様とお母様に答えずに、アンタはぐいっと私を見て、それからうーって唸りだしたのよね」
本当に――当時の彼は情けなかった。
不器用で、弱くて、要領が悪くて、自分の意見などなにひとつ言えない弱い存在だった。
私はその唸り声が怖いと言うより不気味で、思わず顔を顰めた、その次の瞬間――。
「アンタは覚えてないんでしょうね。その時、私になんて言ったかなんて――」
ハァ、とため息を吐いて、私はヴィンスの耳元に囁いた。
『大好きだよ、アロア!』
「大好きだよ、アロア」
少年が――ヴィンスが、目を真っ赤に泣き腫らしながら、洟を垂らしながら、私に向かって叫ぶ。
『僕が大人になったらきっと君のことを迎えにくる!』
「僕が大人になったらきっと君のことを迎えにくる」
私は――その時人生で初めて、羞恥で何も言えない気分を味わった。
周りの大人たちが振り返るほどの大声で。
村中に聞かせようとするような大声で
世界に宣言するかのような大声で。
ヴィンスは私に何度も何度も「大好きだ」と言った。
『アロア、大好きだよ! 絶対に僕は君を忘れない! 大好きだよ、アロア――!』
「アロア、大好きだよ。絶対に僕は君を忘れない。大好きだよ、アロア――」
言ってる内に、半月前に枯れ果てたはずの涙が溢れてきた。
忘れようと思っても忘れられなかった。
何度過ぎたことだと割り切ろうとしても割り切れなかった。
いくら彼と私が変わってしまったからと言って――この思いだけは、変われなかった。
ちくしょう、なんでコイツは目を覚まさないんだ?
私のことなど置き去りにして勝手に変わりやがって。
こんなに変わるんだったらなんであんな事を言ったんだ?
この十年、あのときの言葉だけを信じて王都にやってきたのに。
顔や外見や立場が変わっても、変わっていてほしくないものがあったのに。
アンタだけが忘れてしまっても、私には忘れることなんてできやしないのに。
「一方的に恥ずかしいこと言いやがって、ばかやろう――」
私はヴィンスの手を握った。
節くれだって、分厚く皮が張って、傷だらけの手。
その手は温かいけれど、私の手を握り返してはくれない。
否――彼は、握り返すわけにはいかなくなったのだ。
「ヴィンス、私も大好きだよ」
私は十年ごしで、あのときの言葉に答えた。
涙がぽたぽたとシーツに落ちて染みを作った。
「どんくさくて、弱虫で、泣き虫で、三人一組になれば必ず二対一でイジメられるあなたが」
それなのに、人を疑うことを知らなくて、人一倍優しくて、やり返さない強さと優しさを持ったあなたが。
「弱くて、細くて、小さくて、偏屈なあなたが――私だって大好きだった」
それなのに、優しくて、繊細で、妙なところで強かだったあなたが。
「ばかやろう、なんで……なんでよ。折角答えたんじゃない。嬉しいって言ってよ、大好きだって、一緒にいてほしいって言ってよ――!」
私の目からとめどなく涙が流れた、その瞬間だった。
ハァ……という、重苦しいため息の音が聞こえて、私は顔を上げた。
えっ、誰のため息だろう……? 私がきょろきょろとあたりを見回した、その時。
「――俺だって、忘れたことなんかなかった」
はっ――!? と、私はヴィンスを見た。
ヴィンスは目を閉じたまま、深く息を吸い――そして、安堵したかのようなため息をついた。
「忘れてるんじゃないかって、ずっと怖かった。こんなことは忘れてしまえとずっと思っていた。何度も危ない橋を渡った。その度に怖かった。自分が消えれば――この事もなかったことになってしまうんじゃないかって」
「ヴィンス……」
「なかったことにしないためには、死にものぐるいで戻るしかなかった。敵を斬り殺して、死線をかい潜って。それしか俺にはやり方がわからなかった……」
「ヴィンス……!」
私は涙でぐちゃぐちゃの声と共に、握った彼の手を頬に押し付けた。
私を感じて。私はここにいる。忘れてない、あなた以上にあのときのことは覚えているのだと。
そう教えないと、せっかく目を覚ました彼が目の前から消えてしまうかもしれない。
その恐怖を感じて、私は手を握る力を強くした。
私がそうすると、彼は左手を上げ、腕で目の辺りを隠した。
それから、あー……と気の抜けるような呻き声を上げて、私宛だろう恨み言を吐いた。
「馬鹿野郎、本当に……なんでお前はそんなくだらないことまで覚えてるんだ。忘れててほしかったのに、ちくしょう……本当に変わらないな、お前」
くくっ、と低く笑ったヴィンスに、私はぶんぶんと首を縦に振った。
「そうだよ、今でもそう……! ヴィンスはヴィンス、私は私だよ。私が保証する。あの時となんにも変わってないから……!」
私が言うと、ヴィンスが目を開いた。
そのまま、ごろりと横になって私を見たヴィンスは、私に向かって言った。
「その時のことは忘れていない、覚えてる――ただいま、アロア」
うん、と、私は頷いた。
何度も何度も。
「あんまり迎えに来るのが遅いから、こっちから来ちゃったわよ、馬鹿」
「へへ、悪いな。それに、怖かったんだ。あんまり俺が変わったから――」
「何言ってんのよ。何度も言うけど、アンタのそういうところ、本当に変わってないわうよ」
「ぬ――。う、うむ……考えようによってはそうかもな」
そこまで言って、私たちがへらへら笑い合ったときだった。
「おい、押すなよ――!」の一言とともに、どしゃっ、となにかが崩れる音がして、私たちは病室の入口の方を見た。
そこに折り重なっていたのは、ヴィンスの部下たち――毎日毎日、隊長の病状回復を今か今かと祈り続けていた人間たちだった。
「おっ、お前ら――!」
ヴィンスが目を剥いても、へへへへ、と兵士たちは不敵に笑うだけだった。
それから一人の兵士がいやらしい笑い声と共に言った。
「隊長! やっぱり隊長の婚約者ってアロア姐さんだったんですね!」
えっ? 婚約者?
私がヴィンスを見ると、ヴィンスの顔がみるみる真っ赤になった。
「バレバレっスよぉ! いつもいつもそうやって俺には心に決めた相手がいるんだって思わせぶりなこと言って、引く手あまたを断って!」
「そのくせ自分からはなんにも言わねぇし、相手がどこの誰だっても言わないから他の貴族令嬢がやきもきするんスよ!」
「そうそう、早いとこ一発唇でも奪って、俺たちはこういう関係なんだって言っちまえばみんな納得したのに!」
「隊長は本当にそういうことオクテっスよね! まぁそこがまたカッコイイんですけどね!」
「しかしまぁ、なんかカユくねぇかお前ら!?」
「ああ、カユいカユい! 蕁麻疹が出るわ!」
「隊長にも青春ってあったんだな!」
「俺も隊長に大好きだよって言われてみてぇ!」
「うげぇ! ホモかよお前!」
「何いってんだよ! 隊長になら抱かれてもいいさ!」
やいのやいの大盛りあがりする部下たちを見て、ヴィンスが頭を抱えた。
全くこいつらは……とその口が動いたのをみて、私も笑ってしまった。
どうやら、本当にヴィンスはみんなから慕われているらしかった。
そこには氷結の聖騎士なんて、どこにもいなかった。
ただ、ちょっと成長しすぎた芋が二つ、転がっているだけだった。
「うっ、うるさいお前ら! 盗み聞きもいい加減にしろ! ほら、散れ! 散れと言っとろうが!」
ヴィンスがひとつ雷を落とすと、うわー隊長が怒った! 逃げろ―……とばかりに、兵士たちは散っていった。
相変わらず、いちいち几帳面に赤面するヴィンスに笑ってしまった私は、立ち上がって強く涙を拭った。
「さ、元気になったなら騎士団に報告するわ。救護院のみんなにも……」
そう言って立ち上がったときだった。
ぐっと背後から手首を掴まれた私は、後ろを振り向いた。
いつの間にかベッドの上で上半身を起こしたヴィンスが、うつむきながら私の手首を握っていた。
「え、ヴィンス……?」
「待て。まだ――話してないことがあるだろう……」
なんだか歯切れの悪い言葉とともに、ヴィンスはぼそぼそと言った。
次に明後日の方向を向き、しばらく沈黙したヴィンスは、それからあーっとむしゃくしゃしたように唸り、頭を掻きむしった。
「な――何よ?」
「う、うるさい……あの、それでな」
「何?」
「その……どうなんだ?」
「何が?」
ヴィンスは、さっきにも増して顔が赤くなっていた。
いや、赤いというより、赤黒いというか……。
その顔と、もじもじさ加減を見れば、だいたい何を言いたいのかは察せられたけど――。
私はその、子供に戻ってしまったような表情が見たくて、敢えてとぼけたふりを続けた。
「そ、それは……その、俺の十年前に言ったことについてだ」
「はぁ?」
「い、いいのか――悪いのか、満足なのか不満なのか、嬉しいのか気持ち悪いのかだ」
「アンタ、どっか頭打ったんじゃないの? 何が訊きたいの?」
「そ、それは……」
「それは?」
「う、あああああ! もう、察しろ、馬鹿っ!」
あまりイジメすぎたものか、遂にヴィンスはやけっぱちの声を出した。
そして私の手首をぐいと引いて、泣きそうに真っ赤な顔で言った。
「お――俺の求婚を受けるのかどうかという話だ! どうなんだ!? まだお前の口からハッキリとは聞いていない! お、俺はお前しかいないとずっと前から思っているが、おっ、お前はどうなんだ――!?」
全く――私はその言葉に、驚くとか嘆くとかする前に、笑ってしまった。
これを言うまでに十年、か。随分長く時間がかかったものだ。
氷結の聖騎士と恐れられる百騎隊長。
社交界の花。
出世街道をひた走る精鋭。
滅多に取り乱すことのない氷の騎士。
それがどうだろう。
私の前だと、この人はこんなにも一瞬で情緒がメチャクチャになる。
青くなったり、赤くなったり、笑ったり怒ったり嘆いたり、色んな表情をする。
鎧のようにまとっている空気も、重ねた経験も、積み上げたイメージも。
何もかもまるで役に立たなくなってしまう、私だけの可愛い幼馴染――。
「はい、よくできました。モヤシで泣き虫のヴィンス君」
にっこり笑って、私はヴィンスの鼻先を指で弾いた。
あ痛て、と間抜けな顔で私を恨みがましく見つめた彼に向かって。
私は十年間温め続けた、とっておきの返答をした――。
ここまでお読みいただきありがとうございました。
うん……はい、こういう話です。
もっとこう、書き方があったような気がしますが、うん……はい。
どうしても……はい。
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