1-8.父として
1-8.
ライハルトが階下へ降りたのは、もうすっかり日が高くなってからだった。
立ち上がって誰かに会うのは気が進まなかったが、大分咽喉も乾いたし、腹も空いていた。
階下からは、慌ただしく人が行き交う音が聞こえていたし共に混じる怒声も怖い。
グリード伯爵が非業の死を迎えた翌日にはあまりにも相応しくない喧騒と、この時間になっても誰も部屋へライハルトを起こしに来ないという不気味さに、できるだけ誰にも見つからないよう息を潜めて、食堂に向かった。
「だから、俺は、ライハルトに、グリード伯爵として誇りある暮らしを与えてやりたかったんだ。それだけで」
「だからって! あぁ、もうなんてことをしてくれたの!!」
父と、祖母が言い争う声がする。
「だって! 犯罪者は取り締まって貰わないとだろう?! 今すぐ捕まえて貰えれば奪われた金を取り返せるかもしれないだろ?!」
「この馬鹿! だからって、王宮のエントランスホールで、誰彼構わず縋りついて、グリード伯爵家の恥を叫んで回る必要はなかったでしょう!? それに、犯人はもうこの国にはいないのよ! 出国済みなの」
「なんだって?! 出ていった先の国は?! どこなんだ? その国に伝えて、奴らを捕まえて貰わなければ」
「馬鹿!!!」
パシン。
父の頬が、乾いた音を立てた。
祖母が、自身の手を反対側の手で押さえて肩と足、全身を震わせながら父の前に立ち塞がっていた。
廊下においてあった花瓶立ての陰から父と祖母を覗き見ていたライハルトがその身を竦ませ、完全に陰に隠れた。足が竦んで動けなくなったともいう。
その場に座りこんだまま、二人の会話を盗み聞きした。
あまり褒められたことではないと分かっていたし、誰か大人に見つかりでもしたらそれが使用人であろうとも母か父へと報告がいって怒られるのは間違いないだろう。
そう分かってはいたけれど、ライハルトは会話の続きが知りたかった。
「あの詐欺グループに引っ掛かったのは、貴方だけじゃないわ。ただし、最高額は貴方。おめでとう。他の誰よりも多大な報酬を彼らの与太話に払ったのは貴方よ、私の愛するバカ息子」
「なっ……なっ。バカとは言い過ぎではありませんか? それに、跡取り息子……いや、現グリード伯爵家の当主となった僕の頬を、母とはいえ女性の身でありながら叩くなど」
「聞きなさい、バカ息子。この国に、他国に向かって『巨額な詐欺に引っ掛かって財産を奪われた貴族がいる』と伝させたいの? どれだけ大きな恥を、国に掻かせるつもりなの?」
「それはっ! でも、だって。だったら、どうしろっていうんだ! 奴等は犯罪者なんだぞ? 犯罪を放置するというのか、この国は!」
「いいや。我が国では犯罪者を放置などしないさ。ただし、犯罪者としてその責を負うのは、君だ。エリハルト・グリード」
「!?」
割って入ってきた声の持ち主は、黒い軍服を着た年嵩の精悍な男性だった。
その男性の声に、ライハルトは聞き覚えがあった。
そろりと陰から少しだけ身を伸ばし、その男性の姿を確認した。
年齢を感じさせない広い肩幅から続く、背中と腰の筋肉。
特徴的な、音の立たない足の運び方。
「ぶ、ブラン伯爵っ」
いつも通りの平穏な一日を送った最後の日。一昨日、訓練所で顔を合せたブラン伯爵その人だった。