8-3.貧乏令息、寮へ戻る
8-3.
「もうすぐラキサ学園男子寮へ着きます。ですが、申し訳ありませんがやはり門限には間に合いそうにないです」
次に小窓が開いて御者から申し訳なさそうに声を掛けられた時には、すっかり夜になっていた。
御者の向こうに見える空には星が瞬いて見える。
呼び出しベルを鳴らして門を開けて貰う事も考えたが、それで騒ぎを起こすのも躊躇われた。少し考えて、やはり奥の手を使うことにした。
「すみませんが、建物の裏側へ廻って頂けますか?」
「あぁ。裏庭から入れるといわれてましたね」
御者がにこっと笑った。貴族の子息といえども学生がやりそうなことだと思ったのだろう。
そのまま馬車は軽快に走り続け、そうしてついに速度が弛められた。
「この辺りで宜しいでしょうか」
掛けられたその声に、ライハルトは窓の外を確認して了承すると馬車は静かに停車した。
大きく息を吐き、開けられた扉から外へ出た。
「ありがとうございました。快適な馬車の旅でした」
「門限の時刻前に着けずに申し訳ありませんでした」
礼を告げたライハルトに御者が謝る。
少しシュールな状況に、ライハルトはゆるりと笑顔になった。
「遅くなったのは私が領地を出るのが遅くなったからですし、王都に入ってからは速度を上げる訳にはいきませんからね。今日中に着けただけでもありがたいです」
街中それも夜間の走行で速度を上げたりして事故でも起こしては目も当てられない。そう伝えれば、御者も笑顔になって頷いた。
手荷物を下ろして貰って受け取り、再度礼を伝える。
「こちらをどうぞ。本当は未来のアレッサンドラ様の夫となられる御方に、このような庶民の食べ物をお渡しするのもよくないのでしょうが、夜も遅いので持ち帰れそうなモノが他に手に入らなくて。申し訳ありません」
差し出されたのは、肉が挟まれたパンだった。受け取った手に、じんわりと熱が伝わってくる。
「ありがとうございます。夕食は諦めていたところだったので嬉しいです。幾らだったか教えてくれますか?」
「滅相もありません。気になさらないで下さい」
「それは困ります。……これで足りるでしょうか」
懐から取り出した財布から、銅貨を取り出そうとして一瞬躊躇い、ライハルトは銀貨を差し出した。
そういえば、世の中にはチップというものが存在する。
ライハルトの生活の中ではそれを払うような機会はこれまで一度も無かった。
けれどもすでに借金の無くなった身で、甘えたことは言っていられないだろう。
これからは、貴族としての矜持も持たねばならないのだからと差し出した手が震えないよう気を付けながら差し出した手は、しかし笑顔で押し戻された。
「私はラート家の使用人ですから。それをライハルト様から受け取る訳にはいきません」
そういうものなのかとライハルトは押し返された銀貨を握りしめた手を見つめた。
「ライハルト様。どうか、アレッサンドラ様を幸せにして差し上げて下さい。私のような立場の者が言う言葉ではないと思うのですが、本当に素晴らしい御方なのです」
深く頭を下げる御者に、ライハルトはふっと心が温かくなった。
「勿論です。約束しましょう。元からそのつもりではありますが、ラート家で働く方にそう言って貰える素晴らしい方なのだと、心しておきます」
「ありがとうございます。屋敷に戻ったら皆に安心するよう伝えます。おやすみなさいませ」
「おやすみなさい。感謝します」
寮に入るまで見送るというのを「寮生だけの内緒の通路なので」とライハルトが笑って断ると、御者も笑って去っていった。
馬車が道を曲がり、音が遠ざかっていく。
目の前の高い塀の向こうに建つ、少し古惚けてはいるものの立派な意匠の建物を見上げる。
そうして、ライハルトは煉瓦をひとつ引き抜くと、そこに隠されていた扉を開いた。
本来、火災などが起きた時に素早く避難できるように内側からのみ開けられる構造であったこの隠し扉は、ある寮生の手により外からでも開けられるように改造されているのだ。
ちいさな扉を潜り抜け、外した煉瓦を裏から慎重に戻した。
煉瓦を差し込む向きを間違えると扉が上手く閉まらないのだ。
ごそごそと作業をしているライハルトに、灯りが向けられた。
「おい、気安くこの扉を使うな。今ならまだ表に灯りがあっただろう」
ランプを掲げている男性から、軽く叱責を受ける。
眩しさに手を翳してよく見れば、そこにいたのは寮長であるリーンだった。
「寮長! えーっと、ただいま戻りました。予定より遅くなってしまったのと、できれば今日は疲れたので誰にも気づかれずに部屋に入りたいなぁって。……すみません」
この隠し扉を改造したのは学生であった頃のリーンだという。
門限厳守に煩い当時の寮長を出し抜く為の仕業だったそうだが、現在は寮長を勤めているリーンが門限破りを取り締まる立場となっていると思うと何故だが毎回笑いそうになる。
「早く戻して部屋に行け。ちなみに夕食は残ってないぞ」
「ですよね、はは。でも大丈夫です。ここまで乗せて頂いた馬車の、御者の方が善い人で買っておいてくれました」
鞄の上に置いておいた、少し冷めてきているそれを手に取り掲げてみせる。
手の中で、それはまだ温かかった。
「そうか。……よかったな」
「はい」
なんとか作業を終えたライハルトは手に付いた土埃を払って、寮長と向き合った。
「……早く寝ろ。今日までの事も大変だったろうが、明日もきっともっと大変だぞ」
多分、学園にも婚約の件だけでなく父エリハルトについても報告が行っているのだろう。寮長が少しだけ寂しそうな顔をしていた。
学生時代の父について、寮長の口から詳しく聞いたことはなかったが、それでも見合いの為に迎えにきた父と寮長の会話には確かに親しさを感じさせるものがあった。
「はい。明日の朝、きちんと説明とご挨拶に伺いますね」
「俺にはいらんよ。ただし学園長にはしておいた方がいいな」
ひと言で拒否されたけれど、何故か嫌な気分にはならなかった。
多分、寮長の目に優しさがあったからだろう。これが哀れみや蔑みだったら今夜は眠れなくなるところだった。
「はい。ではおやすみなさい」
ライハルトは大人しく引き下がり、就寝の挨拶を交わすことにした。
「あぁ、おやすみライハルト。……よかったな。本当に良かった」
「寮長……。はい、ありがとうございます」
寮長が見守る中、ライハルトはそっと裏口から久しぶりとなる男子寮へと足を踏み入れた。